11章~エピローグ
11章 二月
自由登校になったので、学校に行かなくなった。メッセージアプリのクラスのグループを見るに、もう進学が決まってる推薦組だけが登校してチャラけているようだ。その様子が目に浮かぶようで、試験が終わっても登校日まで行かなくてもいいや、と思った。あったかい家で一人、最後のあがきをする。
滑り止めと本命の試験は週をまたいである。試験日が近付く度にキリキリと胃が痛む。不安に駆られながら、問題を解いて答え合わせ。そして、間違い直しの繰り返し。寝る前に、今日やった分を千歳さんに報告する。最近は頁数を入力するのもめんどくて、写真を撮って送ってる。千歳さんは毎日褒めてくれる。今日も『お疲れ様です。毎日頑張ってますね。日々の努力が自信につながるので頑張って下さい』って返ってきた。『ありがと♡おやすみ☽』って返して、ベッドに横になった。枕元には、もらったストールを置いている。いつも一緒に寝てる“くまた”をぎゅっと抱きしめた。
「だいじょうぶ…だよね?」
やれるだけやってるつもりだけど不安だ。自由登校になってから、友達とメッセージのやりとりもしてない。早く受験から解放されて、またぱぁっと遊びに行きたいな…。
「はぁ…。」
溜め息が出た。母が「溜め息をつくと幸せが逃げる」って言ってたのを思い出して、慌てて吐いた息をつかんで飲む仕草をしておいた。こんな小さな事でも験を担いでおきたい。
翌日の日中。メッセージアプリの通知が鳴った。千歳さんからだった。
『何色がいいですか?』の後に三色のお守りが映った写真があった。『白がいい』と返す。『了解しました。夕方、お届けに伺います』と返ってきた。
マジで!?最近はずっとふわもこのお気に入りの部屋着で過ごしていたが、この格好で人前に出るのは恥ずかしい!慌てて着替えた。顔も洗い直して、髪の毛を梳かす。ヘアピンをクロスしてとめた。
「よし!」
鏡を見る。最近乾燥気味だからスキンケアもまたやった。ほんのり色づくリップクリームも塗った。血色良く見える。
「うん!かわいい♪」
久し振りに気分が上がった。夕方、千歳さんに会えるなら頑張っちゃお!その後は、スイスイ勉強が進んだ。
『五時には行けそうです』とメッセージが来た。『りょーかい(ウサギスタンプ)』と返す。それから、「あっ!」と思ってメッセージを追加した。
『あのさ、今月入ってから学校も無いし、母としか喋ってないから、ちょっとでいいから息抜きの話し相手になって』と手を合わせるウサギスタンプと一緒に送った。千歳さんは真面目な人だ。こうでも言っておかないと、本当に玄関先でお守りだけ渡して帰ってしまうに違いない。長めの前置きを書いたのは、単に「お茶してって」と言っても断られると思っての作戦だが、事実だから許されるだろう。
しばらくして既読がついて、メッセージが来た。
『分かりました。差し入れ持って行きますね』
『神!』
五時ちょうどにチャイムが鳴った。
「はいは~い!」
ドアを開けたら、黒のロングコートを着た千歳さんが立っていた。
「お久しぶりです。」
「あがってあがって。」
リビングに通す。
「コーヒーでいいよね?」
「はい。ありがとうございます。それで…、今日はアイさんにこれを届けに来ました。」
そう言って、湯島天神と朱書きされた白い紙袋をくれた。
「あ、ありがと…。わざわざお守り買いに行ってくれたの?」
「所用のついでなので、お気になさらず。」
コーヒーをいれたカップをだしたら、「あぁ、そうだ。これを」と手提げ袋をくれた。
「差し入れのバームクーヘンです。」
「やった~!ちょうど甘い物が食べたかったんだよね♪」
早速包装紙を剥がす。箱の中から、個包装されたカット済みのバームクーヘンが出て来た。一つ取って、手渡す。自分用のも取って、早速食べた。
「うま~~!!」
「それは良かった。試験は来週ですか?」
「うん…。来週と再来週に二つ受けて、それでおしまい。もうここまで来ると結果はどうあれ、さっさと終わらせて自由になりたいよ…」
「分かります。私も昔、そうでした…。縋れるモノには何にでも縋りつきたくて、神頼みもしました。」
「溺れる者は藁をもつかむ!ってやつだね。でも、ほんとそう!」
「アイさんは毎日頑張ってますから、きっと大丈夫ですよ。今日、道真公にもしっかりお願いしておきました。」
「みちざねこー?」
「学問の神様と言われる菅原道真ですよ。」
「あっ!遣唐使の人!」
「正解です。」
「やった!覚えてる!吉備真備とかと一緒に名前出て来た!」
「そうです、そうです。」
「なんか、吉備真備と墾田永年私財法って、語呂がいいよね。」
「そうですね…。皆、何故か墾田永年私財法は覚えてますよね。」
「ネタTシャツにもなってるんだよ。」
「ホントですか?」
「うん。」
そんな他愛のない話だったけど、楽しかった。三十分位、お喋りした。
「では、私はこれで…」という千歳さんを玄関に送る。
「ありがと!いい気分転換になった。」
「なら、良かった。試験頑張って下さいね。」
「うん…。頑張るけど…、本当に大丈夫かな…?」
ポロリとでた本音だった。
「大丈夫ですよ。毎日あんなに頑張ってるんです。努力は裏切りません。きっと上手く行きます。自信を持って下さい。アイさんにそんな弱気な顔は似合いませんよ。」
「じゃ、何なら似合うの?」
「それは、やっぱり笑顔でしょう?『笑う門には福来る』ですよ。」
そう言って、頭を撫でてくれた。
「大丈夫です。アイさんがやってきたこと全部がここに入ってますから。心配いりませんよ。」
子ども扱いかもしれないけど、嬉しかった。
「…うん。頑張る!」
「その意気です!では。」
「あ、そうだ。」
「なんです?」
「千歳さん、土器て好き?」
「好きですね。」
「そっか。」
「なんですか?」
「なんでもな~い。今日はありがと!」
「はい…。では、また。」
そう言うと、小さく手を振ってエレベーターに乗り込んで見えなくなった。玄関のドアを閉めて、ベランダに走る。上から見られてるなんて思いもしない千歳さんが、こっちを振り向きもせずに交差点を曲がって行くのを見送った。
「バイバイ…。」
もらった言葉は胸に刻んで、お守りはペンケースに入れといた。
*****
そして迎えた受験当日。先ずは滑り止めの方。
「受験票持った?忘れ物は無い?」
「うん。大丈夫。」
「じゃ、行くわよ。」
「うん。」
以前痴漢に遭ってから、ギュウギュウ詰めの電車が苦手だ。自意識過剰って言われるかもしれないけど、正直怖い。だから、母にお願いして、受験の二日間だけは朝一緒に電車に乗ってもらう事にした。
「…迷惑かけてごめんね。」
「何言ってんの!いっつも家事やってくれてるの、アイでしょ!私の方がよっぽど迷惑かけてるんだから、こんなの迷惑のうちに入らないわよ。たまにでも頼って貰えなくなったら、親失格よ。」
「ありがと。」
目的の駅で母と別れ、改札を出る。前を歩く人も皆、同じ方向に向かってる。皆がライバルだった。緊張でお腹が痛くなってきた。
「大丈夫…。努力は裏切らない…。」
震える指で、首に巻いてる白いストールのフリンジをきゅっと握った。お腹の痛みは増すばかりだ…。
一つ目の試験が終わって一息つく間もなく、翌週の月曜日が本命の試験日だった。
先週は緊張で胃がひっくり返るかと思ったが、今日も同じ位、緊張してる。全然慣れない。だって…、ある意味、これで人生が決まるのだ。緊張しない筈が無い!
そんなこっちの心境にお構いなしに、星占いを見た母が言う。
「あら、今日水瓶座一位ですって!良かったわね、アイ!」
「ほんと?いい事あるといいなぁ…」
そんな会話を交わした母と駅で別れて、学祭の時に来た大学に再び足を踏み入れる。受験番号に従って、割り振られた教室に入った時だった。
『あっ!』
ホワイトボードに諸注意を書いている千歳さんが目に飛び込んで来た。好きな人って、センサーがあるんじゃないかって位、すぐ分かる。勝手に目が吸い寄せられるんだ。声を掛けたかったけど、それで他の人に何か勘繰られたら嫌だから、そっと席についた。まさか今日、会えるなんて思ってなかった。ラッキー!己の弱点をまとめたルーズリーフで顔を隠して、そっと前を見た。
大学で講義してる時の千歳さんって、あんな感じなのかな…。いい…!よし、絶対にこの光景を毎日見られるようにするぞ!と意気込んで、筆記用具や受験票を机の上に出してた時だった。
「あっ!!」
その声で、皆が一斉にこっちを見た。
「あ、す…、すみません…」
謝ってから、慌てて教室を見回す。時計は無い。そう、腕時計を忘れた事に気付いたのだ。いつもはスマホを時計代わりにしてるから、つける習慣が無いのが災いした。そりゃ…、腕時計が無くても受験票と筆記用具があれば、試験は受けられる。でも…、パッと時計を見て、残り時間を確認してペース配分出来るのと出来ないのとでは大きな差がある。
どうしよう…。頭の中がぐるぐるする。今までやって来た事全部が頭から出て行ってしまう位、「どうしよう…」って言葉で脳が埋め尽くされた。目の前が真っ暗になった。
その時だった。「あぁ、君」と声がした。顔を上げる。試験官の腕章をしたスーツの千歳さんが隣に立っていた。
「この教室だったんですね。良かった…。これから探しに行こうと思っていたんです。はい、これ。さっき落とし物の問い合わせがあった腕時計ありましたよ。白い文字盤に青い針、紺の皮ベルト。君ので間違いないかな?」
上着のポケットから腕時計を出しながら、目配せされた。困ってた自分に気付いて、千歳さんが助けに来てくれたんだ!ヒーローに見えた。
「そ、そうです…。ありがとうございます…。」
「どういたしまして。アクシデントに負けず、頑張って下さいね。」
「はい…。」
両手をお皿にした手のひらで腕時計を受け取った。まだ、さっきまで千歳さんの所にあった時のぬくもりが残る。今の自分にとって、最強のお守りだった。先月、一緒にゲーセンで遊んだ時に言われた言葉が甦る。
――アイさんは土壇場に強いですね――
――もう駄目だ、って思っても逆転出来たじゃないですか――
そうだよ!今だって、腕時計が無くて「もう駄目だ」って思ったけど、なんとかなった。さっき焦って頭が真っ白になったおかげで、お腹の痛みも忘れた。今日は制服のポケットに入れてる湯島天神のお守りと、膝に掛けた白のストール、そして机の上にある千歳さんの腕時計は自分にとっての三種の神器だ!これらに守られた自分が、出来ない筈が無い!
そう思えたら、緊張が一気に消えた。鞄から水筒を出して、あったかい紅茶を一口飲んだ。落ち着いた。うん、出来る!やってやれないことなんて、何一つ無いんだ!
水瓶座一位の占いのおかげじゃないだろうけど、試験は良く出来た。というより、過去問を解いた時にヤマをはってた所が的中した。過去最高の出来なんじゃなかろうか?
清々しい気分で、試験会場を後にした。結果はどうあれ、これで自由だ!腕時計はじぃちゃんちで返そうと思って、メッセージを入れようと電源を入れたスマホを見て気付いた。
今日、十三日じゃん!明日は、バレンタインじゃん!受験生になってから、季節のイベントをおそろかにしてたから気付くのが遅れたが、こうしてはいられないっ!
早速、試験帰りの格好のまま、バレンタインフェアを覗きに行った。果物にチョコを絡めた輸入モノ、惑星や口紅を模して作られたもの、品質で勝負!のお高いショコラ、エトセトラ…。どれも素敵で美味しそうだったが、自分の気持ちを伝えるのに、それらの既製品は何かが違う気がした。だから、電車に乗って帰った。ラッシュ時以外は、人と密着しないので安心して乗れる。
最寄りの駅で降りて、スーパーの製菓コーナーへ。チョコと無塩バターと生クリームを買った。卵と小麦粉は家にある。
帰宅してから、部屋着に着替えてエプロンを装着。お気に入りの音楽をスマホで流しながら、板チョコをゆっくり刻んだ。昔、ばぁちゃんが言ってた事を思い出す。
「料理はねぇ…、食べてくれる人の事を思いながら作ると美味しくなるのよ。」
ほんまかいな?と思ってたけど、確かにじぃちゃんはばぁちゃんの料理をいつも「美味い美味い!」と食べていた。「千秋の作る料理は天下一品だ!疲れが吹き飛ぶ!ありがとな!」っていつも言ってた。ばぁちゃんが料理に込めた愛情をじいちゃんはしっかり受け取ってた。人間は食べなきゃ生きていけない。だから、毎日食べる物で、人間は作られる。
そして、ばぁちゃんはこうも言ってた。
「人生はね、胃袋を掴んだもん勝ちよ。」
自分で料理をするようになって、しみじみ思う。ご飯は毎日食べる物だ。好みの味がいいに決まってる。だから…、心を掴む為にも、先ずは胃袋を掴むのだ!そんなことわざがあった気がする。『将を射んと欲すればまず馬を射よ』だっけ?あれ?違う?
