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上級国民  作者: 迎ラミン
第一章 逃亡者
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逃亡者 3

 幸か不幸か、指示された場所をアズケンは知っていた。(まる)(うち)のビル街をはじめ、千代田区内もよく配達依頼が入るエリアだからだ。しかも電話を受けた場所が、すぐ近くの青山一丁目だったので、愛車での移動なら二十分とかからない。

 不安と疑念を抱いたまま、それでもいつも通りの安全運転を心がけて、国道二四六号線を東へと向かう。皇居を囲む内堀通りに入ると、夜間にもかかわらず何人もの人がジョギングしている姿が見えた。

 ステムのホルダーから、アリーが話しかけてくる。


「間もなく、目的地の中央合同庁舎二号館です。赤煉瓦でできた六号館の前、『桜田門』信号を右折して下さい」

「OK。ありがとう」


 高性能AIの彼女も、このあたりがアズケンにとって、勝手知ったる道ということはわかっているはずだ。実際、何度も訪れている配達先などに関しては、「道路状況も問題ありませんので、いつも通りのルートで大丈夫です」というような言い方をしてくることもある。にもかかわらず、穏やかな声で具体的なナビをしてくれたのは、主人の不安を少しでも和らげようという、ささやかな気遣いかもしれない。腕時計型の予備端末から心拍数も計ってくれているので、それで判断したのだろう。


 てことは、やっぱりちょっと速くなってるのか。


 桜田門の信号で止まったところで、アズケンは自分を落ち着かせるように深呼吸した。心拍数をコントロールすることはアスリート時代から意識してきたし、自転車移動がメインの今は、安全運転のためにもますます大切にしている。

 そのままクロスバイクから降りて、歩行者・自転車用横断歩道を徒歩で横断する。赤煉瓦の外壁が鮮やかにライトアップされた、中央合同庁舎六号館を道路越しに見ながら、さらに歩を進めるとすぐに目的地へ到着した。


 駐輪場らしき場所が見当たらないので、街路樹を囲む柵にチェーンで愛車を固定したアズケンは、目の前にそびえるビルをあらためて見上げた。

 夜空に向かって整然と伸びる、格子状に組まれたコンクリートの枠と、窓ガラスの群れ。総務省をメインに、国家公安委員会と下部組織である警察庁、さらには国土交通省も入居している中央合同庁舎二号館は、官僚たちの本丸ということもあってか、前を通るときにいつも「無機質」や「ドライ」といった単語が脳内に浮かぶ。

 初めて中に入ったその場所で、アズケンはまさに言葉通りの対応、いや、尋問を受ける羽目になった。




「東剣さん。二〇四三年十月一日生まれ。修身院大学・人文学部社会福祉学科卒。現在は個人事業主として、主にSGI配達員を業務とされている。住所は東京都杉並区――」


 ビルのかなり上階、十七階にある小さな会議室で待つよう言われてから五分後。目の前に現われた()()()と名乗る中年男性は、手元のタブレット端末を見ながら先ほどの電話とまったく同じことを、まったく同じ調子で口にした。声もそっくりそのままなので、どうやらこの人物が自分に出頭要請をした本人らしい。しかも今回は、住所まで掴んでいるぞというアピールつきだ。


「――間違いありませんね」


 いかにも警察官僚、といった感じの銀縁眼鏡を押し上げながら、小久保がこちらを見据えてくる。

 彼の目を見た瞬間、ああ、とアズケンは実感した。


 上級国民だ。


 自分を見つめる小久保の目が、明らかにどこか見下した色を帯びている。何割かの憐れみすらはらんで。上級国民、中でも財力や権力を握っている一部の人間が、一般国民に向ける視線だった。

 国家権力の中枢に位置する警察官僚なので、この人物が上級国民なのは当然と言えば当然だ。だが、あまりにもわかりやすい。自分たちはハイクラスで、お前たちはロークラス。エリートとその他大勢。こちら側と向こう側。もはや無意識下でくだされているのであろうそんな認識が、眼鏡のレンズを通してはっきりと光になっている。


「何か?」


 自分の方もまた、無意識のうちに苦笑してしまっていたようだ。怪訝な表情に、これまた何割かの不愉快な色を乗せて、小久保が問い質してきた。


「いえ、なんでもないです」


 堂々と答えてアズケンは続けた。


「それで、どうして僕が犯罪の重要参考人なんですか。思い当たる節はまったくないんですが」


 真っ直ぐに視線を跳ね返す一般国民が珍しいのか、一瞬だけ虚を突かれたように小久保が顎を引いた。旭日章のタイピンをこれ見よがしに着けたネクタイが、ほんの少しだけ波打つ。

