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立春と雪と溶けるような、君と



「今日、うちに誰もいないのよ」


 残寒の候、そちら様におかれましては益々ご健勝のこととお慶び存じ上げます。……じゃなくて。

 立春を迎え、他県では梅の香りもそろそろやってくるのではないかと言う季節。

 残念ながら、こちらではまだ分厚い雪が白く積もっている。

 向こうに見える灰色の厚い雲は上空の寒さを伝え、今にも霰でも降るのではないかと言うほど身が凍える中。

 僕は暫しの放心からか、時候の挨拶を思い浮かべてしまっていた。


「な、なんだって?」

「今日うち、誰もいないのよ」


 教室の端。ざわざわと騒がしい放課後。

 彼女が机に肘をついてこちらを見ている。


「そ、それが?」


 僕は彼女の言葉に激しく動揺しつつも、どうにか平静を装う。装えているかは問題ではない。

 装おうとする気持ちが、今は大事なのだと強く断言しよう。


「前に、私の手料理を食べてみたいと言っていたわよね」

「言っ……」


 彼女が薄く微笑みながら告げる。

 言ったか言っていないか、僕は覚えていない。言ったと確信は持てないが、いつも食べたいと思っていることは間違いない。

 それにこのやり取りで間違いなく起きる出来事。つまりこの後彼女の手料理をーー。


「……ったね。うん、言った」

「嘘よ。言ってないわ」

「…………」


 僕は空を見る。

 暗い雲はまるで僕の心を表したかのようであり、外の寒風は僕の心に吹き荒れる感情のように冷たかった。

 空の色が淡く滲む。世界はこんなにもすぐに歪んでしまうのかと、僕は軽く絶望する。


「泣くことないでしょうに」

「泣いていないよ」


 彼女がクスクスと笑う。口元に当てられた白く細い指に思わず目がいく。

 僕は念の為目元を拭い、彼女の方を向く。


「それで、君は一体僕に何の用なんだい」


 若干拗ねた言い方になってしまったが、それも彼女に見透かされているらしく。

 彼女は微笑みを絶やさず返した。


「今日は遅くまで一人なの」

「うん」

「だから、誰かを招くチャンスなのよ」

「それで、僕を?」

「そ。よかったらご馳走しようかと思って」


 僕はポケットからスマホを取り出し、文字を入力する。


「どうしたの?」


 僕がそれをしまうと、彼女は首を傾げて訊ねた。


「家に、今日は遅くなるから晩御飯はいらないと伝えたんだ」

「ふふ、ふふふふ」


 彼女は再び笑う。


「期待してくれた、ってことでいいかしら?」

「……うん」

「そんなに慌てて連絡するほどに?」

「…………うん」


 彼女の言葉に僕は目を逸らして頷く。

 ひとしきり笑い終えた彼女はすくと立ち上がる。

 僕も彼女に倣ってカバンを持って立つ。


「まずは材料集めからね」


 嬉しそうに笑う彼女に、僕も頷いた。







「ただいま」

「お、お邪魔します」


 スーパーであらかた材料を購入し、彼女の家に入る。

 ひき肉、玉ねぎ、生クリーム、ウスターソース、ミルクチョコレート、パン粉。

 いくつかは家にある材料で事足りるらしく、それほど多くは購入しなかった。

 材料からある程度想像はつくが……言うだけ野暮だろうと思い、僕は黙っていた。


「お母さん。これ、冷蔵庫にしまっとくね」

「え、お母さん!?」


 リビングに入った彼女が話す声に、僕は思わず声を出す。

 すると彼女がクスクスと笑う声が聞こえてくる。

 僕は靴を揃えて慌ててリビングへ、彼女を追いかける。


「お邪魔します! 急にやってきて申し訳…………いないじゃないか!」

「ふふ……あはははは!」


 珍しく彼女が大声で笑う。

 リビングには僕と彼女以外、誰もいない。

 つまりは彼女の演技に踊らされたというわけだ。


「はー、よく笑った」

「……」

「さ、作るわよ」


