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上級国民  作者: 迎ラミン
第一章 逃亡者
2/21

逃亡者 1

 視界の端を、様々な看板や広告が横切り続ける。

 コンビニ、牛丼屋、アニメ映画、人型を模したロボットアシスタントに、最新の携帯端末。十月なのにかき氷の暖簾まで揺れているが、じつはマニアの間では「一年中食べられるスイーツ」的な扱いだそうで、シロップやトッピングも数え切れないほどの種類があるのだとか。


 ナナは、宇治金時が好きだったな。


 二〇七〇年十月。クロスバイクのペダルを回しながら、アズケンはそんなことを考えた。昨夜もモニター越しに、彼女の顔を見たばかりだからだろうか。同時に、いつも一緒にいた、あと二人の幼馴染みについても思い出す。(かや)()メリッサに、()(がしら)(だい)(すけ)


 メリッサはレモンで、ダイはブルーハワイだっけ。


 機会を見つけて自分もスイーツかき氷というものを食べてみようか、などと考えたところで、緩い登り坂に入った。ややスピードが落ちたところを、クラクションとともに、大きなRV車が右側から追い越していく。

 二〇〇〇年代も後半になったが、日本の交通網や社会インフラは、五十年前からそれほど変わっていないらしい。車も電車も、そして自転車も人々の生活に変わらず根づいているし、ネットをはじめとする通信環境もそうだ。テレビというメディアだけは昔よりかなり廃れたそうだが、それは五十年どころかもっと前からそうなっていたとも聞くので、アズケンたちの世代には正直よくわからない。

 ともあれ、片側二車線の空いている道路にもかかわらず、これみよがしにクラクションを鳴らされたのは、明らかにバックパックを見ての嫌がらせだろう。


 悪名高き……ってやつか。

 ヘルメットとスポーツグラスの下で、アズケンの顔に皮肉めいた笑みが浮かぶ。


『アズケンも、笑ってればもっともてるのに』

『そこは私も認める。素材の無駄遣いってやつよね』


 と、やはり少年時代にナナとメリッサから言われたことがあるが、今たたえているのは、その指摘とはまったく違う笑顔だという自覚くらいはある。

 仕方ないだろ、とアズケンは手元のトリガーシフターに指をかけた。


〝素材が活きてるもの〟を運んではいるよ。


 メリッサに胸の内で言い返しながら、後輪のギアを一段上げる。

 固定された右足をぐっと踏み込むと、RV車の遠ざかるスピードが少しだけ遅くなった。




 フードデリバリー会社『SGI』。二十七歳になったばかりのアズケンは、日本語の「すごい」が語源だというこの会社と、業務委託契約を結んでいる。

 仕事内容は、提携先の飲食店や有名シェフが作った料理を、注文に応じて自転車で届けること。使用が義務づけられている専用のバックパックを使用するのだが、なんとこれは支給品ではなく自費購入である。しかもショッキングピンクの地にブルーのロゴという、会社名同様にふざけているんじゃないかと思わされる、ド派手なデザインのものだ。

 だがケバケバしいデザインが功を奏したのか、SGIの知名度は創業以来瞬く間に高まっており、通称「スゴバッグ」と呼ばれるピンク色のバックパックを、今では都内の至るところで目にすることができる。


「うわあ。間近で見ても、本当にチンドン屋みたいだねえ」


 以前、なんとかという有名料理人が作った、やたらと高価なサンドウィッチを届けたお屋敷で、注文主の老人がそう言って笑っていた。あとから「チンドン屋」という単語を検索してみたところ、派手な格好をして鳴り物とともに道を練り歩いた、大昔の広告業者を指すらしかった。


 悪名高き「チンドン屋」だもんな。


 もう一度胸の内でつぶやきながら、アズケンはピンクのバックパックとともに、次の目的地である()()()のタワーマンションへとペダルを漕ぎ続ける。配送先は過去にも何度か利用してくれている、女性ファッションモデルの自宅。商品は(しん)宿(じゅく)にある高級和食店のランチセット。