湯煎でくるくる溶かすチョコ。泡立て器でシャカシャカかき回す玉子。そこに加えるのは砂糖と自分の恋心だ。ふるった粉と全部綺麗に混ぜ合わせて、予熱しておいたオーブンに入れる。
「上手に焼けますように…」
ぎゅっと目を閉じて、祈っておいた。
その間に生クリームを泡立てる。これは食べる時に添える用だ。無くてもいいけど、あった方が断然美味しい。カップに入れてふたをしてから冷蔵庫に入れた。
約二十分後、いい匂いがした。ガトー・ショコラの焼き上がりだ。オーブンから取り出す。
「よっしゃ~!い~感じ♪」
ガトー・ショコラは作るのが簡単な割に高見えするナイスなお菓子だ。その名称の時点で既に優勝出来そうな位、強そうな名前がいい。少し冷ましてから、粉糖を振りかければ完成だ。
「上手に出来ました~♪」
某ゲームのマスコットキャラみたいな科白が出た。味確認の為の自分用、母、じぃちゃん、千歳さんにあげる分で四等分した。早速、自分用のをフォークで一口。
「……おっけ~♪」
良かった。美味しい!お菓子は分量さえ間違えなければ、完璧に出来る。ウッキウキでスマホを見たら、千歳さんからメッセージが入ってた。
『試験お疲れ様でした。腕時計の返却はいつでもいいですよ』
『良ければ、明日返しに行ってもいい?』
『明日も試験監督なので、私がいない時は先生に渡しておいて下さい』
それを見て、ちょっと考えた。明日腕時計を返す際に一緒に渡すつもりだったが、その場合、千歳さんが職場でチョコをもらってたら、自分のはn番目のチョコになってしまう。それは嫌だ!どうせなら、自分があげるチョコが一番になりたい。なら、多少のフライングはやむをえない。
そんな訳で…。
『無いと困るだろうし、試験も終わって今日これからじぃちゃんちに行くから、今日返すね!』と入れといた。
そして、じぃちゃん用と千歳さん用を同じ箱に入れた。本命のバレンタイン用だけど、あくまでもお礼!って体で渡すんだ。その方が食べてもらえる。折角作ったのに、食べてもらえない方が悲しいからね。
自転車でじぃちゃんちに行った。
「じぃちゃーん!」
「おう、アイ!試験は無事終わったのか?」
「…多分。」
「そうか。お疲れ。結果が出たら、寿司でも食いに行こうな。」
「うん!」
「で、今日はどうした?」
「息抜きにケーキ作ったから持って来た。じぃちゃん食べる?」
「食う食う!アイの作った物はなんでも美味しいからな。そこは千秋譲りだな。」
「まだ、ばぁちゃんの域には達しないよ。」
そう言いながら、緑茶を入れて、お皿に盛りつけた。
「じゃん!アイ特製のガトー・ショコラだよ。」
「おう!喫茶店で出てくるやつだ。この、生クリームが実にいい。」
「でっしょ~!ちょっとの手間でこの美味さってやつ。」
じぃちゃんが美味しそうに食べるのを頬杖をつきながら見てた。
「ねぇ、じぃちゃん…。」
「何だ?」
「…長生きしてね。」
「なんだ、突然?儂はまだ死なんよ。まだまだ読みたい古文書、知りたい歴史があるからな。」
「うん。」
そんな話をしてたら、ガラッと玄関の戸が開く音がした。千歳さんだ!帰って来たんだ!走って出迎えに行った。
「お帰りなさい!今日はほんっとぉ~にありがと!助かりました!」
両手を合わせて拝んでおいた。
「あぁ…。ただいま戻りました。今日は吃驚しましたよ。まさか、アイさんがいるなんて思わなかったので…。」
「こっちもビックリしたよ!でも、ホント、九死に一生を得ました…」
そう言って、ポケットに入れといた腕時計を返した。
「これ、本当にどうもありがとう。あの時、腕時計を忘れて頭真っ白になっちゃって…。千歳さんが貸してくれなかったら、試験は散々だったと思う…。」
「いえ。毎年、なにかしら忘れる人がいますので、ポケットに予備を入れてるんです。過去、シャープペンと消しゴムを貸した人はいますが、時計を貸したのは初めてです。」
「う…」
恥ずかしさで、小さくなった。
「何はともあれ、御疲れ様でした。良い結果が出るといいですね。」
「うん!あ、あのね。解放感からケーキ作ったんだけど、良かったら食べない?」
「では、着替えてからいただきますね。」
「うん!盛り付けとく!」
お皿に綺麗に盛り付けた。生クリームがポイントだ。
「はい、どうぞ!」
いつもの黒いパーカーと黒ズボンになって戻って来た千歳さんに差し出した。
*****
翌日が、滑り止めの合格発表だった。
不合格だった…。なんとなくは分かってたから、「まぁ、そうだよね…」と呟いた。だって、あの日はお腹が痛すぎてそれどころじゃなかった。
「はぁ…。」
とりあえず、担任に電話した。
「そうか…。残念だったな…。でも、本命の発表はまだだからな。そっちはきっと大丈夫だ!信じて待てよ!」と言われた。他人事だと思って気楽なものだ。信じて待て、なんて言われてもなぁ…。
母には「どんまい!」とだけ言われた。
それから三日間はモヤモヤしながら過ごした。
そして今日が、本命の合格発表だ。十時になったら、ネットで結果が分かる。大きく深呼吸して「おりゃっ!」と開くも、皆が同じ事をしているからか、なかなかつながらない…。
「ちょっと~…。頼むよ!!」
受験番号とパスワードを入れる画面が開いた。震える指で入力する。『次へ』を押した。
次の瞬間、画面がパッと切り替わった。『合格』の文字が飛び込んで来る。
受かってる!!!
「や…、やったー!!!」
大きくジャンプした。それから、母に電話した。
「受かった!受かったよー!!」
「おめでとう!今日はお祝いね!」
「うんっ!」
じぃちゃんにも電話した。
「やったな!約束通り、寿司を奢ってやる!勿論、回らないやつだぞ!」
「うんっ!」
千歳さんにも電話したかったけど、仕事中だとまずいと思ってメッセージを入れといた。
それから、学校にも電話した。
「先生っ!第一志望、合格しました!」
「良かったな!」
晴れ晴れとした心境だった。やれば出来る!
その夜、早めに仕事を切り上げて来た母とじぃちゃんと三人でお寿司を食べに行った。
「千歳さんも行こうよ」と誘ったんだけど、「ここは家族水入らずがいいでしょう」とやんわり断られた。
「あのねっ!大学生になって千歳さんの授業受けるの、すっごく楽しみにしてるんだよ!」
「そうですか…」
ちょっとバツが悪そうな顔を千歳さんがした。
もしかして…知り合いに講義受けられるの、嫌だった?
12章 三月・卒業式
卒業式が近付いて、その練習の為の学校、って感じ。友達も皆、なんとか進学先が決まって笑顔が戻ってる。
「これでもう後は大学デビューについて考えるだけだね♪」
香ちゃんが自販機で買ったジュースを飲みながら言う。
「あたし短大だから、合コン行きまくる!」
ミユキちゃんが高らかに宣言した。
「合コン?例の彼氏はどうした?」
「とっくに別れたよ!女子大生になったら、もっといいオトコ探すんだ♪」
「早希は~?」
「お陰様で無事、同じ学部に進学する事になりました♡で、お互いの両親の了解も得て、春から同棲するんだ。」
「えっ!?」
「「マジで!?」」
これには、皆がビックリした。
「す、すすんでる~!!!」
「これがリア充か…。憎い…。」
なんか…、ビックリ。皆、結構先のことまで考えてるんだね…。
卒業式に関するプリントをもらって帰る。今日は珍しく八時に帰って来た母に見せたら、渋い顔をした。
「6日か…。ちょっと難しいわね。クライアントが指定してきた日だし。そこ…、本社が岡山なのよね…」
「無理して来なくていーよ。」
「でも…」と顔をしかめた母が次の瞬間、ぽんと手を打った。
「そうだ!録画してもらえばいいんだ!」
「え?」
「適任がいたじゃない!」
そんな訳で、母に呼び出された千歳さんが我が家にやってきた。
「わざわざ来てもらっちゃって、ごめんなさいね。このビデオカメラなんだけど、使い方分かる?さっき充電はしといたから、ちょっと操作してみてくれる?」
「はい。少々お待ちくださいね…」
二人して、あーだこーだやってた。
「操作自体は簡単ですし、式典をずっと録画しとけばいいなら大丈夫だと思います。」
「なら、お願い!アイが卒業証書を受け取る時は、出来たらズームにしてね。あとこれ、三脚。あった方がいいでしょ。あ~、千歳さんがいてくれて、ホント助かったわ~。ね、アイ?」
「あ、うん…。ありがとう。」
「いぇ。篠宮先生には色々お世話になってますし。これ位、お安い御用ですよ。時に、アイさんは式当日も自転車で行かれるのですか?」
「うん…。満員電車苦手だし…。」
「なら…。宜しければ、車で送迎しますよ。どうせ、目的地は一緒ですし。」
「えっ!?本当?」
「あら、良かったわね。自転車だと、風が強かったら髪の毛ボサボサになっちゃうもんね。」
「うん!」
「じゃあ、六日は宜しくお願いします。手間賃として五千円渡しておくわね。」
「いりませんいりません!」
「でも…。こっちの都合でそちらの貴重な時間を割いていただく訳だし。送り迎えまでしてもらったら、ガソリン代もかかるでしょう?」
「あ…っ!じゃあ、代わりに何かお土産買って来てください。それで十分です。」
「そぉ?岡山だから…キビ団子になるけど、いい?」
「充分です。」
「じゃ、お願いしたわ。」
*****
卒業式当日。母は、朝の五時に岡山に向かって出発した。
「じゃあ、行って来ます。式には出られないけど、卒業おめでとう!」
「ん。行ってらっしゃい。頑張ってね~!」
母を送り出してから、ゆっくり朝風呂に入った。念入りにボディチェック。スキンケアをしながら、髪の毛もしっかりブローする。派手にならないよう、黒のヘアピンをクロスにとめる。
「よっし!」
それから、クローゼットに掛けておいた水野さんの制服を取り出した。いつも着てるセーラータイプとは違うブレザータイプだ。ブラウスを着て、リボンタイをつける。白ソックスはちょっとあれかな…と思ったので、黒いレギンスに黒のショートソックスをはいた。タイツは持ってないからだ。でもぱっと見、タイツに見えない事もないので、大丈夫だろう。
それから、スカートをはいた。自転車通学でいつもスラックスだったので、足元がスカスカする。ジャケットを羽織り、ボタンをしめて、姿見の前に立つ。
イマドキの女子高生が映ってた。
「うん、かわいい!ブレザーもありだね!」
それから軽く朝食を食べて、しっかり歯磨き。軽く色づくリップクリームを塗って、スマホを見る。
『おはようございます。あと十分後に迎えに行きます』って入ってた。
『おはよう!』『了解!』のスタンプを送ってから、通学用の紺のPコートに袖を通し、白いストールをリボンに巻いた。鏡で見る。うん、かわいい!
こんだけかわいかったら、千歳さんもほだされてくれるかな?
だって、今日は卒業式。
もう高校生じゃなくなる。
制服を着るのも、これが最後だ。
先月、十八歳の誕生日を迎えた。
もう、未成年じゃない。
だから…今日、卒業式が終わったら、千歳さんに告白するんだ。
断られたら終わるけど、なんだかいけそうな気がする。
だって、「嫌い」とは言われてない。
今日も迎えに来てくれる。
千歳さんは優しい。
今日の午後はコインを預けてあるゲーセンに遊びに行く約束もしてる。
「好き」って伝えて、一緒にプリクラ撮るんだ。
そしたら、ツーショットが手に入る。
その時、ドサクサ紛れでキスしちゃおうかな?
そしたら、もっと好きになってもらえる?
でも、水野さんみたいに既成事実に持ち込む勇気はないよ…。
だって…。
そんな事を考えながら、五階分の階段を歩いて下りた。
マンションのエントランスを出たら、丁度千歳さんの車が交差点を曲がって来る所だった。
「おはよー!」
駆け寄って挨拶する。
「おはようございます。」
ドアを開けて助手席に乗り込む時、千歳さんが「あれっ?」と言った。
「今日はズボンじゃないんですね。」
「うん。これ、実は水野さんのなの。制服だけでも卒業式に出たい、って言ってたから。」
「成程…。彼女はその後どうなんでしょう?」
「分かんない。受験が終わった頃にまた連絡するって言ってたから、今日あたり電話来そうだけど、どうかな?」
道中でそんな話をする。
「えーと…。どうします?校門までお送りしますか?」
「千歳さんはどーするの?」
「近くの駐車場に入れて、そこから歩く予定です。」
「なら、一緒に行こ。」
「分かりました。」
正門まで送ってもらうのは却下だ。だって、もしそんなところを香ちゃんとかに見られたら、軽自動車に乗ってる千歳さんのことをボロクソ言うに違いない。
それに…、好きな人とはちょっとでも長く一緒にいたいじゃないか。好きな人と並んで学校まで歩くのは悪くない…。同級生気分を味わうんだ♪
黄色い看板のパーキングに停める。千歳さんは運転席から降りて、後部座席に置いてあった黒のロングコートを着てから、ビデオカメラ一式を持った。自分も降りた。
日が出て、あったかく感じたからコートを脱いだ。
「邪魔になるから、おいてってもいい?」
「いいですよ。」
千歳さんのコートと入れ違いに置いた。
「…なんだか…、感慨深いですね。」
千歳さんがしみじみ言った。
「何が?」
「その制服姿は初めて見ました。」
「ブレザータイプは初めて着たからね!折角だから、写真撮ってよ!」
「え…?あ…、ハイ!じゃ、スマホで撮って、早速お母様に送ってあげましょう。あとで、アイさんにも送りますね。」
「うんっ♪はい、ピース!」
にっこり笑って、ポーズを取った。この制服姿を見せるのは、一番は千歳さんがいいと思ってたんだよね。
「どぉ?かわいく撮れた?見せて。」
駆け寄って、千歳さんのスマホを覗き込もうとした時、指先が当たってインカメラに切り替わった。
「あ…」
「えい!」
そのまま画面をタッチした。慌て顔の千歳さんといたずらっこみたいに笑う自分のツーショットが撮れた。
「あ…」
「いーじゃん!これも後でスマホに送ってね♪」
「全く…。アイさんは、いつだって元気ですね。」
千歳さんが笑った。
「そーだよ!だって、今日は卒業式だし、晴れてるし!大学だって合格したもん!」
「ははっ。確かに晴れてると気分が良くなりますもんね。」
「でしょっ!それに『笑う門には福来る』って言うでしょ!」
「そうですね。」
そんな話をしながら、学校に向かう。時間はまだ早いが、早々に正門前に出された卒業式の看板の前で写真を撮ってる人達がいた。
「アイさんも撮りましょう!」
何やら使命感に火が付いた千歳さんが言う。ポーズを変えて何枚か撮ってもらった。それから、校内に入る。式は体育館で行われるが、生徒は先ずは教室に行く事になっている。でも、まだ時間はある。折角だから、と葉牡丹の花壇の前とかでも写真を撮ってもらった。
「…なかなかいい写真が撮れた気がします。」
「どれどれ…」
「ちょっと…近すぎですよ…。」
「えーっ!いいじゃん…。」
そんな事を話してたら、「アイちゃん?」と声がした。早希ちゃんだった。
「おはよう…。後姿はアイちゃんだけど、制服が違うからビックリしたわ…。どうしたの、それ?」
「これ~?実は~、水野さんからもらったんだよね~♪」
「そうなんだ…。水野さん、ご家庭の事情で急に引っ越しちゃってビックリしたね。あと少しなんだから、親御さんも卒業まで待ってくれたら良かったのにね…」
「ホントにねー。」
皆は知らない。水野さんが妊娠して学校を辞めた事を。だから、自分も言わない。話を合わせる。
「でも…、しっかり者の水野さんなら、どこに行っても大丈夫だろうから、あんまり心配はしてないの。」
「だよねっ!」
そう。水野さんなら、きっと大丈夫。
居心地の悪さを感じたのか、「では、後ほど…」と千歳さんが去ろうとした。
「あ、待って!」
慌てて呼び止める。
「帰り、HR終わったらすぐ出てくるから、正門出た所で待っててね!」
「はい。」
「約束だよ!」
「はい。」
にこりと笑ってから、一礼して体育館に歩いていった。
「ねぇ、アイちゃん。今の人って、もしかして…?」
「なーいしょ!」
そう言って、昇降口に向かって走った。
教室に行ったら、注目の的だった。
「アイちゃん、ブレザーも持ってたの?」
「かわいー!!」
「ねぇねぇ、一緒に写真撮ろっ!」
皆で記念撮影してたら、「こらー!席につけ~!」と担任が入って来た。
こっちを見て「うをっ!ビックリした!お前なぁ…」って言われた。
「何です?校則違反はしていませんが?」
「あ~、ハイハイ…。全員いるな~。いいか~、今日の式だが、練習した通り、五十音順に廊下で並んでから体育館に入場だからな。無駄話はするなよ。最後なんだから、ビシッと決めろ。あと今日で最後だから、まだ持ち帰ってない荷物がある奴は全部持って帰れよ。俺からは以上だ。」
そう言って、くるりと黒板に向くと、赤いチョークででっかく『祝・卒業!』と書いた。
「よ~し!行くぞ、お前ら!有終の美を飾れよ!」
その声で、全員席を立って、廊下へぞろぞろと出だす。あ行・か行の名字の人は一階、さ行・た行の名字は二階、な行・は行の人は三階、残りは四階であいうえお順に整列してから体育館に入場する事になっている。
「アイちゃん、行きましょ。」
早希ちゃんが声を掛けてくる。早希ちゃんの次が自分なんだ。
ぞろぞろと整列してから、階段を下りて体育館に入場する。保護者席に座ってる千歳さんはすぐに分かった。座っていても、頭一つ分大きいからだ。
校長の挨拶から始まって、式は滞りなく進む。
「卒業証書授与!」
学年主任の声が体育館に響く。校長が最初の一人分だけをしっかりと読み上げる。後は名前を呼ばれた生徒が証書を受け取り、式は粛々と進んでく。だんだん自分の番が近付いてくる。前の列が終わったので、自分たちの列も立ち上がり、壇上へと昇る行列に加わった。
立ち上がった事で、こっちを見た一部がざわついた。ま、昨日までと違う制服を着てたら「え?」と思うだろうし、気にしない。背筋を伸ばして、ゆっくり進んだ。
「手塚早希!」
「はい!」
早希ちゃんが壇上に上がり、両手で卒業証書を受け取り、一礼してから壇上を下りた。
「土器手藍!」
「はい!」
しっかり返事をしてから、受け取った。一礼して降りる時、千歳さんに向かって微笑んでおいた。ねぇ、ちゃんと見てる?