 パッと切り替える彼女に僕は驚いて目を見開いてしまう。

 その様子にまた彼女は笑うと、こちらに向けて何やら布を差し出した。


「これは、エプロン?」

「そ。制服のままか、私服。どっちが良いと思う?」

「え! 僕が選ぶの?!」


 僕が訊ねると、彼女は意地悪に笑みを浮かべ頷いた。

 これは、一体何を問われているのだろうか。

 すぐに料理を作りたいと言うのなら着替えなくても良いし、汚れると困ったり動きにくいと言うのなら私服に着替えた方が良いように思う。

 ……ただ、そんなこと彼女は百も承知だ。そんなことを訊ねてるんじゃない。


「……着替えてきなよ」


 僕は目を逸らして言う。

 彼女は意外そうに目を丸くした。


「いいの?」


 僕は目を逸らしたまま答えない。

 …………正直なことを言うと。制服エプロンは調理実習の時に見たんだ。

 だから、今は彼女の私服を見たい。


「なるほどね」


 彼女は僕の心を読んだのかと思うようなタイミングで頷くと、2階へと登って行き、すぐに着替えを済ませた。

 ダボっとした黒いニットセーター。……やばい、僕には刺激が強い。

 彼女が服装を見せるように腕を広げくるりと回る。長いスカートがフワリと広がると、こちらを少し見上げて問う。


「どうかしら」

「可愛いよ、すごく」

「え……」

「あ」


 反射的に答えてしまってから、僕はまた目を逸らした。

 彼女も何も言わず、エプロンを付ける。


「……まずはこれを使います」


 そう言う彼女を見ると、彼女も僕から目を逸らしている。

 手に持っているのはミルクチョコレート。


「チョコ?」

「そ。今日は何月何日?」

「えーと、確か」


 と、言いつつ僕はスマホを取り出す。

 日付。

 2月14日。


「……バレンタイン?」

「正解。100ポイントあげましょう」

「え、ありがとう?」

「1ポイント1円に交換できるわ」

「存外すごいポイントをもらってしまった」


 ついで生クリーム、棚からココアパウダーを取り出すと彼女は僕にエプロンと三角巾を差し出した。

 見ると彼女も三角巾を頭につけている。


「僕も作るの?」

「あら、バレンタインは女の子のイベントだと思っているタイプかしら? 本来は男性から贈り物をすることもあるのよ?」

「あーいや。日本だけバレンタインが違うのは知っているけど……」


 ここ、日本だしなぁ……。と言ったところで無駄なことはわかっている。


「前髪はちゃんとしまうのよ。ほら、おでこ出して」


 僕よりほんの少しだけ背の低い彼女が僕の前に立つ。

 僕が前髪を捲り、額を出すと、彼女は三角巾を僕に当てた。

 ふわりと香る彼女の香り。彼女の吐息が僕の首元をくすぐる。

 ……だめだ、これは、なんか、だめだ。


「よし、つけたわね。ふふ、ふふふふふふ」


 彼女が僕を見て満足そうに頷いた直後、口に手を当てて笑う。

 何が起きたのだろうと思い、棚のガラスを鏡代わりに覗く。


「似合ってないな……僕。前髪がないのが特に……」

「前髪は出しちゃダメよ。ふふふふふふ」

「君は前髪を出してるのはどういうことだよ……」


 毛髪がどうこうじゃない。

 とにかく彼女は可愛く。僕はひたすら格好悪くコーディネートされただけだ。


「さて、時間もないし生チョコにしようと思うわ」

「生チョコって時間がない時に作るようなものなんだ」

「そうよ。ほら、まずはチョコを砕いてね」


 彼女がチョコレートを差し出すので僕はそれに従い砕く準備をする。


「簡単に言うと生クリームを温めてチョコをそこに溶かして、固めて、ココアパウダーを掛けるだけ。簡単でしょ?」

「あ、わかった。湯煎ってやつだ」

「湯……あははは! 良かったわ、この作り方で」


 彼女が言葉を詰まらせた後笑う。……どうやら湯煎ではないことだけは察した。

 彼女が生クリームを温めている間、僕は彼女を見つめていた。