「急いでないから、ちゃんと交通ルールを守って気をつけていらしてね」


 ナビに通話にと大活躍してくれている、愛用の携帯端末『Aフォン』を通じて、直接の言葉もかけられたのは二十分ほど前のことだ。

 SGIの利用者は、基本的に裕福な人ばかりである。提携先を高級店や有名料理人だけに絞っているからこそで、会社としても、そうやって客単価の高い商売をしていきたいらしい。しかし一方で、逆に企業価値やイメージを下げてしまうような問題も、たびたび発生している。そのほとんどが配達員の運転マナーの悪さや、実際に起きてしまった事故に関連するものだ。ネットを開けば、SGIの自転車が歩道を危険な速度で走ったり、車道でもサインなしの突然の右折や、ときには赤信号にもかかわらず強引に交差点を突っ切る証拠映像を、沢山見ることができる。

 アズケン自身は決して危険な真似はしないが、かくしてピンクのバックパックは、むしろドライバーや歩行者から、敵のようにすら思われている面もあるのだった。


 そこまでしたって、大金持ちになれるわけでもないだろうに。


 悪評をまき散らす同業者に、いつもながらの苦々しい思いを抱いたところで、五十メートルほど先の信号が黄色に変わった。スムーズに愛車を停止させたアズケンが、歩道側にある左足をペダルから外した直後。

 ステムのホルダーから、Aフォンが語りかけてきた。


「あと五分ほどで、目的地に到着します」


 耳に心地よい若い女性の声は、AIアシスタント『アリー』のものだ。道路ナビや各種検索はもちろん、音声認識による音楽や動画の再生、さらには心拍数や歩数、睡眠時間のチェックによる健康管理など、様々な機能を兼ね備えたこのパーソナルアシスタントアプリは、数年前のリリース以来、瞬く間に全世界で愛用されるようになった。スマートフォンと総称された旧世代の端末に代わって、Aフォンが主流になったのも、これがアリーに対応しているからこそである。


「今回の配送業務の平均速度は、時速三十一キロです。急ブレーキなどもないですし、さすがはケンさんですね。引き続き安全運転でいきましょう」

「わかった。ありがとう」


 微笑んで答えたアズケンは、Aフォンに視線を落とした。地図画面の片隅で、目や鼻こそ描かれていないものの、いかにも美人秘書という雰囲気のシルエット画像が、小さく揺れている。ちなみにこのシルエットには複数のパターンがあるらしいが、いずれも女性で、自分では選べず使用開始の時点でランダムに決定される。アズケンのアリーも、斜めに切り揃えたボブカットがよく似合う、知性的な雰囲気の美女だった。


 焦る必要なんて、ないしな。


 アリーのアドバイスを噛みしめるようにして、アズケンは口に出さずつぶやいた。彼女が言う通り、配達先のタワーマンションはもうすぐだ。最後まで安全第一で行かなければ。


「所詮は時給千五百円の、肉体労働者なんだから」


 自嘲気味の言葉が、今度は声になってこぼれ出る。

 SGI配達員の報酬は完全歩合制だが、大体一配達あたり五百円。アズケンのように慣れた人間になると、一時間に三件程度こなすのが普通なので、時給に換算すればそうなるというわけだった。他にインセンティブ報酬として、「今の時間帯、このエリアに配達すればプラス三百円」や「五件以上配達すればプラス二百円」といったおまけもあるが、どれも微々たるものである。

 しかも無理に急いで配達すれば、商品の盛りつけやトッピングが崩れてしまう恐れもあるし、実際にそうしたクレームもSGIには多い。たかだか数百円のために自身の評価を下げたり、ましてや折角注文してくれたお客さんを困らせるような真似は、アズケンは絶対にしたくなかった。


《アズケンらしいじゃん。うちのレストランが日本支店をオープンしたら、専属で雇ってあげる》


 自嘲とささやかなポリシーを合わせてメリッサに伝えたら、海の向こうからそんなメッセージが返ってきたものだ。


《遅くなってしまったけど、現役生活お疲れ様でした。セカンドキャリアはSGI配達員だと聞きました。アズケンのことだから安全に、心を込めて美味しいものを届けてくれていることと思いますが、引き続き身体に気をつけて頑張ってください》


 年賀状のコメントじみた文面は、ダイ。しかもこちらはアズケンが特に伝えていないのに、どこからか現在の境遇を聞きつけて(おそらくはメリッサだろう)、わざわざメッセージを送ってきた。複雑な感情を抱いた後、結局返事はしていない。