式は無事終わった。入場時と同様、あいうえお順に教室に帰る。早希ちゃん達と卒業証書を持った写真を撮った。もう後は思い残す事も無かったから、HR後、さっさと鞄を持って立ち上がった。
「じゃあね~!」
「えっ!?アイちゃん、もう帰っちゃうの?」
「うん!急いでるから!」
今日は一番に正門を出るって決めてるんだ!
教室を出たら「アイちゃん先輩!」と化学部の後輩達が待っていた。
「卒業おめでとうございます!これ、僕達から…」
そう言って、小さな花束をくれた。ピンク色のスイトピーとカスミソウだ。
「ありがと!じゃあね~!」
校内で別れを惜しむ人達の間をすり抜け、階段を駆け下りて昇降口に行った。保護者の姿もまばらに見える。その先の正門の外に、黒い電柱みたいに立つ千歳さんが見えた。上履きを脱いで鞄にしまう。ローファーをはいた時に誰かが呼んだ気がしたけど、気にせず千歳さんに向かって走った。
あと1メートル!
あの門を抜けたら、もうコーコー生じゃなくなるんだ!
晴れ渡る三月の空の下、飛び跳ねるような気持ちでいた時だった。
「待て、って言ってんだろ!このオカマ!」
背後から大声で切り付けられた。
周りの視線が一気に集中する。
あぁ、もう…!
……最悪だ。
今の声はきっと千歳さんの耳にも入った…。
足を止めて振り向くと、息を切らした五代が立ってた。
「お、お前にこれ…」
花束と一緒に、何かの包みを手渡そうとしてくる。
「なんでだよ…」
声が震えた。
「え?」
「…嘘つきっ!卒業するまで黙ってる約束だったでしょ!」
「あ…。す、すまん…。呼んでもお前、気付いてなかったから…。つい…」
「つい、じゃないよ…。」
フツフツと込み上げてくる怒りを必死に抑える。
「それに…!オカマじゃない!」
「だ!…だって、お前…、今日、スカート履いてるじゃないか!お、オトコなのに…変だろ?」
本当は、ぶん殴ってやろうと思ったけど、ここで問題を起こすのもあれだ、と必死に堪える。そうして、精一杯のプライドで言ってやった。
「ま~だ、そんな事言ってるんだ?おっくれてるぅ~。こっちは似合う服を着てるだけで、校則違反も何も悪い事してないんだよ!いい加減、考えをアップデートしたら?じゃあね!」
それだけ言い捨てて、正門を一気に駆け抜けた。
「アイさんっ!」
すれ違いざま、千歳さんの声が聞こえたけど、もう千歳さんの方を見られなかった。
だって…。
バレちゃった…。
最悪だ…。
キモイと思われて避けられたりしたら、死ねるっ!
全力疾走した。
勝手に涙が出てきた。
前が滲む。
「うう~…」
少し、走るペースが落ちた。
「ーーアイッ!」
その声と共にバサッと何かが降って来た。
目の前が真っ黒になる。
「……っ!?」
ビックリして、足が止まる。
「…捕まえたっ!」
後ろから、荒い息遣いで抱き着かれた。
「ハァーハァー…。待って…下さいよ…。置いて…行か…ないで…。ハァー…ハァー…。ア…アイさん…、は、速…すぎます…。ハァ―…ハァー…」
千歳さんだった。死にそうにゼェハァしてた。いきなり降って来た何かは千歳さんのロングコートだった。
「なんで…」
ちょっと涙声になった。なんで追ってきたのさ?さっきの聞こえてたでしょ?
ゲホゲホ咳き込んでから、千歳さんは言った。
「さ…、帰りましょう。」
まだ息が乱れてた。自分が逃げない事を確認してからゆっくり腕を解いて、ロングコートを頭からすっぽりかけて直してきた。前が完全に見えなくなった。千歳さんは大きいから、膝までコートで隠れた。千歳さんが右手をそっと掴んだ。
「はい。これで周りの目は気にならないでしょう?他の皆さんが出てくる前に、さっさとここを離れましょう。」
「うん…。」
自分の足元とアスファルトだけが小さく滲んだ視界に入る。手を引かれながら思った。
「ねぇ…。これってさ、警察に連行される犯人と一緒じゃない?」
「…そうかもしれませんね…。」
千歳さんの軽自動車まで戻って来た。
コートをかぶったまま、助手席に座る。泣き顔は見られたくなかった。涙で視界が滲むから、コンタクトを外した。
それから、ポケットに入れてたハンカチで涙を拭いた。
シートベルトをしたのを確認してから、千歳さんがエンジンをかける。
「さぁ、帰りましょう。」
「…帰りたくない…」
だって、もうバレちゃった。千歳さんは嘘は嫌いだと言っていた。だから…、きっと嫌われた…。もうゲーセンも無しだ。このまま家に送り届けてもらったら、もう一緒に出掛けたりしてくれなくなるに違いない。
「もうヤダ…。どっか行きたい…。消えちゃいたい…」
「…分かりました。」
そう言うと、千歳さんはパーキングを出て無言で車を走らせた。
自分は千歳さんのコートを頭から被ったまま、俯いていた。
『家までなのに随分遠いな…』と思った時に、「ETCカードが挿入されました」と声がした。ビックリしてコートから顔を出して、窓の外を見た。高速道路に入る所だった。
「えっ!?何?どういう事?」
「だってアイさん、帰りたくないんでしょう?「どっか行きたい」って、さっき言ったじゃないですか。だから、「どっか」に向かう為、高速に乗りました。そうすれば、いちいち信号にひっかからず、ノンストレスですからね。」
まっすぐ前を向いたまま、千歳さんは言う。それから、ラジオをつけた。男の人の声でいきなり「ウソ」って聞こえてビクッとしたけど、歌詞の一部だった。
「わ!…懐かしいな、これ…。親父が好きだったドラマのエンディング曲です。良くビデオで見てました。ちょっと…聴いてもいいですか?」
「うん…。」
今時の曲とは違い、ちゃんと歌詞を聞かせる歌だった。二人の思い出のホテル名を寂しく歌った曲だった。
「懐かしいな…。このドラマ、また見たいけど再放送やらないんですよね…。面白かった記憶があるのに、なんでだろう…。」
その曲が終わると、次はピアノのイントロが流れた。どうやら、さっきの曲と同じ歌手が歌っている違う曲が始まった。サビを聞いた千歳さんが言った。
「この曲のように、我々も「北に行」きましょうか。」
「なんで北?」
「敗北、という言葉があるように、敗者は北へ向かうんですよ。兄に追われた源義経が向かったのは奥州で、新政府軍と戦った旧幕府軍は最後は函館まで追いつめられたでしょう?」
「あぁ…。」
「南は住みやすく、北は住みづらい。」
「なるほど…。」
二曲目が終わり、パーソナリティが騒がしく喋り出すと千歳さんはラジオを消した。
静まり返る車内…。
無音に耐えられなくなって、言った。
「…出来損ないで、ごめんね…。」
「何がです?謝るなら、私です。今日のビデオ、途中で私が「あれ?」って言ってるのが入ってると思うので…、すみません…。」
「そんな細かい事、母は気にしないから大丈夫だと思うよ。」
「なら、いいのですが…。私、すっかり思い込んでいました。篠宮先生のお孫さんだから、貴方も「篠宮アイ」さんに違いない、と。だから、ずっと「アイさん」と呼んでいました。今日、佐藤さんの次が清水さんだった時、吃驚して声が出てしまいました。慌てて、アイさんの姿を探しましたよ。土器手で良かった。加藤だったら、ズームに出来なくて終わってました。」
続けて言った。
「それと、おんなじことですよ。」
「……。」
「だって、アイさんは可愛い方ですから。勝手に優良誤認したこちらが悪い。良く考えれば、分かった事です。貴方は出会った日からちゃんとズボンをはいていた。嘘は一つもついてない。あと…。今日のその姿も、とても似合っておりますよ。」
「…ホントに?キモくない?」
「はい…。私は嘘は嫌いです。」
「そっか…。ありがと…。千歳さんは優しいね。」
「ハハッ。好きになっちゃいますか?」
「…うん。」
素直に頷いた。千歳さんは諭すように言った。
「ありがとうございます。でもね…、アイさん。これも恋じゃないんです。いいですか?私がこれからいう事を良く聞いて、覚えておいて下さいね。大人はズルい生き物なんです。こういうの、グルーミングっていうんですよ。」
「グルーミング?それって、犬とかを毛づくろいする事じゃなかったっけ?」
「そう。同じ言葉でも、意味が違います。心理学用語でね。相手の孤独や承認欲求をうま~く利用して、子供を懐柔する行為です。大抵の目的は、水野さんのケースのように性行為ですね。子供が純粋に慕う心につけこむ卑劣な行為です。ほんと…、あの内山とか言う男は最低です!」
千歳さんが語気を強めた。
「……千歳さんも…?」
そう言う目で自分を見てたのだろうか?
