反逆者 3
シャワーを浴びたアズケンは、畑を離れる前に猿田の下へ向かった。たった一週間だけだったし、たがいに打ち解けたとも言えないが、彼のお陰で大きな揉め事もなく過ごせたことは間違いない。せめて、そのお礼だけでも伝えてから去りたかった。
自分よりも拘束時間が長い作業員たちは皆、まだ畑で作業中だ。猿田もまた、一番手前の畝で、熱心にサツマイモの泥を落としているところだった。
「猿田さん」
「やあ、東さん。お疲れ様でした。今日は人参の方を手伝ってくださってましたね。すっかり手慣れた感じだし、本当に助かってます。ありがとうございます」
相変わらず丁寧な態度を崩さない猿田だったが、アズケンの顔を見て何かを察したらしい。たたえていた笑みが、ふっと変わった。今までよりもずっと静かな、けれども素の彼が感じられる微笑になって、こちらを見つめてくる。
「ここを離れられるんですか」
「はい」
「そうですか」
一つ頷いたあと、「こんなことを私が言っていいのかどうか、わかりませんが」と猿田は愛用のキャップを取った。スポーツ刈りのごま塩頭に手をやって、今度は大きく笑う。
「せっかくだから、ぶっちゃけますね」
「はい」
アズケンもなんとか笑顔を返す。
「東さんみたいな人が、ここにいちゃあいけません。何か理由があって身を隠されてるようですが、あなたが手伝うべき人は他にいるはずです。それは絶対、私たちじゃない」
「……すみません」
謝る筋合いではないのに、謝罪の言葉がこぼれた。その通りに猿田が、「謝らないでください。あなたは何も悪いことをしてないじゃないですか」とキャップを振ってみせる。
「私たちのことなら、心配せんでください。大丈夫。世の中がよくなるまで、ここでしぶとく生き延びてみますよ」
「猿田さん……」
生き延びる、という台詞が胸に沁みた。冗談でもなんでもなく、この人たちはそういう環境で生活しているのだ。
「だから」
微笑みはそのままに、彼が瞳に力を込める。
「できるだけ早く、ナナ様を助けて世直ししてくださいね。こっそり応援してますから。『世界で二番目に速い男』と一緒に野良仕事できて、嬉しかったです」
「!!」
アズケンが目を見開いた瞬間には、猿田はもう何事もなかったかのように「じゃ、お疲れ様でした」といつもとまったく変わらない調子で告げ、背中を向けていた。
「猿田さん、知ってたのか」
「あなただって有名人なのよ。たまには自覚しなさい」
クロスバイクを漕ぎ出したアズケンがつぶやくと、またしても勝手に起動していたナナ・アリーに姉のような調子で返された。視界の端では、さっきまでいた畑や寮が、あっという間に流れていく。
「有名人って言ってもなあ」
所詮はマイナー競技の、しかも引退した身だ。現役時代ですら街で声をかけられることは少なかったし、こうして逃亡生活を送る原因となった先日の動画に関しても、堂々とナナを擁護したのがあの東剣ではないか、などと話題になるようなこともなかった。その動画だって、おそらくは公安の圧力で今はもう削除されている。
「それよりアズケン」
「なんだ?」
ちょうど赤信号で停まったタイミングを見計らって、ふたたびナナ・アリーが話しかけてきた。
「お金はじゅうぶん持ってきた? もちろんカードでもいいけど」
「大丈夫だ。生活費二ヶ月分くらいはおろしてある。大金を持ち歩くのは、ちょっと怖いけど」
杉並のアパートを脱出した晩、万が一を想定してコンビニのATMに飛び込んだのだった。その後もネットを通じて何度か確認したが、今のところ口座もカードも凍結されてはいない。さすがに公安も、そこまで強引な手段は取らないということだろうか。
「ならよかった」
安心した様子で頷くナナ・アリーを見て、アズケンはすぐに理解した。
「次は遠くに逃げるのか?」
「ええ。飛行機とか新幹線とまではいかないけど、特急でちょっと東京を離れてもらおうと思ってる。ごめんね」
「いや、全然気にしなくていい。君のお陰でこうして無事でいられるんだし、むしろ感謝してるよ」
本心からの言葉だった。結果としてふたたび逃げ出そうとしてはいるが、彼女のお陰で襲撃される前にアパートを脱出できたし、少なくともこの一週間、食事と寝床には困らなかったのだ。しかも口ぶりから推測するに、次の当てまであるらしい。
「色々ありがとう」
正直に伝えると、ナナ・アリーは表情が見えているかのように、「ううん、こちらこそ」と小さく首を揺らしてくれた。
夕食後、アズケンは凛堂に「あまり長いことご迷惑はかけられませんし、地方の友人も声をかけてくれたので」と適当な言い訳をして、クチーナ・エッレを離れたい旨を伝えた。
「そうですか。短い間だったとはいえ、何もお役に立てずすみませんでした」
もっと詮索されるかとも思ったが、凛堂は相変わらずの紳士的な笑顔とともに、あっさりこちらの希望を受け入れた。ありがたくはあったが、この店の真相を知った今となっては、彼の笑顔もどうしても偽善的なものに見えてしまう。
「いえ。本当にお世話になりました。どうもありがとうございました」
頭を下げたアズケンは、合わせて今夜中にも出発することを告げ、さっそく荷物のまとめに取りかかった。といってもスポーツウェアばかりの着替えが数着と、あとは現金やAフォンをはじめとする貴重品だけなので、脱出時同様にスゴバッグ一つに詰め込むだけの話だ。