 そして、ナナ。

 なかなか青に変わらない信号を見つめていたアズケンは、横断歩道の脇に置かれた黄色い物体に気がついた。子どもたちの通学路なのだろう、今では珍しい交通安全旗が何本も、筒状のケースに刺さっている。

 ちょうど入れ替えたばかりなのだろうか。まだ新しい旗たちは、どれも鮮やかな色をしていた。

 真夏の向日葵のように。




「私のお印だから、大事に育ててね」


 自分たちと並んで向日葵の種を埋めるナナに言われたのは、小学二年生のときだった。確か『植物を育ててみよう』とかいう理科の授業中だったはずだ。


「おしるこ?」


 ハーフとはいえ日本語が堪能なはずのメリッサがわざとらしく返すと、頬をふくらませた表情で、「違うよ!」とすかさずつっこまれた。


「お・し・る・し。私たちは自分のシンボルマークが決められてるの。基本的に木とかお花で、私の場合は向日葵なの」

「ふーん。でもなんか、ナナっぽいね」


 ダイが感心した様子で言うと、「本当?」と嬉しそうに彼女が笑ったことも、アズケンはよく覚えている。ナナがいつも同じシュシュで髪をまとめ、かつ大切にしてくれているのにはそんな理由があったのか、とひそかに感心したのも忘れていない。

 その向日葵色のシュシュは、お印のことなど知らない自分が、一年ほど前に贈った誕生日プレゼントだということを、メリッサとダイはわかっていただろうか。


 中学、高校とエスカレーター式に同じ学校へ通う中、ナナは同じシュシュをずっと身に着けてくれていた。雑貨屋で売っていたなんの変哲もない数百円の品なので、色褪せたりゴムがへたったりもしたはずだが、不思議と見た目はそのままだった。ひょっとしたら「質素で庶民的な暮らしを好む」と言われるナナらしく、何度も修繕したり、染め直していたのかもしれない。彼女のことだから、すべてを自分の手でやりながら。


 艶やかな黒髪をまとめる、くっきりした向日葵色。自身のお印。

 確かにナナっぽいよな、と思う。

 庶民的で。朗らかで。快活で。

 上総(かずさの)(みや)菜々子内親王、そのものだ。




《日本の皇族で、上総宮(さき)(ひと)親王と清子(せいこ)妃の第一女子(兄弟・姉妹はなし)。二〇四三年七月一日生。お印は向日葵。健康的な美貌と笑顔で、国民から親しまれるプリンセスとして内外に知られている。現在の天皇家における皇位継承権最上位者でもあるが、結婚に関する噂や、恋人の存在が報じられたことは一切ない。LGBTQ支援団体の理事を務め、実際に現場へ出向いての支援活動・講演活動を、積極的に行っていることでも有名(自身の性嗜好は、「マジョリティにあたる異性愛者です」と公言している)。

 好きな食べ物は牡蠣フライ。趣味は映画鑑賞で、ハリウッドの大作アクションものを好む。学生時代は陸上部だったこともあり、現在も定期的にジョギングやジム通いをしているとのこと。愛称は「ナナ様」。》



 ネット上の百科事典において、ナナはこんなふうに記されている。

 よく調べてるな、と素直に感心する反面、牡蠣フライだけでなく本当は牡蠣全般が好きなこと、けれども小学四年のときに一度当たってからは、火を通したものしか食べさせてもらえないこと、じつは恋愛映画もこっそり観まくっていることなどは知られていないのだと、さり気ない優越感もアズケンは抱いてしまうのだった。


 やんごとなき立場のナナと自分、そしてメリッサとダイが仲良くなったのは、たまたまのめぐり合わせにすぎない。

 たまたま都内に生まれて、たまたまそれぞれの親が教育熱心で、たまたま皇族も通う名門私立幼稚園に入園できて、そしてたまたま、実際に皇族の一人が同級生にいたのだ。

 そもそもアズケンは最初、ナナがどういう人かなどまったく知らなかった。幼年期のアズケンにとっての「ナナちゃん」(幼稚園の頃はそう呼んでいた)は、自分たち男子とも平気で一緒に遊ぶ、活発で足の速い女の子でしかなかった。