「あぁ、誤解しないで下さい。貴方は篠宮先生の大事なお孫さんだ。そんな目には合わせませんよ。」
「…そう…。」
ほっとしたような、残念なような複雑な気持ちになった。
「ですから、覚えておいて下さいね。悪い奴こそ、天使の顔をして近付いてくるんです。最近はね、絵に描いたように悪い奴なんてそういません。皆、優しい顔で近付いてくる。だから、一人暮らしのお年寄りを心配する遠方のお子さんは「最近、親切な人いない?」って声掛けした方がいいらしいですよ。あまりに親切な人が宗教勧誘の人だったりして、怪しげなモノを売りつけたりしてきますからね。」
「…怖い世の中だ。」
「そうですよ。今、成人の規定が18歳に下がったでしょう?これから、何かを契約したりする時は十分気を付けて下さいね。」
「うん…。分かった。」
「本当に?」
「…うん。」
「気を付けて下さいよ。アイさん、可愛いんですから。きっと他の人より、危ない目に遭いやすいと思います。それに…、貴方はお母様と二人暮らしのせいか、ややファザコン気味な所もありますしね…」
「ファザコン!?」
「そうでしょう?今もこんなおっさんとドライブしてるんですから…。全く、危なっかしい人だ…。貴方、私じゃなかったら、今頃きっと酷い目に遭ってますよ。」
「な…っ!」
プルプルした。これでも人を見る目位はあるつもりだ。
「そ、そんな事ないもん!そんな事言うなら千歳さんこそっ!セー行為が目的じゃないなら、こっちに構って一体何の得があるっていうのさ!?」
「貴方は…恩人である篠宮先生のお孫さんですから。」
「…そんだけ?」
千歳さんはちょっと考えてから言った。
「そうですね…。あとは、貴方が「アイ」さんだから。」
「何それ…?」
「私の勝手な贖罪に利用させていただきました。」
「贖罪?」
「えぇ。貴方がご自分を「出来損ない」というのなら、私は「死に損ない」ですから。」
13章 千歳さんの話
信号に引っかかる事のない高速道路でのドライブで、千歳さんが話し始めた。
「一年前のちょうど今日。こんなふうに光のどけき春の日に、私、死のうとしたんです。」
「えっ!?」
初耳だ。
「生きていても、何もいい事無いし。疲れてたんですよ…。自分はこんなに辛いのに、空は晴れてて皆は楽しそうで…。なんだか、急に全てが嫌になってしまって…。フラフラと…そう、吸い込まれるようにホームの端に向かったんです。次の電車に飛び込もう。そう思ってました。その時、すごい力でショルダーバッグを掴んだ人がいたんです。篠宮先生でした。」
*****
「おう!千歳君じゃないか!久しぶりだな!」
グイっと力強くバッグを引っ張ったのは、昔はゼミで、去年退任されるまでは研究室でお世話になっていた篠宮先生だった。
「あ…。先生、お久しぶりです。」
「おう!ここで会ったもなにかの縁だ!ちょっとこれから、儂に付き合わんか?」
「え…。いや、ちょっと…。」
適当にはぐらかしてその場を離れようとしたのに、篠宮先生はバッグから手を離さなかった。老人とは思えない力強さだった。
「まぁ、いいから付き合え。美味い飯を食わせてやる。儂は今日は鰻が食べたい気分なんだ。」
逆らえないまま、ホームに入って来た電車に乗って、四つ目の駅で降りた。
「あぁ、ここだ。」
暖簾をくぐり、「すまん!個室を頼む!」と声を掛ける。
「おや、先生。いらっしゃい。」
「松二つ!鰻肝と肝吸いもつけてな!」
「へい、毎度!」
奥の個室に通された。茶が出される。
「まぁ、飲め。」
そして、二人きりになった時、先生が言った。
「何があったか知らんが…、死んじゃあ、おしめぇよ。千歳君、辛い時にはまず飯を食え。腹が減っては戦は出来んというように、脳に栄養が回ってなきゃあ、ロクな考えは浮かばねぇ…。」
先生は…お見通しだったんだ…。死のうとしていた自分を恥じた。
結構時間が経ってから、鰻重が来た。
「まぁ、食え。ここは注文を受けてからさばいて焼くから、時間はかかるが美味いぞ。」
「はい…。いただきます…。」
ここ三日ほど、カップラーメンや菓子パン位しか食べてなかった空腹の腹に鰻は響いた。
「先生…。美味しいです…。」
「そうだろう?お前は今、「命」を食べてるんだ。他者の命を食べてるんだから、自分の命を粗末になんかするんじゃない。奇兵隊を率いた高杉晋作は討幕直前、結核で死んだ。面白い世を作りたかった男が、そんな所で死にたかったと思うか?衣川での義経は、自害したかったと思うか?歴史上のどいつもこいつも、もっと生きたかっただろうよ。でも、時代が許さなかった。だが、今は違う。大抵の病気は治るし、命をもって償うような事も無い。それなのに…、なんでお前は命を粗末にするんだ?」
「だって…、先生…。」
住んでるアパートの更新が来た時、大したアパートじゃないのに更新料の高さに驚いた。それに比べて、非常勤の自分の給料はどうだ?そう思ったら、不安になった。所詮、非常勤だ。次の更新があるかも分からない。帰る実家もない。大学の友人は大半が所帯を持って、「子供がいるから…」と以前のように飲みに出掛ける事も無くなった。自分には彼女もいない。不安定な仕事を終えて帰る一人ぼっちの殺風景な部屋。昔ほど、ゲームも楽しめない。だから、ゲーム機とソフトを売った。微々たる金になった。日々の生活で消えた。虚しい…。何の為に生きているのか?給与明細を見ては、税金の高さと振り込まれる金額に絶望する。それに比べて、政府が発表した使途不明金の大きさは何だ?この国は、一体どこに向かってる?老後に二千万が必要だと言われても、このままでは到底貯められそうにない…。
そんな不安の種が、春の光に触発されて一気に芽吹いたんだ。
『もう…死ねばいいや…。』
衝動的にホームの端に向かった瞬間だった。死はいつだって、ふいに人を誘う。
話を聞いた先生は言った。
「なら、千歳君。儂の家に住まんか?」
「え?」
「なに、家賃はいらん。家内が死んで広さを持て余していてな。儂も長生きはするつもりだが、なんせ片付けがおいつかん。儂の終活の手伝い、という名目で住めばいい。二年前に娘一家がこっちに越して来たんだが、娘は一緒に住む気はないようでな…。儂も一人じゃつまらんし、話し相手がいてくれた方が助かる。」
「はぁ…。」
「もしも儂が死ぬことがあったら、家は無理だが、貯めた本や史料は全部、お前さんにくれてやろう。どうだ?悪い話じゃない筈だ。」
「……。」
確かに、家賃が浮くだけでもかなり助かる。
「分かりました。先生、宜しくお願い致します。」
「あぁ。お前、千歳って名前なんだから、長生きしろよ。儂の家内はな、千秋といったが、千回の秋を迎える前に、儂を残して死んじまった…。淋しいよ…。だからな、善は急げだ!早速、引っ越しの手配をしよう!この時期は引っ越し業者がつかまらないからな…。儂の知り合いに軽トラを借りればいいだろう!まかしとけ!」
そう言って、電話をかけて知り合いを呼んだ。あれよあれよと言う前に引っ越し話は進んだ。契約を更新する前に退去する事が出来た。
同居にあたっての簡単なルールを決めた後、先生は言った。
「そうだ。たまに孫が遊びに来るからな。可愛がってやってくれ。」
「はぁ…。」
そんな風に言うから、小さいお子さんなのかと思った。先生は続けて言った。
「言っておくが、うちの孫は可愛いぞ!千秋に似て、料理も美味い!生命力に溢れてる奴でな。アイツの飯を食うと「生きてて良かった!」って思えるぞ!」
「はぁ…」
日本史の大家と言われる篠宮先生は孫バカだったのか…。知らなかった一面を知ってしまった。
その後、庭で気になる茶色い出っ張りを見付けて、好奇心からシャベルで掘った。こんな純粋な気持ちで土を掘るのは、小学校の時以来だ。先生のおかげで家賃が浮いて、金銭的余裕が生まれた事で、精神的にも余裕が生まれたんだ。最近は、食事もちゃんととるようにしている。栄養が体中に行き渡るからか、短絡的ではなく、長期的な考えが出来るようになった。
その時、声が聞こえた。
「あ!あの…!人んちの庭で何をしてるんですか?」
視線の先に、自転車のハンドルを握って立つ可愛い子がいた。
*****
「それが、アイさんでした。」
「あ、うん…。あの時は、知らない人がじぃちゃんちの庭掘ってて、ビックリしたよ。」
千歳さんがじぃちゃんを「恩師」と言わずに「恩人」という理由を知った。
「ところで…、アイさん。お腹がすきません?サービスエリアで何か食べませんか?」
五代に言われたショックも薄らいできてたし、小腹が空いていたので頷いた。
「では、次の所に入りましょう。」
サービスエリアで車を停めた千歳さんが、初めてこっちを向いた。盛大に驚く。
「アイさんっ!?大変です!目が…!」
「あぁ、大丈夫。こっちが本当なの。」
14章 アイの話
千歳さんを驚かせてしまった。車に乗り込んだ時に、涙で曇ってたし、もう色々気にしなくていいや、とコンタクトを取った。
「変…、かな?」
「いえ…。とても綺麗な色をしてるんですね。」
「うん。父譲り。ホントは髪の毛ももっと茶色いんだ。」
「黒ですが?」
「染めてるの。周りと違うと色々言われるから…。ま、そんな話は後にして、ご飯食べよ♪」
わざと明るく言った。
「そうですね。」
「何がいいかな?」
「カレーでも食べますか?」
「いいねぇ、カレー!どこで食べてもハズレがない!」
そんな訳で、食券を買って二人でカレーを食べた。トイレを済ませ、車に乗り込む。
「あ、ちょっと待ってて下さい!飲み物買ってきます!」
千歳さんが席を外した間にスマホを見た。メッセージアプリになんだか沢山のメッセージが入っていたけど、読む気になれず、そのまま電源を落とした。千歳さんが飲み物を買って戻って来た。
「はい、これ、アイさんの分。」
そう言って、ペットボトルのミルクティーをくれた。
「ありがと。」
「すぐ出ますか?」
「もうちょっと休んでからでいいよ。ずっと運転してたら、疲れちゃうでしょ?」
「お心遣い、痛み入ります。では、お言葉に甘えて、ちょっと目を休めてもいいですか?」
「うん、どーぞ。」
「では。」
そう言うと、千歳さんはシートを倒して横になった。目薬を点して、目を瞑る。
そんな千歳さんに「あのね…」と話しかける。良く、「人と話す時は目を見て話せ」と言われるが、それはちょっと苦手だ。視線は痛い。だから、距離は近いけど、視線が交わらないこの空間が心地良い。そんな気持ちを察したのか、千歳さんは目を瞑ったまま、「はい」と返事をした。
「昔…、岡山に住んでた時、いじめられた事があるんだ…。自分で言うのもなんだけど、昔からかわいかったし、似合ってたから、女の子みたいな恰好をしてたの。『アイム愛ドル』大好きだったしね。ある時さ、学校のイベントに有名な野球選手が来たんだー。ピッチングのコツとか教えてくれてさ、筋が良かったんだろうね、教えてもらってすぐにいい感じの球が投げられたんだ~。皆が「すごい!」って褒めてくれて、気分が良かったの。だから、その気になってリトルリーグに入ったんだ。自慢じゃないけど、上手かったんだよ。すぐレギュラーになれた。でもさ…、いざ試合に出たら言われたんだ。「女のくせにでしゃばってんじゃねーよ!」って。「女じゃないよ」って言ったら、「女みてーな顔しやがって!オカマかよ!」って…。そいつは小一からやってても補欠だったから、入ってすぐにレギュラーになった自分を良く思ってなかったんだろうね。そっから「オカマ」の大合唱…。嫌になって辞めたよね。次の日、学校に行ったら、他の男子からも「オカマ」って呼ばれるようになってた。ただ、かわいい格好をしてただけなのにさ…。その時は地毛だったから、ブロンドで目は青いでしょ。目立ったんだよね…。水色のランドセルにつけてたクマのストラップも「男のくせに、こんなのつけてんじゃーねーよ!」ってぶっちぎられてゴミ箱に捨てられてさ…。泣いちゃったんだよね…。だってそのクマはさ、ずっと一緒に寝てるおっきなクマのぬいぐるみの“くまた”と同じシリーズのコだったから、“くまた”が傷つけられた気がしたんだよ。“くまた”は父が買ってくれた大事なぬいぐるみで、そのストラップは“くまた”の分身だと思ってたから…。先生が来てくれて、腕がもげたストラップを縫い直してくれた。そんで「お友達を嫌な気持ちにさせたり、悲しくさせる言葉じゃなく、相手の心をふわっとあったかくしてあげる言葉を使うようにしましょうね」って言ってくれたんだけど、他の子からしたら、それすらも贔屓、って片付けられてさ…。やんなっちゃった…。」
「…それで…、どうしたんですか?」
「恥ずかしい話だけど、母に泣きついた。母がブチ切れて、違う学区に引っ越した。ちなみに、そん時、「オカマ」って言い出したのが、さっきの五代。アイツ…、全然変わってない…。マジムカツク。で、次の小学校でも、髪と目の色が違うから、変に目立って色々言われて…。女子はいーんだよ。基本、女子ってかわいいモノ好きじゃん?だから、話も合うし、仲良くしてもらえるんだけど、男子はダメ!アイツら、マジ最低。男なら、色は青と黒!裁縫箱もドラゴン一択の馬鹿ばっか!お気に入りの水色のギンガムチェックの裁縫箱を踏んで壊されたの、忘れてないんだから…!だからさ…。中学に上がる時も、母に頼んで違う学区に引っ越したんだ…。母には…迷惑かけてるって思うよ…。申し訳ない…。」
「そんなことないですよ」って声がした。寝たままの千歳さんが目を開けて、こっちを見てた。その目は慈愛に満ちていた。
「親からしたらね、自分の子供が元気でいてくれるのが一番ですから。お母様は、アイさんの為なら、引っ越しなんか苦じゃなかったと思いますよ。貴方が、笑って過ごせる方がずっといいですからね。」
「…そ~かもね…。」
昔の母を思い出す。引っ越す度に家のグレードはアップした。
「見て、アイ!浴室乾燥付きよ!これで、雨が降っても大丈夫ね!」
「じゃ~ん!今までは一緒だったけど、アイの部屋を用意したよ!」
SEをやってる母はいつも忙しいけど、パワフルだった。自分が学校でいじめにあった事を伝えると、学校に乗り込んで行った。話し合いで埒が明かない、と判断すると学校ごと斬り捨てた。
「小学校はあそこだけじゃないから、いーのよ!固定観念で凝り固まってる奴等と、保身しか考えられない先生しかいないなら、こっちからお断りよ!次に行きましょ。バカにかかわる時間が勿体ない!可愛いアイが、笑って過ごせるのが一番よ!」
そう言うと自分をぎゅっと抱きしめた。「うちのアイが世界一可愛いっ!」って言う母は、強かった。おそらくあの人は戦闘民族だ。でも、そんな母を見て学んだ事がある。
人は、ナメられたら負けだって事。最初の小学校で「オカマ」と言われて泣いた。その時、『あ、コイツには勝てる』って、向こうに思われた。自分より強い奴には媚び諂うけど、自分より弱い奴はボコる。人間はそんな生き物だ。だから、通り魔の被害にあうのはいつも女性や子供といった弱者。「誰でも良かった」と言いながら、筋肉隆々の大男に切りかかったというニュースはついぞ聞いた事が無いのはそのせいだ。
あと、学んだのは下手に相手にしない事。揶揄われていちいち反応するから、向こうも調子に乗る。以前、母の誕生日に行ったちょっとお高めのレストランで、たまたま母の職場の同僚(母に言わせると「使えない奴」)に遭遇した。左利きなので右にセットされていたスプーンなどを左に直していた母に、そいつは言った。
「おやおや…。ぎっちょは大変だねぇ~。」
それを聞いた母は笑って言った。
「あら!加藤さんはまだ右利きのままですの?おっくれてる~!知ってます?左利きの方が右脳が発達してるんですってよ。」
それを聞いて、周りの人が笑った。ばつが悪くなったのか、加藤さんはそそくさと消えた。
その時の母を覚えていたから、自分も今日、五代に言ってやったんだ。
「中学はさ、入る前に地毛証明書、とかいうのを出させられた。髪の毛は黒くないと、学生ぽくないんだってー。変だよね?目の色が違うのは仕方ないけど、髪は染められるでしょ、って言われた。生まれた時からブロンドなのにひどくない?でも、面倒になったから、染める事にしたよ。髪の毛黒くしたら、変なのに絡まれる事も少なくなった。この国はさ、ちょっとでも周りと違うとすぐに叩きにくるんだ、って学んだよね。そんで、電車に乗って出掛けたある日、痴漢にあったんだ。最初はさ…、気のせいかと思ったの。混んでたし。お尻に手が当たる事もあるよね、って…。でもさ…、その手が股の間に差し込まれた時、鳥肌が立って叫んだよね。周りの人が取り押さえてくれて、駅員さんが来てくれて…。警察も来たのかな?駅の一室で色々話を聞かれて、こっちが男の子だって分かった瞬間、痴漢した男が言ったんだ。「紛らわしいカッコしてんじゃねーよ!」って…。その日はGパンに、お気に入りの白いティアードのカットソーを着てただけだよ。話を聞いてた駅員さんも「そんな格好してるから…」って…。まっ、まるで…、こっちが悪い事したみたいに言われてさ…!そ、そっから、混んでる電車が苦手になったの。あの時乗ってた黄色い電車を見ると動悸がして…。だ、だから…、夏に痴漢にあった時もケーサツなんか行きたくなかった。だって…、また…「そんな格好してるから」って言われて、こっちのせいにされる…。なんで…!?なんで責められなきゃいけないの?自分に似合うかわいい服を着てただけなのに、こっちが悪いの?なんで…こっちのせいにされなきゃいけないのっ!?」
一度、口をついたら止まらなくなって、泣きながら愚痴ってた。
「そんなに可愛い容姿だと…大変なんですねぇ…。大丈夫。アイさんは何にも悪くないですよ。」
「ほんと…?」
「はい。お辛かったでしょうね…。」
そう言うと、身体を起こして、鞄から取り出したハンドタオルを渡してくれた。
「はい。これで涙を拭いて下さい。」
「…うん…。」
千歳さんには申し訳ないけど、涙と一緒に鼻水も出たから一緒に拭いた。後で洗って返すから許して…。グスグス泣いてたら、そぉっと頭を撫でてくれた。
「だいじょうぶ、大丈夫ですよ…。」
声も撫で方も優しかった。これもグルーミングなのだろうか?
