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上級国民  作者: 迎ラミン
第二章 反逆者
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反逆者 3

 シャワーを浴びたアズケンは、畑を離れる前に猿田の下へ向かった。たった一週間だけだったし、たがいに打ち解けたとも言えないが、彼のお陰で大きな揉め事もなく過ごせたことは間違いない。せめて、そのお礼だけでも伝えてから去りたかった。

 自分よりも拘束時間が長い作業員たちは皆、まだ畑で作業中だ。猿田もまた、一番手前の畝で、熱心にサツマイモの泥を落としているところだった。


「猿田さん」

「やあ、東さん。お疲れ様でした。今日は人参の方を手伝ってくださってましたね。すっかり手慣れた感じだし、本当に助かってます。ありがとうございます」


 相変わらず丁寧な態度を崩さない猿田だったが、アズケンの顔を見て何かを察したらしい。たたえていた笑みが、ふっと変わった。今までよりもずっと静かな、けれども素の彼が感じられる微笑になって、こちらを見つめてくる。


「ここを離れられるんですか」

「はい」

「そうですか」


 一つ頷いたあと、「こんなことを私が言っていいのかどうか、わかりませんが」と猿田は愛用のキャップを取った。スポーツ刈りのごま塩頭に手をやって、今度は大きく笑う。


「せっかくだから、ぶっちゃけますね」

「はい」


 アズケンもなんとか笑顔を返す。


「東さんみたいな人が、ここにいちゃあいけません。何か理由があって身を隠されてるようですが、あなたが手伝うべき人は他にいるはずです。それは絶対、私たちじゃない」

「……すみません」


 謝る筋合いではないのに、謝罪の言葉がこぼれた。その通りに猿田が、「謝らないでください。あなたは何も悪いことをしてないじゃないですか」とキャップを振ってみせる。


「私たちのことなら、心配せんでください。大丈夫。世の中がよくなるまで、ここでしぶとく生き延びてみますよ」

「猿田さん……」


 生き延びる、という台詞が胸に沁みた。冗談でもなんでもなく、この人たちはそういう環境で生活しているのだ。


「だから」


 微笑みはそのままに、彼が瞳に力を込める。


「できるだけ早く、ナナ様を助けて世直ししてくださいね。こっそり応援してますから。『世界で二番目に速い男』と一緒に野良仕事できて、嬉しかったです」

「!!」


 アズケンが目を見開いた瞬間には、猿田はもう何事もなかったかのように「じゃ、お疲れ様でした」といつもとまったく変わらない調子で告げ、背中を向けていた。




「猿田さん、知ってたのか」

「あなただって有名人なのよ。たまには自覚しなさい」


 クロスバイクを漕ぎ出したアズケンがつぶやくと、またしても勝手に起動していたナナ・アリーに姉のような調子で返された。視界の端では、さっきまでいた畑や寮が、あっという間に流れていく。


「有名人って言ってもなあ」


 所詮はマイナー競技の、しかも引退した身だ。現役時代ですら街で声をかけられることは少なかったし、こうして逃亡生活を送る原因となった先日の動画に関しても、堂々とナナを擁護したのが()()東剣ではないか、などと話題になるようなこともなかった。その動画だって、おそらくは公安の圧力で今はもう削除されている。


「それよりアズケン」

「なんだ?」


 ちょうど赤信号で停まったタイミングを見計らって、ふたたびナナ・アリーが話しかけてきた。


「お金はじゅうぶん持ってきた? もちろんカードでもいいけど」

「大丈夫だ。生活費二ヶ月分くらいはおろしてある。大金を持ち歩くのは、ちょっと怖いけど」


 杉並のアパートを脱出した晩、万が一を想定してコンビニのATMに飛び込んだのだった。その後もネットを通じて何度か確認したが、今のところ口座もカードも凍結されてはいない。さすがに公安も、そこまで強引な手段は取らないということだろうか。


「ならよかった」


 安心した様子で頷くナナ・アリーを見て、アズケンはすぐに理解した。


「次は遠くに逃げるのか?」

「ええ。飛行機とか新幹線とまではいかないけど、特急でちょっと東京を離れてもらおうと思ってる。ごめんね」

「いや、全然気にしなくていい。君のお陰でこうして無事でいられるんだし、むしろ感謝してるよ」


 本心からの言葉だった。結果としてふたたび逃げ出そうとしてはいるが、彼女のお陰で襲撃される前にアパートを脱出できたし、少なくともこの一週間、食事と寝床には困らなかったのだ。しかも口ぶりから推測するに、次の当てまであるらしい。


「色々ありがとう」


 正直に伝えると、ナナ・アリーは表情が見えているかのように、「ううん、こちらこそ」と小さく首を揺らしてくれた。




 夕食後、アズケンは凛堂に「あまり長いことご迷惑はかけられませんし、地方の友人も声をかけてくれたので」と適当な言い訳をして、クチーナ・エッレを離れたい旨を伝えた。


「そうですか。短い間だったとはいえ、何もお役に立てずすみませんでした」


 もっと詮索されるかとも思ったが、凛堂は相変わらずの紳士的な笑顔とともに、あっさりこちらの希望を受け入れた。ありがたくはあったが、この店の真相を知った今となっては、彼の笑顔もどうしても偽善的なものに見えてしまう。


「いえ。本当にお世話になりました。どうもありがとうございました」


 頭を下げたアズケンは、合わせて今夜中にも出発することを告げ、さっそく荷物のまとめに取りかかった。といってもスポーツウェアばかりの着替えが数着と、あとは現金やAフォンをはじめとする貴重品だけなので、脱出時同様にスゴバッグ一つに詰め込むだけの話だ。