「バレンタインの起源ってなんだろうね」


 僕が言うと彼女はチラとこちらに目をやり、少し微笑んだ。


「結婚を禁止した政府に逆らってこっそり結婚式を挙げさせていた神父さんの名前、ってところかしらね」

「君はなんでも知ってるなぁ」

「ふふ、ありがと」


 彼女は少し微笑むと、また目線を鍋に落とした。


「そういえば本命チョコには髪や血を入れるらしいわよ」

「怖っ!! 知りたくないよそんなこと!」

「冗談よ。ふふふ」


 もし、だ。

 彼女が僕に本命チョコをくれたとして。

 それに髪の毛や血が混じっていたと知れば……。

 それは……うーん。うーーーーん。

 ダメだ。想像力が僕には足りない。

 そもそも本命チョコという時点であまり現実感がない。


「あなたはどんなチョコだったら本命だと思うのかしら」

「うーん。でも分かりやすく義理だと示してくれないと、全部そういう風に期待しちゃうかなぁ」

「分かりやすく……ね」


 生クリームがいい温度になったところで、彼女は僕の砕いたチョコレートを放り込み、手際よく混ぜていく。


「あとはバットや型に流し込んで何時間か冷やすだけ。簡単でしょ?」

「すごいね。こんなに手際良く作っちゃうなんて、君は本当にすごいよ」


 僕のやったことはチョコを細かく刻んだだけだ。

 材料の準備も、分量の計算も、彼女は流れるように行なっていた為、僕はその工程に気付かないほどだった。

 僕はその後彼女の指示に従い、チョコレートを流し込み、平らにならす。

 冷蔵庫に放り込んで後は待つだけらしい。




 それから。

 予想通り、手料理というのはハンバーグだった。

 ハンバーグというと想像するのは鉄板の上の厚いハンバーグだが、今回は煮込みハンバーグ。


「火の加減が適当でも良いから煮込みの方がいいのよ」


 と、彼女は言った。

 僕としてはソースの旨さに感動していた為、煮込みハンバーグでよかった。ソース万歳。煮込みハンバーグ万歳。

 既製品ではない、手作りのソースはまるでお店のように美味しかったので、僕はその感想をそのまま伝える。


「レシピ通り作っただけよ」

「それでもだよ。すごいよ君は。すごく美味しいよ」


 伝えると、やや眉をひそめて彼女は他所を向いて目を逸らした。

 怒っているわけではないのは、口元の緩みから伺うことができた。

 僕がそれに気付いたことに気付いた彼女は、口元を手で隠すとこちらを睨む。僕は手を挙げて降参のポーズを取ると、首を左右に振った。


「洗い物は私がやるから置いておいて」

「いや、僕もやるよ。何から何までしてもらって申し訳ないから」

「じゃあエプロンと三角巾つけてね」

「やだよ」


 僕が洗った皿を彼女が全て戸棚にしまうと、彼女は冷蔵庫を開けた。

 そして何やら自室へと向かうと、箱を持って帰ってきた。


「これは?」

「ハッピーバレンタイン」


 差し出されたピンク色の箱を受け取る。中身については予想すら必要とせず、先ほどのチョコだろう。

 開けてみる。

 ハート型のチョコ。


「い、いつの間に……」

「ふふふ。分かりやすく言わないと分からないって言うから」

「あぁ、義理チョコのことか……」

「そ。義理チョコよ」


 ハート型なのに。


「もう、君は意地悪だね」

「分かりやすくないと分からないって言うからよ」


 ハート型はこれ以上なく分かりやすいんじゃないだろうかと思う僕だが。

 義理チョコであると面と向かって言われている。

 もはや何が何だか分からなくなっていた。


「ま、でも真実は一つだ」


 僕はチョコを口に放り込む。

 そして、もう一つを彼女に差し出すと、彼女は僕の手からそのままチョコを食べた。


「甘くて甘くて、とても美味しいよ」


 そう言うと、彼女は口を綻ばせながら返した。


「そうね」


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