第28話 おちおち泣いてもいられない。
香ばしい匂いを感じて深刻な空腹を覚えた。その匂いは、顔中にぶつかっては去っていく空気の中にあった。
俺はまだバイクらしき何かに乗っている。突如として出現した地獄から逃げ出してから、三十分は経過していた。五分程度で荒野に出て、今では別の街だ。後ろを振り返っても、星府から立ち上る黒煙は見えなくなっている。
恐怖の感情は未だ俺の中に厳然と存在している。だが、街にただよう料理の匂いに嗅覚が敏感に反応してしまったということらしい。そういえば――、
「飢餓感がやば過ぎる」
あのジギスムント(本物)と出会った部屋で目覚めてから、食事をした記憶がない。
あの悪辣な姉妹のために沢山の食糧を買ったが、俺自身は結局一口も食べていない。空腹の限界だ。寝たきりだった頃はすべての栄養は点滴経由で供給されていた。血糖値は下がりようがないから、空腹感も久しぶりというわけだ。
もっと遠くに逃げるべきだが、我慢できそうもない。あの街から逃げ出したというだけでまったく安心できる状況ではないが、何かを食べなくては。
どういう理屈で動いているのか検討のつかないバイクは、俺の身体の動きを察知したのか円滑に停止した。
バイクから降りて辺りを見渡すと、香ばしい匂いの元があった。まさに目の前だ。その建物は玄関が大きくて、窓硝子の向こうでは沢山の人間がテーブルを囲んでいる。料理を出して金を取る店だろう。食堂か宿かは知らないが、正確な業態は何でも良かった。まさに俺が今求めている場所だ。
勇気を出して入店する。客は三十人くらいだろうか。顔見知りが多いようで、ガヤガヤとうるさい。が、全員が高いところに据えられた小さいテレビを注視している。
砂嵐しか写っていないのにどうしてだろう。まあなんであれ、お陰で俺が入ってきたことに気づいたものはごく少数だった。
ありがたい、と思った。正直、どのような種類のコミュニケーションも取る余裕がない。例外は食事の注文だけだ。カウンターまで静かに歩き、店主らしき厳つい顔立ちの中年に話しかける。
「なにか食事を貰えませんか」
「先に金を払いな」
顔立ちに相応しい低い声に応じ、残り少ない金貨を一枚置いた。店主はギロリと俺を睨んだ。金は金でもマジの金かよ、と言っているようだった。帝国金貨なんて見たことねぇぞとか、どうやって釣りを出せばいいんだとか、ぶつぶつ呟く。
「お願いします」
鼻を鳴らして店主は料理を始める。店中にただようのと同じ、肉の焼ける香ばしい匂いが新鮮に立ち上がり、俺の腹はぐぅとなった。
カウンター越しのフライパンで肉が焼ける。何肉かはまったく分からなかった――最後に肉を口にしたのは何年前か思い出せないほどだし、何しろSF世界である。タンパク源の元がなんであっても驚かない――が、ともかく美味しそうだ。
「ほらよ」
出てきたのは真っ赤なスープが目立つ麺料理だった。麺の上に、沢山の野菜と一緒にさっき焼いていた何かの肉が載っている。もちろん見覚えはなかった。さっそくレンゲとスプーンとフォークが合体したような食器で口に運ぶ。
赤い見た目に反して辛くないのは助かったが、味に馴染みがなさすぎて、美味いとも不味いとも思えない。白米を食べたいな。肉が出るなら米も欲しい。当然だろう。俺は日本人なんだ。ああ、パンでもいいぜ。米と同じくらいパンも好きだ。
香辛料が嗅覚を刺激するのを感じながら、俺は思い出す。
母さんは米派で、父さんはパン派だったから、朝食にはどっちも出てきた。子供を自らの勢力に加えようと、両親は可愛らしい争いを続けていたっけ。懐かしいな。
あの頃に戻りたい。何の不安もなくて、ただただ最高に格好良くて優しい両親のことを信じているだけで、すべてが上手く行った頃に。
どうして俺は、こんな目に遭っているのだろう。
遥かな未来の知らない星で、何故逃げ回っているのだろう。何の罪もない市民が死ぬ姿、市民を殺した兵士達、その兵士を虐殺したジギスムントの親衛隊長。何故俺は、血で血を洗うような地獄に直面しなくてはならなかったんだろう。
身体が動かなくなる病気に侵されていたというだけでも、十分に辛かったというのに。
「あんちゃん。俺の料理は泣くほど美味いってわけじゃないぜ」
店主が強面に似合わぬ心配そうな声で言った。
「泣く?」
頬に伸ばした指先が濡れた。本当だ。俺は泣いているらしい。くそっ。空腹感が満たされると安心して精神も緩むんだろうか。くそっ、くそっ。こんなんじゃだめだ。しっかりしろ。俺は生きねばならないんだ。袖で涙を拭きながら決意を新たにしていると――、
「総督府発表」
ザザッと音がなって、高いところから平坦な声が響いた。
振り返ると、先程まで砂嵐状態だったテレビが銀河帝国の国章を映している。
今度は何だ。
おちおち泣いてもいられない。
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