「珍しい名字だね、とかさらっと言ってくれたの、アズケンとメリッサとダイだけだったんだよ」


 と後年ナナはよく語っていたが、本当にそうとしか思っていなかったのだから仕方ない。四人の中で一番賢いダイだけは、ひょっとしたらわかったうえでの言葉だったのかもしれないが。


「でもやっぱり、普通に接してくれるのが凄く嬉しかったの」


 はにかむようにして伝えられたのは、「ナナちゃん」から「ナナ」に呼び方が変わった小学生の時分だったろうか。同じ頃にはもうメリッサが、「ナナ、大好き! 私と結婚しようね!」などと、腕を取って連呼していたような気もする。

 彼女と同じように足が速く、スポーツの得意なアズケン。同性で面倒見がいい姉御肌なメリッサ。常に学年トップの秀才、ダイ。体力、メンタル、知力とそれぞれに秀でたものを持つ三人の幼馴染みが、「本物」の人たちから「小さなSPトリオ」と呼ばれて微笑ましく見守られていたというのも、中学に入ったあたりでナナ本人が嬉しそうに教えてくれた話だ。


 そうして四人は幼稚園、小学校、中学校、さらには高校、大学と二十年近くのときを、ずっと一緒に過ごして大人になった。通った先は、古くは宮内庁が管轄していたという私立大学、(しゅう)(しん)(いん)大学と一連の付属学校。入学に当たっては学力や経済力だけでなく、それなりの家柄も必要とされるこの名門校には、他にも似たようなルートを辿った同級生は沢山いる。けれども「ナナ様と私設SPトリオ」(いつしか同級生にまで、こう呼ばれるようになっていた)は、他からすれば、常にワンセットの存在だったらしい。


 だからこそ大学卒業の際、メリッサが母の母国、イタリアへ渡るつもりであることや、ダイが父の経営する大手広告代理店に入社すること、そしてアズケンがプロアスリートとなることを、それぞれ明かしたときは驚かれた。どうやらまわりの人間たちには、三人が揃って宮内庁あたりに入庁して、社会人としても引き続きナナのそばにいるというのが、既定路線だと思われていたようだ。


「いつかはそうなりたいけど、そのためにはまず、ナナに釣り合うだけのカメリエーラにならなきゃいけないもの」

「もちろん僕だってナナの役に立ちたいけど、民間企業だからこそできる方法っていうのがあると思って」


 メリッサ、ダイがしっかり所信表明をする一方で、アズケンの動機は至って単純だった。


「一応、銀メダル取っちゃったからな」


 陸上男子四百メートル。中学時代からその道で名を馳せていたアズケンは、大学二年のとき日本代表チームに初選出され、翌年の世界選手権で見事「世界で二番目に速い男」の称号を手に入れた。当然ながらそれほどのアスリートを世間が、特にスポーツ界が放っておくわけがない。数あるオファーの中から、自身とナナが愛用していたシューズメーカーとアズケンは契約し、プロアスリートとして社会に踏み出したのである。


 が、順調だったのはほんの三年程度だった。二十一世紀に入る前後から、非正規雇用者や外国人労働者への依存度合いがますます加速した日本では、いかに銀メダリストいえども、マイナーな陸上選手をのほほんと抱え続けるわけにもいかなかったらしい。加えてアズケン自身も、あの銀メダル以降、故障などに悩まされて大きな競技成績を上げられていないことが痛かった。


「残念ながら、所属契約は今年度一杯ということで」


 と人事部長から告げられたのが二年前、二〇六八年のクリスマスイブのことだ。その後、別企業からのオファーもないままに「スポーツしかできない俺に、一番向いてそうだから」というまたしても単純な理由で、アズケンはSGI配達員というセカンドキャリアへ、あっさりと移行したのだった。


 もともと、ナナに誘われてなんとなく始めた競技だったんだよな。


 世界で二番目にまでなっておきながら、心のどこかでいつもそんな思いを抱えていたというのもある。自分の足がどんどん速くなって、競う相手が世界中の人々になって、走る場所が土のグラウンドから立派なスタジアムになっても、アズケンにとっての「走ること」は、ナナと一緒に汗を流し、トレーニングが終わればメリッサとダイも一緒に帰る、学校の部活動と同じ感覚だった。

