プロローグ~5章
プロローグ
人間は、三角形のようなものだと思う。成人するまでの親の庇護下で過ごしている時期を底辺ABとする直角三角形のABC。成人する際に曲がる人生の転機が直角ABCで表される。そこからの高さBCは自分の努力次第。三角形ABCは基本一人じゃ寂しいから、ぴたりと合うもう一つの三角形を見付けて四角形になりたい。それが付き合うって事だと思ってる。
たまにいる途中でドロップアウトしてしまう人はいびつな三角形。稀にいる完璧超人は正三角形。三つの辺と内角が等しい美しい形。こういう人はおひとり様で生きていける。ま、大抵の人は直角三角形だよね。
高校生の自分は今、動く点PとしてABという人生の線上を歩いている真っ最中だ。最近このABの長さの定義が20から18に変更になったのが記憶に新しいよね。
1章 四月
そ~んな訳で、今日から高三!新入生の真新しいとりどりの制服が目に眩しい。うちの学校は文武両道、多様性重視を謳ってる。よって、制服の組み合わせがどの学校よりも豊富だ。基本はブレザーにスラックスかプリーツスカート。制服変更の過渡期だったうちの代がこれまでのセーラータイプも選べた最後の学年。夏はブラウスかワイシャツにスラックスかプリーツスカートが基本だが、うちの学年は夏のセーラーもあるし、指定のポロシャツでもいい。後は指定のカーディガン(色がネイビー、グレー、チャコールの三色ある!)で、それらを組み合わせればかなりのコーディネートが出来る。だから昨日入学したばかりの一年生達も早速、思い思いのコーディネートで登校してきていると言う訳だ。
さて。新しいクラスメイトとなった皆の前で自己紹介。
「I`m AI!I love anything cute!(アイです。かわいい物が大好きです!)」
言い終えて席に着いたら皆に「アイちゃん、変わってるね~」って言われた。そうかな?自分ではフツーだと思ってるんだけど、「普通」って思っているより難しい。
今日は新しい教科書と進路調査票が配られて、係決めをして終了。部活に入ってる人達は残り少ない青春を謳歌すべく、素早く散って行った。
「さて、帰ろ。」
「アイちゃん、ばいば~い!」
「ん。バイバイ。」
自分は基本帰宅部。稀に化学部。部員減少で廃部の危機を逃れるための幽霊部員だ。たまに顔を出して活動するけど、基本は直帰。やらなきゃならない事があるからね。自転車に乗って、そのままスーパーへ直行。今日の特売の卵がまだあった。ラッキー!素早くカゴに入れてから、精肉コーナー、野菜コーナーの順に周る。今日は豚挽肉が安かったから、麻婆豆腐をメインにしよう。ほうれん草のおひたしに血液サラサラを目指して玉ねぎとわかめのお味噌汁…。あ、精肉で買うのとそう変わらない値段で目玉商品のお惣菜の唐揚げがあるから、これも買おう。これでタンパク質はバッチリだな…。そんな事を考えながら会計して、帰宅する。
「ただいまー!」
勿論、返事は無い。うちは片親。母はバリキャリのSEだ。朝は早く、帰宅は九時過ぎがデフォルト。帰ってこない時もある。だから、家事全般をやっている。中学からそうやって生きて来た。買い込んだ食料を冷蔵庫にしまい、着替えてからお昼ご飯の焼きそばを作る。キャベツにもやしにウインナー。それと今日は卵が安かったから、上に目玉焼きをトッピング。一人で食べて、片付ける。もうずっとこんな生活。自分で言うのもなんだけど、いいお嫁さんになれるんじゃなかろうか?
「さ~て。」
朝ベランダに干していった洗濯物の乾き具合を見て、もう少し外干ししても大丈夫と判断。雨は降りそうにないから外干ししたまま、昨日作った肉じゃがをタッパーに入れて、自転車に乗る。近所に住む祖父に届けに行くのだ。じぃちゃんは古くておっきな平屋に一人で住んでいる。色んな事を教えてくれた優しかったばぁちゃんは既に鬼籍に入ってる。母はじぃちゃんと一緒に住むのを嫌がる。じぃちゃんはまだ元気だけど高齢で心配だから、高校進学を機にこっちに引っ越してきてからはちょいちょい料理を持って様子を見に行く。
自転車で約五分のじぃちゃんちに行ったら、黒ずくめの知らない人がシャベルで庭を掘り返していた。
「は!?」
誰っ!?じぃちゃんは?どきどきしながら、声を掛けた。少し、震えていたと思う。
「あ!あの…!人んちの庭で何をしてるんですか?」
シャベルを持った人が顔を上げ、立ち上がる。もっさりとうねった黒髪に黒縁眼鏡の棒人間みたいにひょろりとした男の人だった。
「これ…、土器かと思って掘ってました。」
「は…?」
手元には、茶色い欠片。
「でも、違った。残念です。」
残念です、じゃねーよ!ここはじぃちゃんち!「お前誰だよ!」って怒鳴ってやりたかったけど、先日、喫煙を注意したら刃物で刺されたっていうニュースを見たから、ここはひとまず穏便に…。
「ど、どちら様ですか?」
「千歳です。」
「こ、ここは篠宮さんちだと思いますけど?」
「…?そうです。篠宮先生のお宅です。けど、先日から私の家でもある。」
「へ?」
間抜けな声を発した時、奥から声がした。
「お~!アイ!丁度紹介しようと思ってた!千歳君だ!先週から、住み込みで働いてもらう事になった!」
初耳だ!