 が、ささやかな反撃もほんの一瞬のことだった。ボクサーがいったん距離を取るかのようにして、ふたたび眼鏡のブリッジに触れた小久保は、タブレットを軽く揺すってぴしりと伝えてきた。


「特定秘密保護法違反の疑いです」

「いや、だからそれ、なんのことですか」


 そういえば電話でも、小久保は同じことを言っていた。けれども言葉通り、アズケンには思い当たる節など欠片もない。大体その日暮らしの貧乏配達員が、どうやったら特定秘密とやらに触れられるというのだ。彼が言っている法律は確か、防衛や外交に関するまさに国家レベルの重要機密を、漏らさないようにする・させるためのものではなかったか。


「今あなたが言った通り、俺は上級国民ですらない一介のSGI配達員ですよ。国の重要機密だのなんだのに、関係してるわけないでしょう」


 喋りながらイライラが募って、一人称が「俺」になってしまったが構わなかった。なんにせよ濡れ衣もいいところだ。上級国民だからって、冤罪事件を起こしていいわけがない。ましてや自分は――。


「上総宮菜々子様」

「え」


 感情が高ぶるままに両手まで広げかけていたアズケンは、想定外の言葉でぴたりと動きを止める羽目になった。


「今、なんて……」

「皇族の菜々子様です。東さんは菜々子様と、修身院附属幼稚園からずっと学友でしたね。それも、幼馴染みと言ってもいいくらい親しい間柄のようで」

「だ、だからなんだって言うんですか。ていうか、なんでナナ││菜々子様が出てくるんですか。それこそまったく関係ないでしょう!」


 我知らず動揺が声に出た。悔しいが小久保のひとことは、アズケンを混乱させるにじゅうぶんすぎるほどだった。視界の外から、いきなりカウンターパンチをもらった気分だ。

 眼鏡の奥で、小久保が細い目をさらに薄くする。ニヤリ、としか表現しようのない不愉快な笑み。


「東さん。昨日、街頭インタビューを受けましたよね」

「!!」


 あれか、とアズケンも瞬時に思い出す。昨日の午後、配達の途中で街頭インタビューを受けた。そして語った内容は実際、ナナに関することだった。


「いや、けど……」


 街頭インタビューでナナの大統領選立候補について答えることが、どうして特定秘密保護法とやらの違反になるのか。さっぱり意味がわからない。


「俺が話したのは、一国民としてナナを応援してるっていうことだけです」


 なんとかファイティングポーズを維持すべく、座ったまま足をぐっと踏ん張って口にする。そうだ。やましいことなど何もない。ましてやナナに関する話で、自分が失礼な内容や馬鹿げた内容を、それも公の電波に乗せて語るなど絶対にあり得ない。


「概ねはそうでしたね。では、確認してみましょうか」


 不快かつ不敵な笑みを絶やさないまま、持っていたタブレットを小久保がこちらに向けてくる。

 スクリーンの中に、昨日の自分がいた。


《国民が選ぶ新しい日本の代表が大統領でしょう? ナナ様なら確かに、僕らの新しい代表に相応しいです。知名度も発信力もあるし、弱者への支援にも詳しい。大学の卒業論文も、福祉政策の歴史や未来への提言がテーマでしたよね。日本語すら怪しい変な政治家がやるより、彼女の方が国の新たな代表として、よっぽど活躍してくれるんじゃないでしょうか》


 やはり、どこかの動画チャンネルだったようだ。フレームの外にいるインタビュアーに対して、堂々と答える己の姿。現役時代に散々目にしたお陰で、今さら自分の映像を見ても恥ずかしくはならないが、軽薄な効果音とともにバラエティ番組めいたテロップが挿入されるのには、さすがに顔をしかめた。


《めっちゃ詳しい!》《皇室オタク?》《ナナ様マニア?》


「動画の製作者は、あなたが何者か知らなかったようですね」

「…………」


 小久保の皮肉っぽい問いには、あえて答えないでおいた。それがかつてのメダリストとしてのことを指しているのか、今言われたようにナナと親しい間柄ということを指してなのか、わからなかったからだ。いずれにせよ、冷静になれ、と引き続き自分に言い聞かせつつ尋ねる。