借りていた屋根裏部屋から一階に降りと、店はディナータイムに入ったところで、スタッフたちが慌ただしく立ち働いていた。彼らに目顔だけで礼をして外に出る。ナナ・アリーによれば、今度は電車移動らしいので、まずはクロスバイクをどこか安全な場所に置いていかなければ。
母校の修身院大、もしくは現役時代所属していたスポーツ用品メーカー『カヤノ』社あたりなら大丈夫だろうか、と頭の中で算段をつけながら駐輪場に回ったアズケンの目に、だが予想外の光景が飛び込んできた。
「え!?」
愛車自体は、夕方駐めたのとまったく同じ場所にある。ただし、鉄パイプで組まれたスタンドに繋ぐチェーンの数が、明らかに増えていた。自分がかけたカバーつきの一本だけでなく、むきだしの鉄で作られたいかついそれがさらに数本、前輪にも後輪にもがんじがらめに巻きつけられている。
一瞬、たちの悪い嫌がらせかと思った。が、すぐに否定する。こんな嫌がらせ、聞いたことがない。駐輪中のロードバイクやクロスバイクが盗難される事件は多いけれど、逆にチェーンを増やすなど前代未聞だ。まるで自分を、ここから動けなくするかのような――。
そう考えた直後、アズケンは弾かれように顔を上げた。まさか。
同じタイミングで背後から声がかかる。
「駄目ですよ、東さん。もっとうちにいてくれないと」
振り向くと、いつの間にか駐輪場の出入り口に井上が立っていた。
「井上……さん」
「駄目ですよぉ。せっかく『世界で二番目に速い働きアリ』が手に入ったと思ったのに」
妙にしなを作った上目遣いで言いながら、カメリエーラ姿の彼女が近寄ってくる。一歩、二歩。
蔑むような口調で紡がれた「働きアリ」という言葉と、何より目だけが笑っていない表情に、アズケンは反射的に「やばい」と感じた。あの朗らかな姿には、やはり裏があった。彼女もまた、普通じゃない。
「これは君の仕業か?」
なんとか気を取り直して、愛車を指さして小さな顔を睨みつける。けれども井上はまったくひるまず、異様な笑顔のままむしろ楽しそうに語り続けるばかりだった。
「行く当てのない下層市民の皆さんを引き取って、働きアリとして上級国民たちに奉仕する機会を提供してあげる。素晴らしい活動ですよね。しかもそこには、お尋ね者に落ちぶれた元メダリストまでいる。うん、話題になること間違いなしです。スポンサーさんも増えるといいなあ」
スポンサーというのは言うまでもなく、レジスタンス活動のそれだろう。
「だから東さんも、ここにいてくださいよぉ。私、こう見えて偏見はないですから。上級国民としていろいろ東さんに教えてあげます」
「ふざけるな! そういう考え方こそ、あらためなきゃいけないんだろうが!」
声を荒げながら、洗脳という単語がアズケンの頭に浮かんだ。凛堂の仕業かどうかは知らないが、井上は完全に歪んだ価値観を植えつけられている。上級国民であることにおかしな優越感を覚え、それを笠に着て一般国民を見下す醜い思想。
「どうしてです? だって私は上級国民ですよ? 国が認めた、他人の上に位置する存在なんです。だから東さんも手元に置いておくの」
何が「だから」なのか、さっぱり意味がわからない。我ながら芸のないことだが、もう一度「ふざけるな」と言ってやろうとしたところで、アズケンは息を呑んだ。
スラックスのポケットから取り出したのだろう、井上の右手に何かが握られている。懐中電灯かとも思ったが、違う。駐輪場にも照明はあるので、周囲の明るさはじゅうぶんだ。何より、アズケンは似たような物体を知っていた。昔ナナが「自分でもこれを持たされてるの」と、こっそり見せてくれた物騒なもの。
「いくら東さんでも、自慢の脚にこれを当てられたら逃げられないでしょ?」
スイッチを入れたのだろう、バチッという音とともにスタンガンの青白い火花が弾ける。
……これじゃ、公安に捕まった方がましだったかもな。
危険極まりない状況だが、アズケンは妙に落ち着いていた。ここから逃げることに、完全に後ろめたさがなくなったからだろうか。知り合いとその店がおかしくなってることぐらい調べておけ、とメリッサにあらためて文句を言ってやらなければとも思う。
「あんたらみんな、間違ってるよ」
言っても無駄だとわかっていたが、一応伝えておく。身体の角度を変える時間を稼ぐために。井上の脇から、駐輪場の出入り口が窺えるようにするために。クロスバイクに乗る直前だったので、幸いなことにスゴバッグもベルトでしっかり胴体に固定してある。しかも自分は現役時代、スタートダッシュに優れるタイプのスプリンターだった。
あとはタイミングを見て、やるだけだ。
「私、東さんのこと、ちょっといいなあって思ってるんですよ?」
表情同様に怖ろしいことを井上が言い出したタイミングで、準備は整った。身体一つぶんだけだが、トラック上のコースよろしく彼女の左脇が空いている。これまたトラック同様に緩やかなカーブで走り抜ければ、すぐ出入り口に到達できるはずだ。
アズケン!
学生時代の試合会場のように、脳裏でナナと、ダイと、メリッサの声がこだました気がした刹那。
エネルギーを蓄えていた右脚で、アズケンは爆発的に地面を蹴った。