「あ、先生…。原稿は終わったんですか?」
「おうとも!」
「そうりん…。でしたら、早速スキャンして送っておきます。」
千歳と名乗った棒人間みたいな男の人は、素早く縁側みたいに広い廊下から家の中に入って行った。
「アイ。今日は何を持ってきてくれたんだ?」
「肉じゃが。一晩おいて味しみてると思うから食べて。」
「助かる!今日はまだ朝から何も食べてなかったんでな…」
「ええーっ!ちゃんと食べてよ!心配してるのはそういうとこだよ!ちょっと台所借りるね!」
冷蔵庫を開けて、豆腐と玉子が入っているのを確認。手早く味噌汁と、海苔を巻いた卵焼きも作る。それに冷凍庫にあったご飯をチンしてセット。
「はい、どうぞ!」
「すごいな、アイは!大したもんだ!うん、今日も美味い!」
そう言って、じぃちゃんはもりもり食べる。じぃちゃんは一昨年まで大学教授だった。歴史を教えていたらしい。退任した今は家で原稿を書いたり、講演に出掛けたりして過ごしている。界隈では「先生」と言われているようだが、良く知らない。だって、歴史に興味無い。
「先生。送っておきました。」
千歳と呼ばれた男の人が戻って来た。そして言った。
「お願いしている『史跡探訪』の原稿も早めにお願いします、との事です。あと、今度出る本の監修を先生にお願いしたいとかで、近々原稿を持って挨拶に伺うとの事でした。」
「分かった!食べたらやる!」
じぃちゃんはご飯を掻っ込んで、味噌汁で流し込んだ。
「ごっそさん!美味かった!アイ、ありがとな!」
そう言うと、そそくさと戻って行った。
「いい匂いがすると思ったら…」と千歳さんが言った。
「良かったら、食べます?味噌汁もまだあるんで。」
「助かります。」
じぃちゃんが使った食器をいったん下げて、ぺこりと放物線を描くようなお辞儀をしたその人に、今じぃちゃんに作ったのと同じ物を出す。
「ありがとうございます。いただきます。」
きっちり対称に両手を合わせてお辞儀をしてから黙々と食べ出した。綺麗に食べ終えてまた手を合わせて「ご馳走様でした」と言った。
「えぇと…アイさん?でしたか?大変美味しかったです。ご馳走様でした。」
丁寧に頭を下げるその姿を見て、『あ、なんだ…。この人、おっきいけど全然怖くないや』って思った。だから、さっきから食べてる姿を見ていて気になった事を聞いてみた。
「ね!爪、何塗ってるの?すごく綺麗!」
「え…?爪…ですか?特に何も…」
「嘘!なにもしなくてこんなにツヤツヤしてるワケないじゃん!何?トップコート?どこのネイルケア?教えてよ!」
「いえ…ホントに…」と困ったように言って、顔の前に右手を持ってきた時に気付いたようだ。
「あ!もしかして…。これかもしれません!私、無意識に爪を擦っているので…」
「…なぁんだ!何使ってるか教えて欲しかったのに…!」
「お役に立てず、申し訳ありません…。」
「いいよいいよ。逆に考えれば、トップコートを使わなくても、そんなにツヤツヤになるってことだもんね!んで…、なんで左手の小指の爪だけ長くしてんの?」
「ああ…。これは本の頁をめくる際に便利なので。」
「へぇー…」
それは勿論アナログなんだろうなぁ…。歴史やってる奴なんて、じぃちゃんを筆頭に皆、カビ臭い感じだし…。
「じゃ、片付けるから…」
そう言って、茶碗に伸ばした手と千歳さんの手が触れた。
「あ…!すみません。でも、食器を洗う位は自分で出来ますので、大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます。」
そう言って立ち上がる。この古い家のシンクは千歳さんには低すぎるようで、身体を縮こめて洗う後ろ姿が何だか滑稽だった。それを横目で見て、大きな食器戸棚から花柄模様のコップを取り出す。今日、ここに来たのはこれも目的の一つ。冷蔵庫から冷水筒を取り出して、コップに麦茶を注いだ。それから、テーブルの上に置き、いろんな角度からスマホで撮る。
「…何をしているのですか?」
気付いたら、食器洗いを終えた千歳さんが横にいた。