「このコメントのどこが、特定秘密保護法とやらを違反してるんですか」


 濡れ衣も冤罪もごめんだし、何より、万が一にでもナナにまで迷惑をかけるような言動は絶対に避けたかった。今の自分は彼女と接点のない、ただの一般国民だ。「ナナ様」とはもう、それこそ上級国民以上に住む世界が違う。


「ああ、気づいてないんですね。ではあらためて説明しましょう」


 例によって、どこか見下した調子で小久保が言う。画面のストライダーを最初のあたりに戻して、「よく聞いてください」とふたたび動画を再生した。


《大学の卒業論文も、福祉政策の歴史や未来への提言がテーマでしたよね。日本語すら怪しい変な政治家が――》


 最初、アズケンは「日本語すら怪しい変な政治家」という発言が問題視されているのかと思った。けれどもすぐに、この程度で犯罪の重要参考人になるわけがないと思い直す。ディストピアまがいの国に成り下がったとはいえ、それでもまだ日本は民主国家だ。総理大臣を批判する権利くらいは、誰にだって許されている。

 怪訝な表情で眉を寄せたところで、小久保がわざとらしく、同じ箇所の再生を繰り返す。三たび流れる自分の声。


《大学の卒業論文も、福祉政策の歴史や未来への提言がテーマでしたよね》


「え?」


 ということはつまりここが、特定秘密保護法違反の疑いありというのだろうか。ナナの、同級生の卒論テーマを口にしただけで?


「皇族として国内外から注目される立場でいらっしゃることに加え、場合によっては日本国の初代大統領になられる可能性もある菜々子内親王。その彼女が重要視する内政問題に関して、あなたはこうしてインターネット上で口にしてしまっています」

「はあ!?」


 思わず変な声が出た。屁理屈もいいところだ。しかし小久保は相変わらずの冷たい、そしてこちらを見下した上級国民の視線と口調で淡々と続ける。


「すなわちこれは、日本国大統領候補者のマニフェストの骨子とも言える内容です。なんの許可も権限も得ていないあなたが、それを全世界に配信される媒体で軽々に明かしているわけですから、じゅうぶんに特定秘密保護法に触れる行為だと判断された次第です」

「ちょっと待ってください」


 なんなんだこれは、とアズケンの中で混乱と怒りが同時に湧いてきた。完全なる、それも子どもじみた言いがかりではないか。仮にも国の中枢機関である公安警察が、ここまで馬鹿げたでっち上げをしていいのか。


「特定秘密の対象となる情報は、防衛、外交、特定有害活動の防止、テロリズムの防止といった種別に分けられますが、東さんの発言は外交、もしくは特定有害活動の防止といった観点での秘密保護に反するものとなります」

「いや、そんな話、納得できるわけないでしょう! なんでナナの卒論について軽く語っただけで、犯罪者扱いされなきゃいけないんですか!」


 声を荒げたものの、小久保の表情は何も変わらない。所詮は一般国民の、向こう側の生き物の遠吠えだとでも言わんばかりに、しれっと眼鏡のブリッジを上げたりしてみせるのもまた腹立たしい。


「釈明や弁明はご自由に。ちなみにこのあと、正式な捜査官があらためて尋問と取り調べをさせてもらいます。判例によれば捜査官による取り調べが始まった時点から、東さんは重要参考人あらため被疑者という立場に変わりますので、ご承知おきください」

「なっ……!」


 被疑者。すなわち容疑者。この小久保という男から電話を受けてから、まだ一時間も経っていない。にもかかわらず、脅しまがいの要請に応じて出頭してしまったがために、あっという間に犯罪容疑者扱いである。焦りと混乱、そして怒りがごちゃまぜになった胸の内で、なぜかやたらと大局的な考えまで浮かんでくる。


 日本は今、ここまでやばい国になってるのか。


 言論統制。冤罪。ねつ造。ディストピア……。SF映画でお馴染みの単語が、妙な現実味を伴って次々と思い出される。そして物語のヒーローでもなんでもない自分は、それらに対してどう抵抗すればいいのか、さっぱり見当がつかない。


 くそっ。


 ぎゅっと唇を噛んだところで、会議室のドアがノックされた。「どうぞ」という小久保の声に応じて、よく似た黒いスーツを着た若い男性が入ってくる。さっき言っていた「正式な捜査官」とやらだろうか。