 自分が速く走れば、ナナが喜んでくれるから。メリッサが、憎まれ口を叩きながらも驚いてくれるから。ダイが、我がことのように自慢してくれるから。その感覚のままずっと、トラック一周をスプリントし続けてきた。

 けれども三人と離れ離れになった二十五歳のアズケンに、同じ気持ちはもうなかった。契約の打ち切りは、自覚すらしていなかったモチベーションの喪失に気づかせてくれた、むしろありがたい告知だったとすら思っている。


 また、心情や動機はどうあれ現在の日本において、アズケンのような境遇の若者は決して珍しくない。

 国民の四人に一人が六十歳以上という超高齢化社会に、長らく続いたデフレ、それでも富を独占したがる一部の大企業や特権階級によって、今ではこの国の非正規雇用率は、四十パーセントにも届こうかという勢いなのだ。人口は八千万人を割り、導入当初は三パーセントだったという事実が、もはやファンタジーにしか聞こえない消費税率は、二年ほど前からは十五パーセントにまで引き上げられた。もちろん国際発言力も低下し、五十九年前の大震災以来、一部の地域に負担を押しつけっぱなしの放射性廃棄物にかかわる問題などは、世界各国から激しい糾弾を受け続けている。

ネット上でよく目にする《ディストピア・ジャパン》という自嘲や、《もはや先進国ではない》という大昔の標語をもじったコメントは、それこそもはや冗談では済まないレベルにまで達しているのだった。


 ()()()()様たちには、関係ないんだろうけど。


信号が青に変わり、ふたたび走り始めたアズケンは、頭の片隅で苦々しくつぶやいた。先ほど、今ではその「上級国民」として暮らすダイのことを思い出したからかもしれない。

 上級国民。

 かつては一部の富裕層やセレブリティを指す、ネット上のスラングに過ぎなかったこの言葉が、今ではなんと法律に基づく正式な身分呼称となっている。

 法律の名称は『上級貢献国民法』。



《納税額や家柄、業績などを厳しく審査したうえで、国が認定する成人を「上級貢献国民(通称:上級国民)」とし、彼ら・彼女らに様々な優遇措置を施すための法律。上級国民になれば、税制上や各種公共サービスにおいて様々な恩恵を受けられる。付帯義務として一年のうち定められた時間を社会貢献活動に費やさなければならなかったり、裁判員に優先的に選出されるという側面もあるが、毎年の世論調査によれば多くの人々が、上級国民という立場に憧れると答えている》



 と辞書にはある。

 下手をすれば国民の差別化に繋がりかねないこの制度を成立させたのが、現在の、そして日本国最後の内閣総理大臣、(おお)(ぬま)(しん)(いち)(ろう)。まだ五十歳の大沼は祖父も総理大臣、父も環境大臣等を歴任したサラブレッドだが、政治家としての真の実力は乏しく、元ニュースキャスターでフランス人とのハーフでもあるカトリーヌ夫人が、裏で彼を操っているのでは、というのがもっぱらの噂だ。

 ともあれ、


「上級貢献国民法が成立するということは、上級貢献国民法という法律が成立するということです」

「今のままでは、日本は立ちゆかない。だから日本は立ちゆかないのです」


「大沼構文」と揶揄される、これら意味不明の答弁で野党やマスコミを煙に巻きつつ、父から受け継いだ人脈やまめな根回しによって、あれよあれよという間に内閣が主導する形で上級国民法を成立させてしまったのが、ちょうど五年前のことである。

 しかも一年後には勢いに任せて、日本が大統領制に移行するという世界も驚く超大型法案まで、同様に議会通過させてしまった。これは来年二〇七一年から、議院内閣制、そしてもちろん民主国家の形は維持しつつも、国民の直接投票によって選ばれた大統領が、国の元首になるという法案である。正確にはフランスなどに倣った「半大統領制」という政治形態だそうで、従来の首相は主に内政を、そして大統領は外政と「三権のオブザーバー」たる立場を担うのだとか。


「総理大臣と内閣による独裁国家に日本は堕している、といった手厳しいご意見を長年いただいてまいりました。それを改革するには、改革しかない! 首相とともに新たな、そして多大な責務を負う大統領という為政者が生まれるということは、大統領が生まれるということなのです!」