「うん…。だからね…」と鼻をすすってから、話を続けた。
「高校は良く考えて選ぼうと思ったの。黄色い電車に乗らなくていい所を選ぼうとした時に、ばぁちゃんが亡くなって…。それまでは毎年、ばぁちゃんが迎えに来てくれて、夏休み中はずっとじぃちゃんちで過ごしてたんだ…。今、千歳さんが使ってる部屋で寝てたんだよ。じぃちゃんはばぁちゃんラブだったから、超がっくりしてさ…。それで、じぃちゃんちから通おうと思ったの。こっちなら、あの黄色い電車は無いし!そんで色々調べてたら、うちのコーコーを見付けたんだよね。文武両道、多様性重視を謳ってて、制服も選べるし、名簿も男女混合。母に「この制服かわいいよね。セーラーの上着にスラックスも合わせられるんだって」って見せたら、「ウィーン少年合唱団みたいで素敵!」って乗り気でさ…。学校見学と入試相談に行った時に、色々聞いたよ。もう引っ越したくなかったからね。先生方も最大限配慮してくれるって言ったから、単願受験した。丁度その時、母にヘッドハンティングの話がきて、本社がこっちだったから高校入学に合わせて引っ越したの。入学式でセーラーの上着にスラックスだったのは自分一人だったけど、他にブレザーにスラックスの女子もいたから気にしなかった。女子スラックス組の皆で「エスカレーターでスカート気にする必要もないし、冬はあったかいしでサイコー!」って盛り上がった。あと何気に「ムダ毛処理しなくていいから楽♪」って意見が多かった。女の子は大変だよね…。そんな訳でさ、自分はちょっと変わった女子高生って周りから認識されたの。深く付き合うとボロがでるから、誰とでも気さくに絡んで、広く浅くの人付き合いを心掛けたよ。ヤな事があってもなるべく笑ってるようにした。知ってる?笑顔は強いんだよ。悪口言われて泣いたらもっと酷い事言われるけど、「ふ~ん。それが何?」って笑って切り返せば、それ以上は絡まれない。これ、自分なりの処世術なんだ。いじめる奴って、ターゲットを選んでるからさ。向こうに『コイツはイジメ甲斐が無い』って思わせるのが大事。」
そこで一度、ふーっと息を吐く。
「でね。別個に受けた身体測定の紙を保健室に持って行った時に、たまたまそこにいた水野さんに、性別欄を見られちゃったの…。「貴方、男の子なの?」ってビックリされた。『終わった…』って思ったんだけど、「うん。そうだよ。『かわいいは正義』だからね」って言ったら、「その格好、貴方にとても似合ってる。素敵ね」って言われて…。「安心して。誰にも言わないわ。貴方のその、自分らしさを貫く生き方、好きよ」って言われたの。暫くはビクビクしてたんだけど、本当に内緒にしてくれて…。良かった~、って安心した時にね、五代が来たんだ。「一人足りなくて同好会に降格しそうな化学部に入ってくれ」って。最初は断ったし、誰かも分かんなかった。でも、「いいのか?お前の昔の話を皆にするぞ?」って言われて、あん時の奴だって気付いた。折角穏やかに過ごせそうだった高校生活を壊されたくなかったから、化学部に入ったんだ…。」
「そうだったんですね…」
「うん。今日、バラされるまでは黙っててくれたから、そこは感謝だね。ま、許さないけど!」
「そうですね…。許す必要はありませんが…。アイさんの話を聞いていて、もしかして…と思った事があります」
「何?」
「五代さんは、アイさんをお好きなのではないでしょうか?」
「はぁっ!?」
大声が出た。
「何言ってんのっ!?話聞いてた?人の事、オカマっていじってくるような奴だよ!サイテーじゃんっ!」
「話を聞いたからこそ、思ったのですが…。男は小さい頃は好きな子をいじめがちですし、その…文化祭の時の私への態度と言い…。今日も、何かアイさんにプレゼントを渡したそうでしたし…」
「やめてよっ!あんな奴、大っっ嫌い!!」
耳を塞いだ。
「…すみません…。じゃあ、そろそろ出発しましょうか。」
千歳さんがシートを戻した。
15章 向かった先
再び高速に乗った。
千歳さんに全部吐き出して泣いたら、スッキリした。鼻の奥がちょっと痛い…。
「ねぇ、どこに向かってるの?」
「なんとなくですが…宮城ですね。」
「あぁ、出身地だもんね。あっ!じゃあ、実家に寄る?妹さんのアクセ、もう渡した?まだなら、持ってくれば良かったね!」
「…あぁ…。そうですね…」
「もう!どっちなの?渡したの?渡して無いの?」
「…もう…、渡せないんですよ。」
前を見たまま、千歳さんが言った。渡せない?
「…なんで?遅くなっちゃったから?そんなの気にしなくて大丈夫!プレゼントはいつもらっても嬉しいし!」
「違います。もう…、いないから。」
「え…?」
そこで思い出す。さっき、千歳さんの話を聞いた時、帰る実家が無いと言ってたような…?
「アイさん。私の家族はね…、東日本大震災の津波で家ごと流されました。」
「え…?」
今から十年以上前にあった東日本大震災は知っている。小学校の時、連日ニュースでやっていた。当時は西日本に住んでいたから実害はなかったけど、テレビで繰り返し流れた津波の映像とやたらと流れた「ぽぽぽぽーん」のCMを覚えてる。
かける言葉が見つからなかった。
「遺体は…未だに見付かっていません。だから、実感が湧かない…。二年前に叔母が「流石に区切りをつけよう」と葬式をあげて墓を作ってくれましたが、私はまだ…、墓参りにすら行けてません…。」
「なんで…?」
「顔向け出来ないからですよ…。私は勝手な奴なんです。宮城から関東の大学に通う為に上京して以降、毎日が楽しくて仕方なかった。だって…、東京にはトーハクや江戸博をはじめとする沢山の博物館があって、毎週なにかしらの企画展をやっている。地方じゃなかなか見られない国宝重文をかなりの頻度で拝めるんです!史跡も多いし、同潤会アパートもある。見たい物、行きたい所ばかりでした。大学で好きな歴史を学んで、話の合う奴とつるんで、遊ぶための金を得るためにバイトする。そんな毎日を優先して、家族をないがしろにしたんです。母が「たまには顔を見せに帰っておいでよ」と電話をくれても「忙しいから」と断りました。実家に帰る新幹線代が勿体なかったんです。親父はそんな私を責めるわけでもなく「まぁ、大学生なんてそんなもんだ。東京は楽しいからな!」と言って、母を宥めてました。母は小言を言いながらも、毎月ちょっとした食べ物なんかを送ってくれてね。まぁ、甘えてたんですよ…。アイだけが「お兄ばっか、東京で遊んでズルい!」って怒ってました。盆正月も帰らずバイトに明け暮れて、オールで友人宅で飲み明かして…、まぁ、ある意味青春を謳歌していました。で、全然帰ってこない私に痺れをきらしたのが、アイです。」
妹さんの事だって分かっているのに、千歳さんの口から「アイ」という名前が出る度にドキドキしてしまう。
「ある時、ポストにちょっと大きい封筒が入ってました。アイから、バレンタインのチョコレートが送られてきたんです。そこらのスーパーの特設コーナーでよく売られている五百円位のやつでした。お腹が空いてたんで、すぐ食べたんですよね…。次の日の夜、アイから電話がかかってきました。「お兄、チョコ食べた?」って。「昨日届いたら食べた。ありがとな」って言ったら「ふっふっふ…」と笑いました。「じゃ、今から私が言う物を買って、それをホワイトデーのお返しに持って帰ってきてね!」って、例のアクセを要求されました。「とんでも無い奴だな、お前!何倍返しだよ!」って文句を言ったら。「うっさいな~!全然帰って来ないお兄が悪いんじゃん!お父もお母も言わないけど、お正月にお兄のこと待ってたんだからね!」って説教されまして…。あと、地元の難関高に受かったから、その合格祝いと言われました。「詳しくはメールで送るから!いいっ!安くあげようとフリマで買うのは許さないからね!そんな事するような男には彼女は一生出来ないんだからね!」「余計なお世話だ!」「こわっ!」そんな話をして切りました。」
そこで一旦、ペットボトルのお茶を飲んだ。
「3月9日でしたね。アイから「ちゃんと買ってくれた?」って確認の電話が入りました。「すげー恥ずかしかったけど、買ったよ。全く…、なんで彼女でもない妹にこんなに高いモノ買ってやらなきゃならねーんだよ」って文句を言ったら「彼女が出来た時の下見になって良かったじゃん!」って笑ってました。「高校の制服出来たら見たい?」「別に」「なんだと!天下のJKになるんだから、もっと敬ってよ!」って、どこまでもえらそうな奴でしたよ…。ま、そこが可愛かったんですけどね…。「帰る時になんか買って行くけど、食べたい物ある?」って聞いたら、向こうに出店してない店のバームクーヘンを指定されましてね。「東京駅にあるデパートで買えるなら、それ買って十二日の土曜日に新幹線でそっちに帰る」って言ったんです。「お父もお母も楽しみに待ってるからね!絶対だよ!!約束だよ!」って…。それが最後でした。」
泣くかと思ったけど、千歳さんは淡々と話した。
「だからですかね…。つい同じ名前の貴方に、妹を重ねてしまう…。貴方に優しくして、貴方が私に笑ってくれると少しだけ、許された気になる…。ね、勝手でしょう?以前、貴方に差し入れたバームクーヘンは、その時妹が「食べたい」って言った品です。私はね…、自分の贖罪の為に貴方をいいように利用しているだけなんですよ。大人はズルい生き物ですからね…。ま、その罪滅ぼしもあって、今もこうして帰りたくないアイさんとドライブしてるんです。あとまだもう一つ、貴方には謝らなくてはならない事もありますしね…。」
「…何?」
「…言いたくありませんね…。」
「それって、いい事?悪い事?」
「…貴方に対して、申し訳ない事ですかね…。」
「…そっか…。」
「はい…。」
そっかぁ…。千歳さんが自分に優しくしてくれるのは、別にこっちに気があるから、とかじゃなかったんだ…。密かに期待してただけにがっかりした。さっき流したのとは違う涙がちょっと出た。慌てて、拭う。
「そろそろ、降りますね。」
「え?」
「料金は――」と告げるETC。高速を下りてしばらくしてから大きな駐車場に車を停めた。
「着きました。降りて下さい。」
「え?ここどこ?」
「私のつまらない話を聞かせたので、気分転換にアイさんが楽しめそうな所です。」
車を降りた。東北は風が冷たい。
「あぁ、アイさん。これを着て下さい。」
千歳さんのロングコートを渡される。
「自分のあるよ?」
「アイさんのコート、丈が短いから、足が寒いでしょう?あと…。昼にカレーを食べた時に思ったんですが、いかにも女子高生といった格好の貴方といるのは絵面が悪い…」
「……?」
「…分かりませんか?傍から見たら、パパ活状態なんですよ…。兄妹と誤魔化すには私達は似てませんし、歳も離れすぎてます。」
「う…。ご、ごめんなさい。」
「だから。せめて、これ着て制服は隠しておいて下さい。こっちの都合ですみませんね。」
「ううん…。でも、これ着ちゃったら、千歳さんが寒いんじゃ?」
「ご心配なく。荷台に予備の着替え一式積んでますので。」
そう言うと、グレーのスーツの上に黒のモッズコートを羽織った。千歳さんの黒のロングコートを着てみた。デカい…。とりあえず、袖をまくってベルトをリボン結びした。裾を上手に寄せたら、ワンピースみたいになった。そこに白のストールを巻いた。
「では、行きましょう。」
そこはおっきな水族館だった。値段を見て思った。
「ねぇ、一日券と年パスの値段の差、見てよ!二回くれば余裕で元とれちゃうし、通い放題じゃん!」
「ホントだ…。なら、年パスを作っちゃいますか?」
「え?」
年パスの方はこちら、と案内されて写真を撮られる。そんで、あっという間に顔写真入りの年パスが出来た。
「じゃ、行きましょうか。閉館前に入れて良かったですね。」
千歳さんが歩きだす。スーパーで良く見るマイワシが泳いでた。
「…美味しそう」と言ったら笑われた。
「エイって、いつ見ても絵文字みたいなかわいい顔してるよね。」
「顔に見えるアレは、鼻の穴らしいですよ。」
「マジで…?」