 これで犯罪容疑者の仲間入りか……。


 さらに強く下唇に歯を立てるアズケンの眼前で、男性は小久保に何かのメモを渡し、素早く頭を下げて出ていった。

 小久保の口から、チッという下品な舌打ちが聞こえたのは直後のことだ。


「東さん」


 打って変わった様子で忌々しげに名前を呼んだ彼は、「ここまでで結構です」と信じられない台詞を述べた。


「は?」


 わけがわからないアズケンの前で、露骨に溜め息まで吐いてみせる。


「もうお帰りいただいて構わない、と言ったんです。とりあえず、あなたに犯罪意図のないことが証明されました」

「はあ?」


 またもや変な声が出た。いきなりの手のひら返し。若い男が持ってきたメモ用紙のお陰なのは間違いない。けれども一体、どういう経緯なのか。


「東さんの無実は自分が保証するから即釈放しろ、という連絡が公安課に直接入ったそうです。まったく」


 最後のひとことは、紛れもなく小久保の本音だろう。あとに繋がる言葉が「腹立たしい」か「忌々しい」かは知らないが。


「まさか、ナナが?」


 よもやと思って尋ねてみたが、小久保からの返答は「いえ」だった。


「社会的地位があり、国への貢献度も高い上級国民の方からです。いいお友達を持っているようで」

「あっ!」


 上級国民、という単語でアズケンはすぐに察した。皇族のナナはそもそも上級国民や一般国民というカテゴリーの対象外だし、小久保自身が今否定した。そうではない「社会的地位があり、国への貢献度も高い上級国民」の「お友達」。さらに言えば公安警察に自分が拘束されたことを、どこからか即座に知ることのできる情報網。すなわち、マスコミや政府中枢とも深い繋がりのある人間。

 例えば超大手広告代理店で、それなりのポジションに就いているような。


「わかりました」


 ()の名前はあえて出さないまま、アズケンは席を立った。


「なんにせよ、国家権力を笠に着た上級国民様に、冤罪の被害者にされなくてよかったです」


 せめてこれくらいは、言ってやらなければ気が済まない。

 もう一度小さく舌打ちする小久保を振り返ることなく、アズケンは会議室を堂々とあとにした。




「ダイのやつ――」


 庁舎を出てクロスバイクのチェーンを外しながら、アズケンは複雑な表情でつぶやいた。

 自分を釈放するよう公安に連絡してくれたのは、ダイに間違いない。ひょっとしたら、警察庁関連のなんらかのスキャンダルをネタに、圧力まがいの駆け引きまでやってのけたのかもしれない。今の彼ならさほど難しくないはずだ。

 世界的な広告代理店、株式会社『江頭メディアワーク』、通称「EMW」の若きエリートたる江頭大介室長なら。


 大学卒業後、中学時代から語っていた通り、父の会社でもあるEMWにダイは入社した。家の意向もあって二十歳になった時点ですぐに上級国民になることを申請し、難なく審査も通過していた彼にとっては、外からの見え方と違って、むしろそちらこそが既定路線だったのかもしれない。

 学生たちにとって今なお人気の広告代理店、中でも世界規模で事業を展開するEMWに、その社長令息が入社したのだから、端から見ればコネ以外の何ものでもない。だが少なくともアズケンとメリッサ、そしてナナの三人だけは、ダイがどこまでもフェアに入社試験を受けたことや、彼の父親、さらには一部の役員たちがダイの就職希望に大反対だったことも知っている。本人いわく、


「でかい会社だから、やっぱり権力争いはあるみたい。社長の息子が入ってきたら、そっちに鞍替えする人間が沢山出るんじゃないかとか、僕自身もそうやって派閥を作って、父さんを追い落とそうって野心を持ってるんじゃないかとか、試験を受ける前から疑心暗鬼になってた人もかなりいるって噂だよ」


 とのことだった。


「でもダイは、そんなこと思ってないんでしょ」


 当然の事実という顔で訊くナナに、彼は嬉しそうに答えたものだ。


「もちろん。単純に言葉通りの広告屋として、頑張ってるけど宣伝の手立てがなくて困ってる企業さんや、もっと世の中に知られて応援されるべき人たちの役に立ちたいって思ってるからこそ、EMWを志望したんだ。例えばナナが支援してる団体とか、そこで働く方々とか。あ、もちろんメリッサのお店もね」