 借りていた屋根裏部屋から一階に降りと、店はディナータイムに入ったところで、スタッフたちが慌ただしく立ち働いていた。彼らに目顔だけで礼をして外に出る。ナナ・アリーによれば、今度は電車移動らしいので、まずはクロスバイクをどこか安全な場所に置いていかなければ。

 母校の修身院大、もしくは現役時代所属していたスポーツ用品メーカー『カヤノ』社あたりなら大丈夫だろうか、と頭の中で算段をつけながら駐輪場に回ったアズケンの目に、だが予想外の光景が飛び込んできた。


「え!?」


 愛車自体は、夕方駐めたのとまったく同じ場所にある。ただし、鉄パイプで組まれたスタンドに繋ぐチェーンの数が、明らかに増えていた。自分がかけたカバーつきの一本だけでなく、むきだしの鉄で作られたいかついそれがさらに数本、前輪にも後輪にもがんじがらめに巻きつけられている。

 一瞬、たちの悪い嫌がらせかと思った。が、すぐに否定する。こんな嫌がらせ、聞いたことがない。駐輪中のロードバイクやクロスバイクが盗難される事件は多いけれど、逆にチェーンを増やすなど前代未聞だ。まるで自分を、ここから動けなくするかのような――。

 そう考えた直後、アズケンは弾かれように顔を上げた。まさか。

 同じタイミングで背後から声がかかる。


「駄目ですよ、東さん。もっとうちにいてくれないと」


 振り向くと、いつの間にか駐輪場の出入り口に井上が立っていた。


「井上……さん」

「駄目ですよぉ。せっかく『世界で二番目に速い働きアリ』が手に入ったと思ったのに」


 妙にしなを作った上目遣いで言いながら、カメリエーラ姿の彼女が近寄ってくる。一歩、二歩。

 蔑むような口調で紡がれた「働きアリ」という言葉と、何より目だけが笑っていない表情に、アズケンは反射的に「やばい」と感じた。あの朗らかな姿には、やはり裏があった。彼女もまた、普通じゃない。


「これは君の仕業か?」


 なんとか気を取り直して、愛車を指さして小さな顔を睨みつける。けれども井上はまったくひるまず、異様な笑顔のままむしろ楽しそうに語り続けるばかりだった。


「行く当てのない下層市民の皆さんを引き取って、働きアリとして上級国民たちに奉仕する機会を提供してあげる。素晴らしい活動ですよね。しかもそこには、お尋ね者に落ちぶれた元メダリストまでいる。うん、話題になること間違いなしです。スポンサーさんも増えるといいなあ」


 スポンサーというのは言うまでもなく、レジスタンス活動のそれだろう。


「だから東さんも、ここにいてくださいよぉ。私、こう見えて偏見はないですから。上級国民としていろいろ東さんに教えてあげます」

「ふざけるな! そういう考え方こそ、あらためなきゃいけないんだろうが!」


 声を荒げながら、洗脳という単語がアズケンの頭に浮かんだ。凛堂の仕業かどうかは知らないが、井上は完全に歪んだ価値観を植えつけられている。上級国民であることにおかしな優越感を覚え、それを笠に着て一般国民を見下す醜い思想。


「どうしてです? だって私は上級国民ですよ? 国が認めた、他人の上に位置する存在なんです。だから東さんも手元に置いておくの」


 何が「だから」なのか、さっぱり意味がわからない。我ながら芸のないことだが、もう一度「ふざけるな」と言ってやろうとしたところで、アズケンは息を呑んだ。


 スラックスのポケットから取り出したのだろう、井上の右手に何かが握られている。懐中電灯かとも思ったが、違う。駐輪場にも照明はあるので、周囲の明るさはじゅうぶんだ。何より、アズケンは似たような物体を知っていた。昔ナナが「自分でもこれを持たされてるの」と、こっそり見せてくれた物騒なもの。


「いくら東さんでも、自慢の脚にこれを当てられたら逃げられないでしょ?」


 スイッチを入れたのだろう、バチッという音とともにスタンガンの青白い火花が弾ける。


 ……これじゃ、公安に捕まった方がましだったかもな。


 危険極まりない状況だが、アズケンは妙に落ち着いていた。ここから逃げることに、完全に後ろめたさがなくなったからだろうか。知り合いとその店がおかしくなってることぐらい調べておけ、とメリッサにあらためて文句を言ってやらなければとも思う。


「あんたらみんな、間違ってるよ」


 言っても無駄だとわかっていたが、一応伝えておく。身体の角度を変える時間を稼ぐために。井上の脇から、駐輪場の出入り口が窺えるようにするために。クロスバイクに乗る直前だったので、幸いなことにスゴバッグもベルトでしっかり胴体に固定してある。しかも自分は現役時代、スタートダッシュに優れるタイプのスプリンターだった。

 あとはタイミングを見て、やるだけだ。


「私、東さんのこと、ちょっといいなあって思ってるんですよ?」


 表情同様に怖ろしいことを井上が言い出したタイミングで、準備は整った。身体一つぶんだけだが、トラック上のコースよろしく彼女の左脇が空いている。これまたトラック同様に緩やかなカーブで走り抜ければ、すぐ出入り口に到達できるはずだ。


 アズケン!


 学生時代の試合会場のように、脳裏でナナと、ダイと、メリッサの声がこだました気がした刹那。

 エネルギーを蓄えていた右脚で、アズケンは爆発的に地面を蹴った。

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