そんな事を話しながら、見て回った。水族館なのに、リスもいた。閉館時間が近いからか、人は多くはなかった。世界のうみゾーンにいた魚はカラフルだった。チンアナゴはかわいい。色んな生き物がいたけど、一番気に入ったのは、イロワケイルカだ。イルカって、灰色のイメージだったけど、このイルカは白と黒だ。
「かわいい…。パンダとおんなじ配色だ。白黒のイルカもいるんだね。」
じっと水槽前に立ってたら、こっちに来た。かわいい。他の人が来たから、ちょっと場所を移動したら、その子がついてきた。ビックリだ。千歳さんが言った。
「アイさんを仲間だと思ってるのかもしれませんね。」
「え?」
「だって、アイさんも黒と白だ。」
「確かに…。」
千歳さんの黒いロングコートともらった白いストール。なんだか嬉しくなって、長い事見てた。
一通り見終わって、一階に戻って来た。
「ちょっとトイレに行って来る。」
「分かりました。私は売店を見てますね。」
トイレを済ませて出たら、でっかいイロワケイルカのぬいぐるみを抱えた千歳さんがいた。
「ど~したの、それ?」
「買いました」と言って「はい、卒業祝いです」ってくれた。
「ええっ!?」
「“くまた”さんの代わりです。」
「?」
「だって、今日は家に帰りませんから。アイさんと一緒に寝るコが必要でしょう?」
閉館を迎えた水族館を出た。おっきなイルカのぬいぐるみを抱えて車に向かって歩く途中で、千歳さんが言った。
「アイさん、もう五時です。そろそろ、お母様のお仕事も一段落したでしょうから、心配しないように連絡しておいて下さい。」
「えーっ!いいじゃん。もうコーコー生じゃないんだし!先月十八歳になったから、もう大人だよ!」
「何をおっしゃいます…。今月末までは、貴方は高校生ですよ。」
「ウソっ!」
「ウソじゃありません。なので、今日貴方が帰らず、心配したお母様が警察に届け等を出した場合、私は誘拐犯として捕まる可能性があります。私はまだ、犯罪者になりたくないんで、よろしくお願い致します。」
「……。」
そう言われたら、仕方ない。
「分かった。」
頷いた。
「では、先に車へどうぞ。聞かれたくない話もあるでしょうし、私は電話が終わるまで外で待ってます。」
車からちょっと離れた所で、スマホをいじる千歳さんを見ながら母に電話した。
「あ~、アイ!卒業おめでとう!」
なんだか焦ってる母の声が聞こえた。
「ありがと。どうしたの?」
「ちょっと聞いてよ!うちの作ったシステムは完璧なハズなのに、どっかのシステムと競合してるのか処理落ちしちゃって…。今、問題点を洗い出してる真っ最中なの…。今日、帰れなくなったわ…。ごめんね…」
それを聞いて、ほっとした。それなら、わざわざ言わなくてもいいや、と思った。
「ううん、平気。こっちは心配しないで。頑張ってね。」
「ありがと。アイ、大好きよ。」
「うん…。」
必要な電話が終わったので、またスマホの主電源を落とした。それから窓を開けて千歳さんを呼んだ。
運転席に戻って来た千歳さんは言った。
「近くにアウトレットがあるみたいなんで、次はそこに行きましょう。」
「なにか欲しいモノあるの?」
「えぇ。アイさんの明日着る服がないでしょう?」
「制服のままでもいーよ?」
「私が、困るんです。」
「そうでした…。」
そんな訳で、黒いコートを着たまま、ぐるぐる回って、服を選ぶ。千歳さんにあんまりお金を使わせたくなかったので、70%OFFになってた白い長袖シャツと長めの水色のニットと黒いズボンを買ってもらった。
「下着類はこの先に大手スーパーがある筈なので、そこで調達しましょう。」
移動先でお財布を渡されたので、下着と靴下は自分で買った。
「お腹すいた…」
お財布を返して、千歳さんに言う。
「そうですね。もうすぐ八時だ。流石にお腹が減りましたね。」
「うん…。」
ちょっと考えてから、千歳さんが言った。
「夕飯は広東麺でいいですか?」
何故に広東麺限定?と思ったが、頷いた。
「色々変わっちゃってますが、この近所に美味しい広東麺のお店があるんです。多分、まだあると思うので、そこに行きましょう。」
入ったお店はでっかいパチンコ屋の隣にある中華料理屋だった。広東麺以外のメニューも沢山あった。目移りしたが、千歳さんおすすめの広東麺にした。具材がたっぷり乗った広東麺は、アツアツのとろりとしたスープが絡んで絶品だった。
「美味しいね!」
「えぇ。寒いから、あったまりますね。久し振りに食べました。」
二人、向かい合って食べた。心も身体もポカポカになって、店を出た。
「ねー、次はどこ行くの?」
「ホテルです。」
「えっ!?」
*****
……さっき、「ホテル」と言われて、ドキッとした自分を殴ってやりたい。
千歳さんが連れてってくれたのは、ビジネスホテルだった。
「はい、これアイさんの部屋の」とルームキーを渡される。買ってもらった服とでっかいぬいぐるみを抱えて、部屋の前で別れた。
「では、また明日。」
隣の部屋のドアが閉められる。自分用の部屋に入って、荷物を下ろす。でっかいイルカのぬいぐるみはベッドにおいた。とりあえず、着たままだった千歳さんのロングコートを脱いでハンガーにかける。室内にあったドアを開けた。トイレとお風呂が一緒になってた。
「え…?どうするの、これ?シャワー使ったら、トイレまでびしょ濡れになっちゃうじゃん…」
困った。これまで学校の宿泊を伴う行事は全部欠席してきたから、使い方が分からないんだ…。千歳さんに電話をかけるが、出てくれない…。
すぐ隣にいるのに…っ!
さっきまでは穏やかに接してくれてたけど、今日すんごく迷惑をかけたから、怒ってるんだ、きっと。もう口もききたくないのかもしれない…。
「そんなの…、やだっ!」
ガチャッとドアを開けて、隣の部屋のドアをガンガン叩いた。
「ど…、どうしましたっ!?」
びしょ濡れの髪の毛を手で掻き上げた千歳さんが慌てて顔を出した。
「あ…」
お風呂に入ってたんだ…。
「ご、ごめんなさい…。ちょっと…聞きたい事があったから…。」
「あ、す、すみません…。今こんななんで、もう少ししてからでも、いいですか?」
「…うん…。ごめんね…」
己の短絡的な行動を恥じて、自分の部屋のベッドでイルカのぬいぐるみを抱えて大人しく待った。ポコン、と通知が来た。
『どうされました?』
『あのね、使い方が分からないから、教えて』
コンコンとノックがした。ドアスコープから覗く。備え付けの浴衣に着替えた千歳さんだったから、ドアを開けた。
「何が分からないんですか?」
「あ、あのね…。トイレとお風呂一緒だから、シャワーしたらトイレまでビショビショになっちゃうでしょ?千歳さん、どうやって入った?」
「あぁ~…。アイさん、こういった所に泊まるのは初めてですか?」
「うん…。学校の宿泊行事は全部休んだし、旅行自体もじぃちゃんちに行く位しかしたことないから…。世間知らずでごめんね…。」
「いえ。ちゃんと分からない事を分からない、と言えるのは素晴らしいですよ。孔子も言っているでしょう?『知之為知之、不知為不知、是知也』と。私なんかもそうですが、つい知ったかぶりをしてしまうんです。素直に言えるのは美徳ですよ。」
そう言うと、「ちょっと失礼…」と室内に足を踏み入れた。一般サイズのの浴衣は千歳さんには小さいようで、膝下がかなり出てた。青白い肌だった。トイレのドアを開けると中に入り、「こうやって使います」とバスタブの中に立って、裾がバスタブの中に入るようにカーテンをひいた。
「ほら、こうすればシャワーが撥ねてもトイレは濡れないでしょう?」
「な、成程…。」
「シャワーを浴びる時は、便座の蓋を閉めて、その上に着替えをおいておくといいですよ。」
「あ、ありがと。」
「どういたしまして。誰だって、初めては分からない事ばかりですからね。」
そう言うと、カーテンを戻してバスタブから出て来た。
「では。」
去ろうとする千歳さんの浴衣の袖をつかんで引き止める。
「待って…。もう少しお話してってよ。」
「すみません…。本来であれば、室内にも入るべきではなかったのですが、説明の為に入室致しました。第三者から見て、何かあったと思われるのは良くないので、すぐ退出します。」
「で、でも…。」
「大丈夫。すぐ隣にいますよ。こういう所は左右対称に作られてるんです。そこにあるアイさんのベッドの壁一枚隔てた隣に私のベッドがあるんです。そう思えば、安心でしょう?ほら、さっき買ったイロワケイルカもいますし、大丈夫ですよ。それでも心細いなら、一晩中通話してますか?」
「えっ!?いいの?」
「えぇ。館内Wi-Fiがありますし、通話アプリなら大丈夫ですよ。」
「じゃ、お風呂から出たらかけるね。」
「はい…。部屋の鍵はしっかりかけて下さいね。」
「うん!」
千歳さんが部屋を出た後、しっかり鍵をかけて、ドアロックもした。それから、教わった通り、シャワーを浴びた。備え付けの浴衣に着替える。160しか身長がない自分にはちょっと大きかった。歯磨きも済ませてから、ぬいぐるみを抱えてベッドに横になる。壁側に寝転んでから、通話アプリで千歳さんに電話を掛けた。
「もしもし?」
「もしもし。お風呂は入りましたか?」
「うん。教えてもらった通りにしたら、トイレまでは濡れなかった。」
「それは良かった。」
「教えてくれてありがと。」
「いえ…」
「あ、あのねっ。さっきの事もそうだけど、今日、本当にどうもありがとう。人前で五代にあんな事を言われた時は『もうやだ、消えちゃいたい!』って思ったけど、今はね…、すっごく楽しいよ!ほら、うち、母が忙しいからこういう所に泊まる旅行ってした事なかったし!水族館も久し振りだったし…」
たくさん話した。こんなにたくさんの言葉を一人の人に伝えるのは、家族以外じゃ初めてなんじゃなかろうか?この壁一枚隔てた向こうで、同じ浴衣を着て同じように寝ながら話してる千歳さんがいるんだ。おんなじ浴衣って、ペアルックみたいだね。そう言えば、スーツ以外は黒い服を着てる所しか見た事無かったから、白地に藍色模様の浴衣を着た千歳さんの姿は新鮮だったな…。
喋りながら、だんだん眠くなってきた。お泊り会ってやった事無いけど、多分こんな感じで、眠る直前まで友達と喋れるんだろうなぁ…。
ゆらゆらと心地よい眠気に誘われて落ちてゆく意識の中、千歳さんの声が小さく聞こえた。
「アイさん…。死なないで下さいね…」
あぁ。そっか…。
ショックで自殺しないか心配で、千歳さんはここまで自分を連れてきてくれたんだね…。
16章 一夜明けて
遠く聞こえるテレビの音で目が覚めた。
「……ん…」
「アイさん?起きましたか…?」
「…千歳…さん…?」
「はい。慣れない場所ですが、良く眠れましたか?」
そう言われて、自分がどこにいるかを思い出した。テレビの音はスマホを通して聞こえている隣の部屋のものだった。本当に一晩中、通話中にしててくれたんだ!
「おふぁよぉ~…」
おはようっていうつもりが大きな欠伸になった。
「はい、おはようございます。眠いなら、まだ寝ててもいいですよ。チェックアウトは十時ですし。朝食バイキングに行きたいなら、早い方がいいですが…」
「朝食バイキング?」
「えぇ、館内のレストランで好きな物を選んで食べられますよ。六時半からだから、もう始まってますね。えぇと…。九時終了だから、入店は八時四十五分まで、ってありますね。」
慌てて時計を見る。六時四十五分だった。
「今すぐ着替えて行くっ!」
「分かりました。じゃ、いったん切りますね。」
「うん、あとで!」
飛び起きて洗顔と歯磨きを済ませ、昨日買ってもらった服に着替えた。部屋のドアを勢いよく開けたら、丁度千歳さんが出て来た所だった。
「タイミング、ぴったりでしたね。」
そう言って、見慣れた黒パーカーに黒ズボンの千歳さんが笑った。
「バイキング!早く行こっ!」
千歳さんの手をひいて、八階にあるレストランに向かった。
「そんなに慌てなくても、バイキングは逃げませんよ」と千歳さんに笑われた。だって、初めてなんだもん。超楽しみじゃん!