「ありがとう! やっぱりダイは優しいね」

「グラッツェ! ダイのことだから、そうだろうと思ったよ」


 美しく成長した二人の幼馴染みが、手を取らんばかりに喜んで顔を覗き込むので、ダイは頬を赤くして照れていた。一人称が「僕」のままなのも含めて、どこか世慣れないお坊ちゃま然としたところは、大学に入ってからもずっと変わらなかった。

俺のことは応援してくれないのかよ、とアズケンはそのとき一瞬だけ渋い顔になりかけたが、「頑張ってる」とか「世の中に知られて応援されるべき」といった美談的な扱いを自分が好まないことを知ったうえで、あえて名前を出さないでくれたのだと、彼と目が合った瞬間に理解したのもはっきりと覚えている。

 誰よりも頭がよくて、優しくて、でも初心なところのある御曹司。そんなダイのことをアズケンも信頼しているし、親友として尊敬もしている。

 だが。


 ――何考えてんだ、あいつ。


 サドルにまたがりながら思う。助けてくれたのはありがたいが、以前のダイならこうした寝技的な行動は好まなかったはずだ。コネやパイプを平然と利用し、おそらくはバーター条件をちらつかせながらの圧力までかけるとは。

 そうでなくとも、EMW入社後のダイは以前とは変わってしまった。一見すると華やかだが、裏を返せばブラックな部分もいまだ色濃く残る広告代理業という職種に、結局は染まってしまったように感じるのだ。


 過剰なまでの残業やセクハラ、パワハラ、モラハラといった行為こそしていないだろうが、社会人になって以降めっきり連絡してこなくなったし、こちらからのメッセージに返事もよこさない。最後にもらった生の声は、自分が陸上選手を引退してSGI配達員を始めたときの、あの年賀状のような文面までさかのぼる始末である。


 そんなに忙しいのかとも思うが、学生時代に語っていたような社会的弱者のための案件を手がけているという噂も、とんと聞かない。業を煮やしたメリッサが一年半ほど前に、《いい加減にしなさいよ!》と激しい文面のメールで近況を問い詰めたところ、一週間後にようやく《ごめん。今、本当に忙しいんだ》という素っ気ないひとことだけが返ってきたという。しかもメールの末尾にある署名欄には、《株式会社江頭メディアワーク 国内パブリッシング事業部 政府案件広報室長 江頭大介》とあったそうだ。


「何よこれ!? 政府案件ってダイのやつ、いつの間にディストピア政府に尻尾振るようになったのよ! あの裏切り者! むっつりすけべお坊ちゃま! 本当はナナみたいな、おっぱい小さい子が好きだってことも知ってるんだから!」


 遙かイタリアはパルマの街から、こちらとの時差も考えず夜中の二時に国際電話をかけてきたメリッサは、Aフォンの向こうで大いに怒っていた。後半の子どもじみた文句はともかく、彼女の気持ちはアズケンにもよくわかった。なので「確かにダイらしさがなくなったとは、俺も思う。どうしたんだろうな」と冷静に返したものの、それもまたメリッサには、お気に召さなかったらしい。


「あんた、腹立たないの? EMWのビルに自慢のチャリンコで乗り込んでやろうとか、考えないわけ!?」


 などと、いつの間にか自分が説教される羽目になった。

 ともあれ、こうしてナナとは別の形でダイとも距離が離れてしまっているのが、自分とメリッサの現状なのだった。

 それでも一応礼だけは言っておこうと考え、アズケンはAフォンを取り出した。

 クロスバイクのペダルに右足だけを固定した状態で、アリーに呼びかける。


「アリー、メッセージを送って欲しい。宛先は江頭大介で」

「ダイさん宛のメッセージですね。かしこまりました」


 賢いアリーは、主人と親しい人々のニックネームなども覚えてくれているので、こうして音声認識してもらった方が早い。


「文面はどうされますか?」

「そうだな……。《助かった。ありがとう》とだけ」

「かしこまりました」


 数秒後。送信済みを示すチェックマークつきの文面が、スクリーンに表示された。


「無事送信されました」

「うん、確認した。ありがとう」


 まだどこか複雑な感情を抱えているのが、声に滲んだのだろうか。画面の片隅でアリーが何かを窺うように小首を傾げたが、あえて気づかないふりをしてアズケンはAフォンを閉じた。

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