私の憧れは現実となった
時間制限があるのか、あるいは単なる不具合か、ゴーグルの中の映像が突然切れた。
楽しかったのに残念、私は仕方なくゴーグルを外し、壁の時計を見た。機械を装着してから一時間が経過している。10分かせいぜい15分くらいの感覚なのに。
向かいに座っていた男は姿を消していた。それだけ夢中になっていたということなのか。この機械はヤバい代物かもしれない。刺激的だわ。
画面の中の私を操作することはできない、男はそう言ったが誤りだ。最初は確かに向こうから意識が伝わってきた。私が受け取った意識は、私自身の意識でフィードバックされて、やがて画面の中の自分の行動が私の意識とシンクロした。私がしゃがみたいと思えば、画面の中の私がしゃがみ、ペン先を触ってみると軽い痛みが伝わってきた。
ドアが開き、私をここに連れてきた男が再び現れた。
「ご満足いただけましたか?」男は言った。
「ええ、とても」私は努めて冷静に返した。「ただ一点、ご説明と異なっていました」
「ほう…、どの箇所でしょうか?」
「VRの中の私を操作することはできない、そう伺いましたが、実際は私の意思で彼女が行動していました、途中からですが」
「なるほど、それはすごいです、完全にマスターしましたね。では明日から5日間VR研修を受けていただけますか? VR研修の翌日からオン・ザ・ジョブ・トレーニングのスタートです。少々ハードかもしれませんがVR研修の5日間とあわせて7日間連続でトレーニングを受けていただき、そのあと3連休という日程でお願いできませんか?」
「ええ、大丈夫です」
「ではこの体験用の機械はもうよろしいですね」男は立ち上がるとテーブルの上のゴーグルを取り上げた。思わず自分の手が伸びそうになり、私は軽く動揺した。飢餓感という言葉が浮かんだ。
「どうかされました?」男は白々しく訊いた。
「いえ…、あの…、今日はもうおしまいですか?」
「ええ、お疲れでしょう? 今日はゆっくりとお休みください。ドアを出るとすぐVR研修者用の部屋があります。よく言えばシンプル、悪く言えば殺風景ですが、そちらでお過ごしください。従業員宿舎の室内はホテルの客室同様の意匠がほどこしてあります。人間というのは、ご褒美がないと身が入りませんからね。今日からご利用いただく部屋をわざと殺風景にしてあるのも、VR研修を無事に終えて綺麗な部屋に移るためのモチベーションだとご理解ください」
「ここに置いてください。ここで働きたいです」さきほど浮かんだ飢餓感という言葉に煽られたかのように、私の口から唐突に言葉が出た。
「弁護士事務所の方はどうするんですか?」
「すぐに辞めます」
「まあまあ、そんなに慌てて結論を出すことはないじゃないですか、だいたい弁護士さんが労働条件も確認せず働かせてくださいなんて尋常ではありませんね」
「率直に申し上げて、どんな仕事に就いたところで私の給料は数分の一に減るでしょう。仕事を変えるなら報酬には期待しません。ここの従業員の方々はそれぞれに個性があって、美しい。劣悪な労働条件、もしくはやりがいが搾取される環境であれば、働く女性に型にハマらない美しさはありません。これでも弁護士ですから、ご提示していただける契約書の文面は予想がつきます、実物を見て驚くことはないでしょう」
「なるほど…、それでは、病気とか家族に不幸とか何らかの理由をつけて、あと一週間休暇を伸ばすことはできせんか? 実はいまご体験いただいたのが、ホテル・サンタ・アナのVR研修システムです。まずこちらで一週間ヴァーチャルの研修を受けていただきます。オン・ザ・ジョブ・トレーニングは重要ですが、トレーニング中のスタッフを目にすることを不快に感じるお客様もいらっしゃいますので、現場に出る前に一通りのことはこのVRで身につけていただけるはずです。ですが、どんな仕事でも向き不向きがあります。能力の問題ではありません。一週間のVRのプログラムを終えたときに不安を感じられるようでしたら、またいつかお客様としてお戻りいただいた方がよいでしょうね、退路は残しておくことが合理的です」
「ご助言はありがたいのですが、それなりの場数は踏んできたつもりです。その経験から、直感は正しい、そう断言できます。私の場合、その後どれだけ熟考を重ねても直感で出した答えが覆ることはありません」
「なるほど、それは素晴らしい! 実は内規がございましてVRの研修の終了後に正式な契約という順序で手続きを進めさせていただきます。その点だけはご了承ください」
「わかりました」私は一連の交渉が成功したと確信した。
翌日から本格的なVR研修が始まった。ゴーグルを装着している間は驚くほど時間が早く進む。どうやら私はVRの画面に没入して一緒に身体を動かしているらしい。一日のトレーニングが終わると、といっても私にはわずか一、二時間くらいにしか感じられないのだが、ぐったりして動けなくなる。それでも頭の中は、これ以上なにも詰め込めないという放心状態と、早く明日になってほしいという興奮状態が高速で入れ替わり、夜の間は覚醒している私と、死んだように寝ている私が、殺風景な部屋の小さなベッドの上で同居している。覚醒している私の夜は長く、死んだように寝ている私の夜はあっという間に朝に変わる。
時間の間隔がおかしい。
部屋の小さな窓はほとんど開かない。外を見れば、空にはおぼろ月がにじんでいる。解像度の低い画像のように。
明日からいよいよOJTが始まる。この年齢で新米というのも新鮮でワクワクする。興奮して頭が冴えているはずなのに、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
聞きなれないアラームの音で目が覚めた。ベッドが違う。昨日よりも広く、身体が深く沈む。いい匂いがする。カーテンの隙間から朝の光が漏れて、室内には薄明りが差している。
壁紙には模様がある。一週間ずっと目にしていた真っ白で殺風景な壁とは違う。ホテルの客室の意匠はそのままにコンパクトにした感じ。間違いない。VRの中で何度か目にした、従業員宿舎の室内。いつの間にここに移ったのだろう?