ウインナーにクロワッサン、ミニトマトに皮付きのフライドポテト。山盛りコーンにオニオンスープetc…。朝から、こんなにたくさんの種類を好きなだけ食べていいなんて、ここは天国か…!ニッコニコで口にした。
「おいし~!自分で何もしなくても、こんなにバラエティに富んだ朝ご飯食べられるなんて、このホテルサイコーだねっ♪」
「ははっ。そんなに気に入ってくれたなら、何よりです。」
そう言う千歳さんは、味噌汁に温泉卵、焼き鮭に海苔とご飯のザ・日本の朝食を食べていた。
「今日、どうします?何か、やりたい事ありますか?」
「やりたい事か…。う~ん…。」
千歳さんといると楽しいから、一緒にいられればそれだけで充分なんだけどな…。昨日、水族館の年パスを買ったから、またあのかわいいイロワケイルカに会いに行ってもいいかもしれない…。
「RPGの世界なら、宝探しをするのが定番だけどね…。」
「宝探し…、ですか?」
「そ。まだ見ぬお宝はっけーん!ってやつ。」
「……。」
味噌汁を啜ってた千歳さんが「あっ!」と声を上げた。
「行きましょう、宝探し!」
「えっ!?」
*****
そんな訳で、早々にチェックアウトして、イルカのぬいぐるみを抱えて助手席に乗り込む。千歳さんは途中で給油すると、また高速に乗った。
「ねぇ、どこ行くの?」
「それは着いてのお楽しみです。」
行き先は教えてくれなかったけど、千歳さんは楽しそうだ。通過していく案内標識を見て、どうやら岩手に向かってる事だけは分かった。
昼前に、結構な山奥に着いた。
「ここここ!うわぁ、懐かしいなぁ!ちょっと待ってて下さいね!」
そう言うと、車を降りて意気揚々とコンクリートの建物の中に入って行ったが、しばらくして項垂れて戻って来た。
「どうしたの?」
「アイさん…、すみません…。こんな所まで付き合わせたのに、この時期はやっていませんでした…。」
しおしおになっている。話を聞く。どうやら、ここは日本で唯一琥珀がとれる土地らしく、琥珀採掘体験が出来るのだそうだ。
「昔、家族で来た事があって…。アイさんから「宝探し」と聞いた時に思い出して、良く調べもせずに来てしまったんですが…。HPを確認すれば良かったですね…。採掘体験は十一月で終了って書いてある…。次に始まるのは、四月下旬でした…。はぁ~…、何やってんだ、俺は…。全く…!」
ゴチン!とハンドルに頭を打ちつけて動かない。『反省中』の猿みたいだ。
「どんまい!」
そう言ってから、そっと腕を伸ばして、千歳さんがしてくれたみたいに頭を撫でてみた。張りのあるくせっ毛だ。
千歳さんがハンドルに頭をつけたまま、こっちを向いた。
「何です?私は子供じゃありませんよ…」
「うん。知ってる。でも、落ち込んでるから、元気出して欲しくって。」
ひっこめた腕でイルカのぬいぐるみをパタパタ動かして、「採掘出来ないだけで博物館はやってるなら見に行こうよ!」とちょっと声色を変えて言った。
「ね。“いるたん”もこう言ってるよ。」
プッと千歳さんが吹き出した。身体を起こす。
「全く…!“いるたん”さんにそう言われたら仕方ありませんね。アイさんは興味無いかもしれませんが、折角来たんだから、見て行きますか?」
「うんっ!」
千歳さんは分かってない。大事なのは、「どこ」に行って「何」をするんじゃなくて、「誰」と一緒にいるかなんだよ。
大して期待せずに入った博物館だったけど、惹きこまれた。だって、琥珀は綺麗。虫や羽根が入った標本もある。
「すごいね…」
「えぇ。これなんて、新生代古第三紀始新世後期のものとありますからね、悠久の時代を感じますね…。」
噛みそうな単語を噛む事もなくそう言った。
「琥珀の中で息絶えたこの虫は、最後に何を思っていたのでしょうね?」
「なんだろ…?琥珀は樹液が変化した物ってあるから、案外『この樹液、ウメ―!』って、今もご飯を食べてる幸せな夢のまっ最中かもよ?」
「あははっ。アイさんは面白い事を言う…」
千歳さんが大きく歯を見せて笑った。いつも小さくしか笑わない人だから新鮮だった。
「千歳さん。」
「なんです?」
「そっちの方がいいよ。」
「何が?」
「スマイル!千歳さんがそうやって楽しそうに笑ってくれると、嬉しいよ。」
にっこり笑顔で伝えた後に、なんか…恥ずかしい事を言ってしまったと思って、慌てて向きを変えた。
「二階の展示も見よっ!」
恥ずかしさから、走って先に行った。二階には琥珀で作られた勾玉やおっきなモザイク画があった。
「ほえー…。いくらするんだろ、これ?」
思わず、俗物的な科白が出た。
「気になる所はそこですか?」
いつの間にか追いついた千歳さんが横にいた。
「だって、さっきあったお土産用の琥珀とかいいお値段してたじゃん。」
「そうですね…」
博物館を出て、周辺をぶらつく。ワークショップや神社もあるこんもりとした森林だ。
「グリーンパワー!」
そう叫んで、大きく伸びをした。
「何です…?急に…」
千歳さんがビックリしてる。
「森から出てるフィトンなんとかには、癒し効果があるって聞いた事あるから、つい…。」
「あぁ、フィトンチッド。」
「それだ!」
大きく深呼吸する。風は冷たいが、その冷たさが心地よい。大きく吸ったから、肺の奥までひんやりスッキリした。
「まぁ…。宝探しは不発に終わりましたが、それなりに楽しんでもらえてるようで、安心しました。ホントはここから、バスに乗って採掘場に行けるんですよ。そこで長靴やピッケルを貸してもらって、地層を掘るんです。」
「みたいだね~。館内に大物持って写真に写ってた人達いたもんね!あの大物、一体いくらで買い取ってもらえたんだろ?正に一攫千金チャンス!」
「まぁ…。あんな大物はそうそう出ませんけどね…。」
「千歳さんはどうだった?前に家族で来たんでしょ?」
「全然でしたよ…。掘る前は皆で「大物見付けちゃったら、どうしよう?」なんて言い合ってましたが、結果は1ミリ位の「これって琥珀か?」っていう良く分からない物しか取れませんでした。アイなんか「全然取れなかった~」って泣き出して…。でも、そんな人の為にちゃんとお土産用のちっちゃい欠片を参加賞としてくれるんです。」
「なら、良かった…。」
「ま、私の分はアイに取られましたけどね。」
「ひどっ!」
「アイツはそういう奴です。私が博物館の体験教室で作った三百円の勾玉も取られました。」
「うわー…」
「でも…。私が持ってるより、大事にしてくれたからいいんですよ。勾玉だって、他のビーズと組み合わせてペンダントにしてましたしね…。そういう意味では、可愛い奴なんですよ。」
そう話す千歳さんはお兄ちゃんの顔をしてた。
「お父さんとお母さんはどんな人だったの?」
「親父は刑事ドラマが好きでしたね。お気に入りの番組を何度もビデオで見てました。「敏、知ってるか?この俳優さん、宮城出身なんだぞ」って言いながら何回も見るもんだから、こっちが犯人を覚えちゃってましたよ。母は詩人が好きでしたね。だから、子供を寝かしつける時、昔話とかじゃなくて、詩集を読んでくれました。いや…、歌ってくれた、が正しいかな?おしゃべりで明るい人でした。良くダジャレを言ってましてね、こっちがすぐに切り返せないと「頭が固い~」って言うんですよ。」
「あぁ。だから、千歳さんもダジャレが多いのか!」
「うっ…。すみません…。」
「なんで謝るの?いーじゃん。頭が柔らかいショーコでしょ。」
「はぁ、どうも…。」
「後は~?」
「そうですね…。ご飯が美味しかったです。 アイが「お母、料理教えて~」って言うんですけど「見て覚えなさいよ」って。でも、見てると調味料とか全然計らないんですよ、あの人。傍から見たらテキトーに作ってるようにしか見えないのに、出来上がるとちゃんと美味しいっていう…。不思議でした。アイは「全然分かんない!」って怒ってました。ははっ。アイツ、怒ってばっかだったなぁ…」
そう言った時、つーっと千歳さんの目から涙が落ちた。
「あ…。す、すいませんっ。」
千歳さんが慌てて手のひらで拭う。
「なんで謝るの?泣きたい時は泣けばいーじゃん。昨日泣いたらスッキリしたよ。」
「…、恥ずかしいじゃないですか…。」
「今、ここに他の人いないから平気だよ。」
「アイさんがいるじゃないですか…。大の大人が泣くなんて…、みっともないじゃないですか…」
「全然みっともなくないよ。あ~、さては千歳さん、知らないな?今は涙活セラピーとかがあるんだよ。なんかね、涙を流す事によってストレス発散とえ~と…確か、免疫力もアップするとかなんとか…。こないだテレビでやってた。」
「…そうなんですか…?」
「うん。涙と一緒に辛い事やストレスを流すんだって。デトックス。だから!千歳さんも悲しかったら、泣けばいーんだよ!スッキリするよ。あっ!泣いてる所を誰かに見られるのが嫌なら、胸を貸してあげるよ!ほらっ!」
そう言って両腕をばーんと大きく広げた。
「さぁ、どうぞ!料金は一時間千円です!」
わざとおどけて言った。涙目の千歳さんが「ふはっ」と笑ってから、言った。
「じゃあ…、千円払います。」
「え?」
「…失礼します。」
そう言うと、倒れ込む様に抱き着いてきた。そんで、しがみついて泣き出した。こんな風に泣くなんて思わなかったから、ビックリした。自分より大きい千歳さんが、小さな子供みたいになっちゃった…。だからかな…。そうっと千歳さんの頭を撫でた。くしゃっとした髪の毛が指に絡む。千歳さんの話を聞いて、気付いた事があったから言ってみた。
「千歳さんは…関東に来てから実家に帰らずにいた事をずーっと後悔してたんだね…。黒い服ばっかり着てるのも、それが理由?」
「そ…、そうです…。せめてもの償いの気持ちで…。新幹線代なんて…ケチらずに帰れば良かったんだ…。あの時も…、すぐに帰っていれば、俺は家族に会えたのに…。俺なんか…っ、俺こそが…!あの時、津波に流されて死ねば良かったんだ…」
「うん…。でも…。それは違うよ…。そんな事言っちゃダメだよ。千歳さんの家族はさ、千歳さんだけでも生き残ってくれて良かったと思ってるよ、きっと…。だってさ、千歳さんがいるから、千歳さんからこうやって千歳さんの家族の話を聞ける。そうやって話して思い出す時、その人が傍にいる気がしない?ずっと一緒に寝てる“くまた”はね、二歳の時に父が旅行先で買ってくれたの。記憶はないんだけどさ、すっごく気に入って「買ってくんなきゃ、ヤじゃー!」って、お店の前でひっくり返って大泣きして両親を困らせたんだって…。暴れた拍子に履いてる靴が脱げて、ショーウインドーに当たって大変だったみたい…。それで、根負けした父が買ってくれたんだって…。その時の写真が残ってるんだけど、写真だけで見るより、そういう話を聞きながら見ると…なんかね…、「全く、アイはしょうがないなぁ…」って、父の声が聞こえるの。不思議でしょ?いなくなっちゃっても、その人の想いはちゃあんとあるんだよ。だから…、大丈夫。千歳さんは一人じゃないよ…。」
そう言って、両手でぎゅっと千歳さんを抱きしめた。
「千歳さんは一人じゃないよ。傍にいるよ。だから…、辛い時や悲しい時は一人で我慢しないで頼ってよ。こんな風に話を聞いて、抱きしめる位は出来るからさ…。ねぇ、知ってる?猫を吸うと幸せな気分になるんだって。母が言ってた。でも、ずっとマンション暮らしのうちじゃ飼えないから、昔から母に猫代わりに吸われてたんだ~。母もこんな風に抱きついて「はぁ~っ!アイは世界一可愛い!世界一いい子っ!大好き!」って言いながらスーハ―してたよ。その後の母は、いっつも元気になってたから、効果は保障するよ!千歳さんも大丈夫!」
そう言って、背中をぽんぽんと優しく叩いた。千歳さんは「うん…、うん…」って言いながらずっと泣いてたから、ずっと背中をさすってあげた。もしかしたら、これはグルーミングなのかもしれない。
しばらくしてから、漸く千歳さんが顔をあげた。涙でぐちゃぐちゃの顔をしてた。
「はい」って、タオルハンカチを渡した。千歳さんが昨日貸してくれたのを、昨晩お風呂場で洗って干しといたものだ。
「あ、ありがとうございます…」
涙を拭った後に、ショルダーバッグからポケットティッシュを出して、ちーんと鼻をかむ。
「…落ち着いた?」
「…はい…。アイさんの言う通りかもしれません。何だか少し…心が軽くなった気がします。」
「うん。流した涙の重量分は確かに減ったと思うよ。」
「…そうですね…。溜めてた事を吐き出した事で、少し楽になりました。」
「うんうん。心も便秘になると苦しいもんね!」
「便秘…。相変わらず、アイさんのいう事は面白い…。」
「そぉ?」
「えぇ。でも、ありがとうございます。確かに、アイさんの癒し効果はバツグンです。」
「でしょっ!」
「あと…。お見苦しい所をお見せしました…。」
「気にしない!お互い様だよ!無問題!」
ぐっと元気にポーズをした。
「はい、じゃあ、これ」と、財布から取り出した千円札を渡して来た。
「え…。いらないよ。冗談だったし。」
「ダメです。ちゃんと対価として受け取って下さい。」
そう言って、右手にしっかり握らせてから聞いた。
「アイさんは…、その…。大丈夫ですか?」
「何が?」
「昨日、人前であんな事を言われてかなり傷ついたように見えたので…。」
「あ~…、うん…。昨日は泣いちゃったけど、もう平気!あんな奴に何を言われようと、もう気にしない!だって、かわいい自分に似合うかわいい服を着てるだけだもん!悪い事いっこもしてないもん!」
「そうですね。可愛いアイさんには、可愛い格好が良くお似合いだ。」
「うん!分かる人だけ分かってくれたらいーんだよ。」
「そうですか?」
「うん。だって、皆が皆、分かり合えたら、戦争なんて起きないじゃん!」
「確かに…。」
散策を終えて、車内に戻って来た。
「さて…。では、この後どうしましょうか?」
「あのさ…。あんまりお金使わせるのも申し訳ないから、宮城に戻ろ。昨日買った年パスあるし、またあのかわいいイロワケイルカに会いに行こうよ。」
「分かりました」と言った後に、千歳さんが言った。
「出発前にトイレを済ませておきましょう。アイさんは?行かなくて平気ですか?」
「うん、平気。“いるたん”と待ってる。」
「じゃ、私だけ行って来ます。」
そう言って、なかなか戻って来なかったから『大かな…』って勝手に思ってた。
17章 旅の終わり
朝たくさん食べたから、お昼は途中にあったコンビニでおにぎりを買って済ませた。それからまた結構な時間をかけて宮城に戻った。道中、たくさんの話をした。千歳さんが住んでた時にはまだ、昨日行った水族館もアウトレットもなくて、松島にボロイ水族館があったんだって。津波で浸水被害にあって、結局閉館になったんだそうだ。
「そこにいた子達も働いていた人達も、昨日行った水族館に移籍したとあって、良かったです。安心しました。」
そうなんだ。
「人も土地も立ち止まらず、前に進んでいたんですね…。私も…心機一転頑張りたいと思います!」
ハンドルを握ったまま、前を向いて力強く宣言した。
昨日行った水族館に再び足を踏み入れる。
今日はイルカショーも見られた。それから、イロワケイルカの所に行った。今日も昨日借りた千歳さんの黒のロングコートを着て白いストールを巻いてたので、昨日同様、水槽の前を歩く度に一緒に泳いでついてきてくれた。
「はぁぁ~、かわいい♡」
水槽に両手をぺったりつけて覗き込む。聞こえるワケないのに、そのコに報告しておいた。
「あのね。昨日、君のぬいぐるみを買ってもらったんだ。すんごく大きいんだよ。名前は“いるたん”にしたんだよ。」
閉館まで、こころゆくまで過ごした。すんごく楽しくて、この時間がずっと続けばいい、って思ってた。閉館を知らせるアナウンスに背中を押されて、昨日“いるたん”を渡してもらった売店前に来た時だった。
「アイ!」
聞き慣れた声が自分を呼んだ。
「えっ?」
振り向いたら、母がいた。
「えっ?なんで…」
「なんで、じゃないわよ。卒業旅行は楽しかった?」
状況が飲み込めない自分を一旦放って、母は千歳さんに頭を下げた。
「うちのアイが…、御迷惑をお掛けしました。」
「いえ…。」
「なんで、母がここにいるの?なんでここにいるって、知ってるの!?」
「昨日から、ちょくちょく千歳さんから連絡をもらってたからよ。昨晩も今日も。で、ここに行くって聞いたから迎えに来たの。アンタは昨日電話一本入れたっきり、スマホの電源すら入れてないし…。心配するでしょーが!」
「…いつの間に…?」
千歳さんを見る。
「すみません…。ですが、高校生をお預かりする以上、何かあった時の為に逐一連絡は入れさせていただいてました。」
そう言われて思い出す。さっきここに来る前も、昨日も千歳さんが一人の時間があったこと。でも…昨晩は?ずっと通話アプリで繋がっていた筈なのに…。そんな心を読んだように母が言った。
「今時の子はスマホしかないと思ってるんでしょうけど、ホテルには固定電話があるんだからね。」
あぁ、そっか…。
三人そろって、外に出た。
「ここまで何でいらっしゃいました?」
「電車よ。」
「では、最寄り駅までお送りします。」
「よろしくお願いします。ほら、帰るわよ、アイ。」
母に右手を掴まれ、後部座席に並んで座る。
すぐに駅についた。昨日買ってもらった服が入ってた紙袋に入れた制服と、卒業証書が入ったリュックとしおれた花束を手に持つ。運転席から降りた千歳さんが言った。
「楽しかったドライブはこれでおしまいです。アイさん…。貴方に言えなかったもう一つの事、今、言っておきますね。」
「何?」
「四月…。貴方が大学に入学しても、私の講義は受けられません。」
「…な、なんでっ!?」
「私が…非常勤だからです。現在の雇用契約は今月末でおしまいです…。その後の打診は…、今現在来ていません。」
「う、うそ…!?」
「あんなに受験勉強を頑張ってまで楽しみにして下さっていたのに…、ご期待に添えず、申し訳ございません…。」
深々と頭を下げられた。
「ヤだっ!そんなのヤだーっ!」
涙が出て来た。千歳さんがいないなら、あの大学を選んだ意味が無い。
「もう…。アイったら、“くまた”の時と同じじゃない…」
母が呆れて言った。
「ほら、千歳さんにこれ以上迷惑掛けないの!帰るわよ!」
ぐいっと腕をひかれる。
「待って…。まだ“いるたん”が車内に…」と言いかけて気付いた。ここで別れたら、千歳さんはもうじぃちゃんのあの家に帰ってこないかもしれない…。そんなの…、嫌だっ!