 今では誰もつっこまなくなったお得意の調子で、大沼総理は各所でこんなコメントを連発している。その心中にはカトリーヌ夫人から吹き込まれたと思しき、来たるべき大統領選においてもみずからが勝利できる、という目算があることは明らかだ。実際、三期目の首相在任期間の来年に内閣総辞職をし、世界中からも注目される大統領選に満を持して打って出る旨を、大沼自身も公言しているのだった。

 だが。

 数日前、各媒体のニュースが驚くべき内容を報じた。


《ナナ様、大統領選に立候補か!?》

《菜々子様、皇籍離脱し大統領選出馬へ》

《Princess is President ?》


 国内のみならず海外のソースまでもが、センセーショナルな見出しとともに、ナナの写真を掲載したのである。

 もちろんこれは、アズケンにとっても衝撃的な報せだった。大学卒業後、正式に(?)皇族と一般市民という立場に別れてしまったこと、さらには走るという行為をやめてしまったことが重なって、もう一年以上ナナとは連絡を取っていない。やはり疎遠にしているダイは知らないが、最近はメリッサも同様のようで《ここんとこ、ナナの返信が遅いの》と、愚痴るようなメッセージをアズケンのAフォンに送ってきたのが、確か三ヶ月ほど前、真夏の頃だった。


 そういえばあいつ、最近あんまり取り上げられてないな。


 泣き顔の絵文字がついた、メリッサからの文面を見ながら思ったものである。

 国民に大人気のプリンセスであり、LGBTQ団体をはじめとした社会貢献活動も積極的に行うナナは、その活躍の様子が報じられる機会もこれまでは多かった。学生時代には、パパラッチらしき怪しいカメラマンが、SPの人に捕まる姿を目撃したことも複数回ある。けれども言われてみれば確かに、メリッサのメッセージが来た前後あたりから、彼女に関するニュースをほとんど見聞きしていない。

 それでも、いざとなれば直接連絡を取れる身だし、生来のクールな(メリッサいわく「とっつきづらい」)性分も相まって、アズケン自身は「便りがないのはよい便り」とばかりにさほど心配していなかった。だからこそメリッサにも、


《単純に、公務が忙しいんじゃないのか》


 と、安心させるように返したのだ。それがここに来て、まさかの報道である。

 まさか大統領選出馬などという、突拍子もない計画を立てていたとは。




《菜々子様、皇籍離脱し大統領選出馬へ

 宮内庁関係者によれば、上総宮家の長女菜々子様が、皇籍を離脱し来年の大統領選挙に立候補する意向を固めたという。菜々子様はかねてより、国力の低下に伴って弱者に厳しい政策・施策が続く日本の現状を憂いており、今回の国政制度の大型改革を機に、みずからそれを是正するために立ち上がる。同関係者によれば、特にLGBTQの人々や障害者への、医療政策・福祉政策に注力する内容を多分に盛り込んだ、マニフェストの骨子もすでに決まっているとのこと。

 日本の象徴という立場こそ変わらないものの、とりわけ為政者がますます敬意を払わなくなってきたとも言われる皇室からの、〝美しすぎる刺客〟。大沼首相と彼の一派が牛耳る日本の在り方を、本来の国民主権に戻す女神となれるかどうか。国内外から、大きな注目を集めることは必至だ》


 トップページに大見出しが載ったニュースをAフォンで読んだ直後、アズケンが視線を移したのは、合わせて掲載されているナナの写真だった。皇族の画像や映像でよく見る、ハイヤーの後部座席から穏やかな微笑をカメラに向けた写真には、《ご公務に向かうため、御所から出発される際の菜々子様》とだけ記してある。


「ナナ。どうしたんだ……」


 思わずつぶやく一方で、ナナならやりかねないという思いも、同時に沸き起こっていた。この報道が真実なら、少なくとも彼女が掲げようとしている政策に関しては、大いに納得できる。自身がLGBTQの親友を持ち、常に社会的弱者の傍らに寄り添ってサポートをし続けてきたナナ。しかも本当は、おしとやかというよりは、活発で世話好きのお姉さん気質な性格。


「……だからって、なんで」


 なんとも複雑な想いのまま、アズケンはAフォンを閉じたのだった。

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