ベッドサイドのデスクに置かれたタブレットの画面が光っている。
「10分後に支配人室にいらしてください」メッセージのテロップと地図が表示され、現在地と支配人室の場所がチカチカと点滅している。
私は慌ててベッドから立ち上ると、洗面台に直行した。
鏡を見て私は言葉を失った。が、身体は動いた。身体が動くと頭も働く。恰好なんてどうでもいい。私は部屋を出て、素足のまま支配人室を目指し、部屋のドアを開けた。
重厚な机の向こう側で、例の男が薄ら笑いを浮かべて座っている。
「どういうこと?」私は叱責するように言った。
「私には素敵なお顔に見えますが、お気に召しませんか?」男はすっとぼけたように返す。
「これ、誰の顔よ?」私は自分の顔を指さして叫んだ。「どうやったらこうなるのよ? 私の顔を返してよ」
「まあ落ち着いてください、よくある不具合ですよ」
「不具合? 私はモノじゃないわ」
「優秀なあなたですから、とっくにお気づきかと思っていました、どうやらあなたを買い被っていたようです」
「バカにしてるの? はっきり言いなさいよ」
「ではお話ししましょう、私は一つ嘘をつきました、最初にお見せした映像を覚えていますか?」
「あの合成のこと?」私は取調室のような部屋で見せられた映像を思い出した。
「ええ、合成にしてはよくできていると感じませんでしたか?」
「まあ…」
「実は合成ではありません、汎用型のアンドロイドにあなたのスキンを被せたものです。Beauty is only skin deep、この言葉はご存じですか? 美しさなどしょせん肌一枚分だけしかない、人間なんて一皮むけばたいして変わらないということです」
「アンドロイド?」頭がついて行かない
「もしあれが本物の人間なら、どうやってあなたに意識を伝えたのでしょうか? ご自分に置き換えればおわかりでしょう? あなたの意識のすべてを誰かに伝える、そんなことが可能でしょうか? 思い出して下さい、画面の中のあなたは何か器具を装着していましたか? していませんよ、二人の人間が言葉もなしにどうやってコミュニケーションを取るのでしょう? 一方がアンドロイドだからできたのです」
「アンドロイド」私は同じ言葉を繰り返した。バカみたいに。
「それに、私は申し上げました、あなたの意識で画面のなかのあなたを動かすことはできないと、それなのにあなたはできたと主張した、ただの錯覚です、あなたの意識がアンドロイドを操作したのではなく、アンドロイドがあなたの意識を操作したのです、ゴーグルを装着していただく前に『何が起こると思いますか?』と私が訊いたのを覚えていますか? 答えは『錯覚』ですよ。あなたが錯覚したのです。」
「私がバカだった?」
「そうは申しませんが、挽回の機会を差し上げましょうか? ゴーグルを装着している間はあなたの意識で行動しているわけではないと申し上げました。では、その間あなたの意識はどこにあったのでしょうか? もちろんなくなったわけではありません、あなたは生きているのですから」
「どこよ?」
「もう降参ですか? 時間を無駄にしないのですね、素晴らしい」男は明らかに私をバカにしている。「あなたの神経伝達系の回路を他の人間につなぎました。もうおわかりと思いますが、人間が自分の意思で行動するというのも錯覚です、人間の意識が脳に命令を出した結果身体が反応するのではなく、身体が動くことで脳が反応し、意識が書き換えられる。つまり、身体が動いたという信号を脳が受け取れば、あなたは自分の意識で行動したと思い込むわけです。重要なのは、その身体があなた自身の身体である必要はないということです。体験していただいた通りです。別の人間というのは、さきほどあなたが鏡の中で見た女性、今私の目の前に姿を見せているマリアです。外見はマリアですが、中身は蛭田那奈さんのままですよ」
「私が納得するわけないでしょう?」
「そうでしょうか? 若くて美しくなれるのですよ、何が不満なのですか? たいていの人間は満足しますよ」
「私は私なの、私の顔と身体が好きなの、たいていの人とは違う、一緒にしないで」
「そんなことはありません、あと1時間もすれば馴染みますよ、申し上げた通りただの不具合です。馴染んでしまえば、あなたはマリアです。もし誰かに『あなたは蛭田那奈さんだった』と言われても、「何をバカなことを、私はずっとマリアよ」と言い返すことになるでしょうね」
「ねえ、VRのトレーニングは昨日で終わりでしょう? だったら私の意識を私の身体に戻せばいいじゃない?」
「そうもいかないのですよ」
「どうして?」