泣くのをやめて言った。
「千歳さんっ!“いるたん”預けておくから、後でちゃんと届けに来て!その時まで、このコートは人質として預かっとく!代わりに千歳さんは、そこのPコート預かってて!」
「え…?ええっ!?」
困惑した千歳さんに構わず続けた。
「待ってるからね!絶対だよ!!約束だよ!」
同じ名前の「アイ」ちゃんが言ったという科白をわざと言った。同じ名前なんだから、同じ事を言っても許されるよね?千歳さん、自分に妹を重ねてた、って言ってたし。
「はぁ…」と大きな溜め息を千歳さんはついた。
「分かりました。約束されました。」
「ほんとに?」
「はい。私は嘘は嫌いです。」
「なら…、いい。先に母と帰っとく。千歳さん、またね!」
バイバイ、とは言いたくなかった。「またね」と言って、手を振った。律儀な千歳さんは、ホームに入って来た電車にうちらが乗って、見えなくなるまで駅前から動かなかった。
エピローグ
そこから、千歳さんがどこに向かったかは知らない。だって、三日たっても何の連絡もない。オコだよ!
でも、気になるから、日中は毎日じぃちゃんちで過ごしてた。
「千歳君から電話をもらった時、アイと一緒にいると聞いてたんだが、なんでアイだけ帰ってきたんだ?千歳君はどこ行った?」
「知らないっ!」
プンスコしてたら、じぃちゃんは話題を変えた。
「なぁ、アイ。今日、こんなチラシが入ってたんだが、昼飯はピザにせんか?」
見れば、Lサイズを一枚頼めば、Mサイズが二枚もらえると書いてある。
「マジか!超お得じゃん!」
「じゃろ?」と言った時に、じぃちゃんちの電話が鳴った。じぃちゃんが機敏に子機を手に取った。名乗りもせずに「どうなった?」と聞く。
「うん、うん…。分かった!まかせろ!」
そう言って、すぐに切った後、どこかに電話した。しばらくそのままでいたが、相手が出なかったようで舌打ちをして子機を置いた。
「全く…!あの野郎…」
ブツブツ文句を言った時だった。庭に車が入って来る音がした。
「千歳さんだ!」
「千歳君だ!」
じぃちゃんと二人、慌てて立ち上がり、玄関に向かった。引き戸を開ける。見慣れた白の軽自動車が停まったところだった。
「千歳さん!」
千歳さんが車から降りて来た。髪の毛が短くなっていた。卒業式の時に着てた灰色のスーツを着てた。
「どうしたの?そんな格好して?」
「おう!こら!なんで電話したのに出なかった?」
「すみません…、先生…。運転中だったもので…」
そう言った千歳さんがスマホを鞄から出した時だった。千歳さんの電話がけたたましく鳴いた。
「はい、千歳です。はい…、どうもお世話になっております。…えっ!?ほ、本当ですかっ!?」
電話に出た千歳さんは大声を出すと目を見開いてこっちを見た。そんな千歳さんを見て、じぃちゃんがにやっと笑った。
「はい…はい…。分かりました。よろしくお願いいたします。」
そう言って、電話なのに見えない相手に何度も頭を下げた。通話を終えると「先生っ!」と言って、じぃちゃんの手を両手でつかんだ。
「ありがとうございます…。ありがとうございますっ!先生の…おかげです!本当に…先生には何度も助けていただいて…なんとお礼を言えばいいのか…」
「ばぁ~か!儂は口添えをしただけだよ。お前さんの地道な努力が実っただけだ。もっと自分を誇れ!」
じぃちゃんはバシン!と千歳さんの背中を叩いた。
「一体、何の話?」
二人だけの会話で蚊帳の外にされたのが面白くないので、割り込んだ。
「あぁ、アイさん!聞いて下さい!今、大学から電話があって、四月から准教授として雇っていただけることになりました!」
「ほ、ホントっ!?」
「はいっ!」
「千歳さんの歴史の講義受けられる?」
「はい。」
「や…ヤッター!」
嬉しくて思わずジャンプした。そんな自分を見て、じぃちゃんが言った。
「おう、アイ!儂の授業も受けろ!」
「えっ!?じぃちゃんは退任したんじゃなかった?」
「お前が大学に行くって言うから、週に二コマの特別講義を持つ事にした!孫と一緒に大学に通うのが夢だったんじゃ!それに…。これで、アイツにうちの孫の可愛らしさを見せつけてやる…」
ふっふっふと笑うと言った。
「アイ!さっき「ピザを頼もう」と言ったが、アレは無しだ!」
「えぇ~っ!ひどいよ!」
口を尖らせる。
「何故なら儂は、祝い事があったら寿司を食べると決めてるからだ!行くぞ、アイ!千歳君の准教授祝いだ!千歳君、車を出してくれ!」
「は、はい…!」
じぃちゃんの勢いに押されて、千歳さんが頷く。じぃちゃんは躊躇わずに、運転席の後ろに乗った。自分は助手席を覗いた。シートベルトをした“いるたん”が乗っていた。
「あっ!“いるたん”!」
「えぇ。道中の話し相手になってもらってました。」
ひさしぶりの“いるたん”を抱っこして助手席に乗った。
寿司屋でじぃちゃんはよく食べて、よく飲んだ。上機嫌だった。千歳さんはワサビが苦手らしく、全部サビ抜きにしてもらってた。「アイさん、良く食べられますね」とビックリされた。
「美味しいよ?」と伝えた。千歳さんは首を振ったが、嬉しそうに過ごしてた。じぃちゃんの奢りでお腹いっぱいになって戻って来た。じぃちゃんは昼間っから飲み過ぎて、足元がふらついてた。
「先生、しっかり…」
車を降りて支えて歩く千歳さんに向かって、じぃちゃんは「良かったなぁ、良かったなぁ…」ってずっと言ってた。
「儂はなぁ…、頑張ってる奴には報われて欲しいんだ…。千歳君、お前さんも幸せになってくれよ…」
「はい…。」
飲み過ぎたというじぃちゃんをそのまま二人がかりで布団に寝かしつけてから、居間に戻った。
「お茶っこさでも、淹れてきます。」
そう言って、千歳さんがお茶を持って来てくれた。
「ありがと。千歳さん、あれからどこに行ってたの?」
「あぁ、叔母の家に行ってました。あと…家族の墓参りをしてきました。あのお墓の中に家族の骨は無いけれど…、お墓を見た事で家族の死を現実として受け止められたと思うので…。今更ですが、行って良かったです。私の中で、一つの区切りになりました。」
「そっか…。」
「はい…。」
しばしの無言。
「そう言えば、髪の毛切ったんだね。」
「えぇ。心機一転しようと思って…」
「そうなんだ。そう言えば今日、なんでスーツ着てるの?なんかあった?」
「あぁ~…」と言って、千歳さんが頭を掻いた。
「これは…、盛大に空回っちゃいました…。」
苦笑いして言った。
「でも…、これで良かったんです。そうだ!アイさん、貴方にお願いがあるんです。」
「お願い?」
「えぇ。聞いて下さいますか?」
「うん。い~よ。」
「じゃ…。ちょっと待ってて下さい。」
そう言うと、千歳さんは例のアクセの小さな手提げ袋を持って戻って来た。遠目には分からなかったけど、元が白い筈のそれは日に焼けてすっかり黄ばんでいた。あの日、一緒に見た琥珀みたいな色してた。十年以上の歳月、貰い手を失ってそのまま放置されていたものだ。これも一つの歴史だろうか…。
「これ…。自分では処分出来ないので貰って下さい。もとはアイさんに買った物じゃないので、気に入らなかったらフリマサイトで売って下さって結構です。」
「そんな事しないよっ!」
だって、これは千歳さんが妹の「アイ」ちゃんの為に買った大事な物だ。
「ね。開けて見てもいい?」
「どうぞ。」
「For AI」のタグのついた黄ばんだ袋から、中の包みを取り出す。こっちはまだ綺麗なままだ。真珠色の包装紙を綺麗にはがすと、紺色のベルベッドの箱が出て来た。開けてみる。
中から、シルバーのネックレスが出て来た。チャーム部分は長い棒になっている。そこに藍色の石が嵌っていた。
「雑誌で見て、一目惚れしたそうなんです。その形状がアルファベットの「I」の字みたいだし、嵌ってる石も藍色だから、自分の為のデザインだ、って言ってました。ま、アイツは「アイ」は「アイ」でも「ラブ」の方の「愛」の字だったんですけどね…」
「あ…、「藍」だよっ!」
「え…?」
「自分の「アイ」は、インディゴの「藍」なの!」
「え?そうなんですか…?」
「うん、うん…っ!これ、「アイ」ちゃんの分まで大事にする!」
そう言って、早速つけた。
「どぉ?似合う?」
「えぇ、とてもお似合いです…。アイさんがもらってくれるなら、きっとアイも許してくれる…」
千歳さんが、目を細めてそう言った。その淋しい笑顔を見た時、『あぁ、やっぱり、自分はこの人が大好きだ!幸せにしてあげたい!』と思った。だから、言った。
「あのさ…。前に千歳さんに「好き」って言ったら、「それは恋じゃない」って言われたじゃん?」
「…?言いましたが、それがどうかしました?」
「自分でも今、思った。これは「恋」じゃないって。だってさ…、千歳さん、全然大人じゃなかった…。思い込みで生きてるし、ワサビ食べられないしさぁ…。しかも、子供みたいに大泣きするし…」
「う…っ。三十年も生きて来たのに、駄目な大人ですみません…」
千歳さんが俯いて小さくなった。構わず続けた。
「「恋」ってさ、憧れ成分が多いじゃん?だから、理想と現実が違った時に幻滅して、相手に冷めると思うんだ。だから、往々にして「初恋は実らない」って言うんじゃないかな?今回、情けない千歳さんを沢山見てさ、思ったんだよね~。「なんて、かわいい人なんだろう」って。」
「は…!?三十過ぎの男に対して「可愛い」?私、身長も180ありますが?」
「うんっ!だから、この気持ちは「恋」じゃなくて、「愛」だったの!」
「え…?」
訳が分からないという顔をしてる千歳さんをズビシ!と指差して言った。
「千歳さんに対するこの気持ちは、「恋」じゃなくて、「愛」だから!覚悟しててよ!今は無理でも、きっと「好き」と言わせてみせる!」
「それは…随分と気の長いお話ですね」と千歳さんが言った。
「なんで…?」
「だって私は、自分の教え子に手は出さないと決めています。最低野郎になりたくありませんからね。アイさん、四年も待てるんですか?大学生活の四年間って、恐らく人生で一番楽しい時期ですよ。こんなおっさんにかまってるより、同年代と楽しく恋愛した方がずっと楽しいですよ?」
「うるさ~いっ!千歳さんがいいって、もう決めてるのっ!」
「そうですか…」
「そうですよっ!」
あっかんべーをしてやった。千歳さんが笑った。
「ほんとに…、貴方はいつも元気いっぱいで楽しい人だ。なら、もう一つお願いしてもいですか?」
「何?」
「二千円払うので、アイさんの胸を借りてもいいですか?」
「何?何かまた泣きたい事があったの!?」
慌てて両腕を広げる。
「あと、千円でいいんだよ。」
「いえ…。二千円払います。その代わり、アイさんがそれは、お母様と私だけの専属契約とさせて下さい。」
「い~けど?って言うか!千歳さん以外にはやらないしっ!」
ちょっとムキになって言ったら、ぎゅっと抱きしめられた。
「ありがとう…、藍さん。私…これからも生きて行けそうです。」
千歳さんが静かに泣いてた。『今、何か泣く要素あった?』と思いつつ、千歳さんの頭を撫でた。
「なんです?」
千歳さんが頭をあげた。
「千歳さんが好きになってくれるように、今グルーミングしてるの。」
「…貴方って人は…。馬鹿ですね…、全く…。」
「バカじゃないもん!大学入って、勉強するもん!千歳さんの歴史の講義受けるの、すんごい楽しみにしてるんだよ。」
「…はい。ご期待に添えるよう、頑張ります。」
暖かな、光のどけき春の日だった。
<終わり>
[あとがきにかえて]
まずはここまでお読み下さり、本当にどうもありがとうございました。『こんな無名の奴の長編を最後まで読む人なんているのだろうか?』と思いつつ、置いています。
今作はあえて、優良誤認を狙ってSVO構文のS(主語)を抜いて書く事にこだわってみました。(こちらのプラットフォームでは必須でチェック入れなくてはならない為、ある意味、最初からネタバレしている気もするのですが…。)英文では、主人公の一人称は全て「I」ですが、日本語のそれは実に多岐にわたります。「私」にするか、「僕」にするかで、主人公の性別が大体分かってしまうと言っても過言ではない。なので、あえて抜いた代わりに主人公の名前は「アイ」にしました。
日本語って面白くて、一つの音に対して実に沢山の漢字があります。だから、「アイ」にも沢山の意味があります。それは「I」だったり、「eye」だったり、「愛」だったり、「藍」だったり。そんな日本語がいいな、好きだな、っていつも思って書いてます。
今回、あらすじに書いた「一文字足りないラブロマンス」もそうです。「ラブロマンス(恋物語)」から一文字とったら、「ブロマンス(男同士の極めて親密な関係)」になる。そういう言葉遊びが大好きです。
そして、ここまで読んで下さった貴方様に一つにお願いがございます。もしよろしければ、アイの性別にいつ気付いたかを「●月」の一言でいいので教えて下さるととても嬉しいです。