「アンドロイドのセンサーでお客様の反応をモニターしていたのですが、評価が基準に達しませんでした」
「何がいけなかったのよ?」
「顔ですよ。あなたの顔がホテル・サンタ・アナのお客さまに受け入れられなかったのです、残念ですが」
「だったらクビでいいじゃない?」私はムッとして、声を荒げた。
「あなたをクビにする理由はありません、一週間のVR研修を無事に終えたのですから」男は相変わらずの口調で言葉を返す。
「ふざけないでよ、私の顔を返してよ」私はさらに語気を強めた。
「人間はなぜ生きていられると思いますか?」まるでマニュアル通りといった様子で男はいきなり話題を変えた。
「は?」私はいきり立つ。
「答えは代謝です。細胞が常に入れ替わるから生きていられるのです。分子レベルで見れば、現在のあなたと一年前のあなたの間にはなにひとつ共通するものはない」
「それが何?」
「細胞には自我も自意識もありません。与えられた仕事を黙々とこなし、時期が来れば次の新しい細胞と入れ替わるのです。ではこういうのはいかがでしょう? 長年住み慣れた街を愛している人間がいるとしましょう、この人が『この街の魅力をもっと高めたい』と願うなら、何をするべきだと思いますか?」
「さあ?」私はクイズ番組が嫌いだ。答えを考える気にもならない。
「古い住人は街からいなくなるべきです。都市も人間と同じです。住人が入れ替わらない街は壊死するのです」
「だから何よ?」
「まだわかりませんか…、ホテルも同じなのですよ、ホテル・サンタ・アナがお客様のご滞在を6泊までとしているのは、同じお客様に長く留まってほしくないからです。ずっと同じお客様に居座られたら、新しいお客様が寄り付きません。ホテルは死んでしまうのです。お客様だけではありません。スタッフもまたしかりです。お客さまはつねにサプライズを期待します。どれだけご満足いただいても、次回まったく同じサービスを提供したらお客様は失望を感じます。スタッフの顔ぶれが変わらなければやはりホテルは壊死するのです」
「だから、お客様に気に入っていただけない私をクビにすればいいじゃない?」
「そうはいかないのです」
「どうしてよ?」
「見た目は同じでも中身が違えば与える印象は微妙に異なります。つまり1サイクル目のマリアと中身があなたと入れ替わった2サイクル目のマリアは微妙に違う、たいした違いではなくてもお客様の目には新鮮に映るのです」
「じゃあ、マリアは…」
「ご理解いただいたようですね、マリアの意識とあなたの身体と接続しました。マリアはすでにホテルを去りました、あなたの身体と一緒に。今までずっとずっと蛭田那奈の顔で生きてきた、マリアはわずかな疑いさえ持つことがない、もう馴染んでいますから」
「まさか、知り合いにあったらすぐにバレるでしょう?」
「バレる? 誰に何がバレるのですか? 彼女はこれから蛭田那奈として生きていくのですよ」
「何言ってるのよ? 誰がそんなことを望むのよ?」
「私はあなたの望みを叶えたまでです。あなたの居場所はここ、アルマス通りのホテル・サンタ・アナ、名前はマリア、アクセントはマではなくリに置いてください、マリーアです。憧れの外国人になれたのですよ、ご満足でしょう?」
「冗談じゃないわ、私はこれからマリアにあってあなたを訴えるわ」
「ですから、一時的な不具合だと申し上げたじゃないですか、もう少しすればあなたの身体と意識は馴染みますよ、かつて蛭田那奈だった記憶は消えてしまいます、…そういえばピストルを目にしてからの行動はお見事でした、まったく躊躇がない、ハリウッド映画か海外ドラマがよほどお好きなのでしょうね? 私を殺したいですか?」
「ええ、殺したいわ」
「ほお、でもそれはやめた方がいい、私が死ねばあなたも終わりです、社会的な終わりではなく物理的な終わりです、あなたも死ぬのです、…おわかりにならないようですね? 先ほど訴えると仰いましたね? 私の名前も知らずにどうやって訴えるというのです?」
「名乗りなさいよ」
「私の名刺です」男は白地の紙を差し出した。黒い文字で『ホテル・サンタ・アナ』とだけ書かれている。
「何よ、これ? ただのカードじゃない?」
「いえ、私の名刺です」そういうと男はゆっくりと机から立ち上がった。同時に、男の体が縦にも横にも伸びて部屋を覆い尽くした。どこが手でどこが体なのかもわからない。顔だけはそのままの形で、天井から私を見下ろし、笑顔を浮かべて言った。
「名乗るのが遅れました。私がホテル・サンタ・アナです。あなたは今日からホテル・サンタ・アナの一員、つまり私の一部です。ホテル・サンタ・アナへようこそ」