「これ?あとでネットにあげるんだ♪今、昭和レトロが流行ってるからね。こういう昔の食器が「映える!」って人気なんだよ!この家にはばぁちゃんが使ってたそういうのが沢山あるから、丁度いいんだ~♪」
ちょっと明度をいじって加工する。
「こんな感じかな?」
それをSNSにアップした。あっと言う間に「いいじゃん」がついた。
「ふふっ、これで良し♪」
「へー…。すごいですね。流石デジタルネイティブ…」と千歳さんが言った。
「まぁね~♪って言うか、これ位フツーでしょ?千歳さんいくつなの?」
「とうねんとって二十歳です。」
「えっ!?二十歳にしては老けてない?」
「うっ…!すみません…。ギャグが通じなかったみたいで…。本当は三十です。」
「え?」
「えぇと…。その…当年と十年を掛けてたんですけど…」
しどろもどろ消え入りそうな声で言う。
「ああ~…。」
ようやく分かった。十年とったら二十歳って言いたかったのか…。そして、哀れになった。通じなかったギャグを説明する事程、哀れな事は無い。千歳さんはおっさんなのだ。
「どんまい!元気だしてよ。」
そう言って、花柄模様のコップから麦茶を飲んだ。
「アイさんは…眩しい人ですね。」
突然真顔で言われたせいで、噴き出し、むせた。
「何っ!?急に!?」
「いえ…。元気いっぱいでかわいくて、眩しいなぁ…と。ご飯も美味しかったですし、篠宮先生はいいお孫さんをお持ちだ。」
「あ、ありがと…。」
何それ!「かわいくて」って照れるじゃん!でも、嬉しくなった。だから、おっさんだけど、もっと話してみてもいいかな、って思ったんだ。
「ねぇ、土器って胸キュン?」
「え?」
「土器が好きなの?さっき、庭掘ってた時、土器かもしれないと思って掘ってたんでしょ?」
「あぁ…」と言ってから、笑って頷いた。
「好きですよ。」
「どこが好きなの?」
「どこ…と言われても困りますが、純粋に昔の人が使っていたんだという所に先ずロマンを感じますし、少しずつ進化していくのがいいですね。丸底だったり、尖底だったり、時代によって変化するのを見るのは楽しいです。」
「そんなもん?」
「えぇ。例えば、今、アイさんが使っているそのコップ。昭和レトロと言いましたよね?それが正に歴史じゃないですか?歴史って毎日の生活の積み重ねなんですよ。」
「良く分かんない。コップはコップだし…。」
「えぇ。土器も土器。ただ使えればいいだけの物なのに、時代が進むと装飾がつく。祭事用のゴテゴテした物もありますが、日常使いの物にも縄目などの装飾をつける事によって、日々の生活に彩りを加えていたのかと思うと…遠い昔の人達に対してなんかこう…親近感が湧きませんか?」
「分かる!無地でもカッティングが綺麗な物の方が映えるし!」
「そういう事です。」
黒縁眼鏡の奥の目が細くなった。あぁ、こういう風に笑う人なんだ、って思った。
「そっかー。今まで、歴史なんて古臭くて暗記ばっかでつまんない科目って思ってたけど、そういう話聞くとちょっと興味湧くね。」
「はい…。アイさんにとっては古臭い学問かもしれませんが、考古学なんかはある意味最先端な学問なのですよ。」
「??」
ちょっと何言ってるか分かんない。だって、考古学ってエジプトのミイラとか、古い物を扱ってる学問でしょ?きょとんとしてたら、庭を指差した。
「例えば。私がさっき庭から掘り出したのは割れた植木鉢の欠片で、残念ながら土器ではありませんでした。では実際、本物の土器が出土したとして、どうしてそれの年代が分かると思いますか?」
「…分かんない。何?」
「炭素十四法という物がありまして、簡単に言うとその物質の中にある炭素の濃度を測る事によって年代を特定出来るのです。」
「へぇーっ!」
初耳だ。知らなかった。これまでの歴史の授業でそんなの聞いた事が無い。
「面白いね!」
そう言ったら、はにかむように笑った。年上だけど笑顔がかわいいと思った。
「はい、ありがとうございます。」
その笑顔を気に入ったから、また来ようって思った。
「ね。次来た時もなんかお話してくれる?」
「いいですけど…。私は気の利いた話なんて一つも出来ませんよ?」
「今みたいなのでいーよ。面白かったし!そうだ!次来る時、じぃちゃんに作るついでに千歳さんのご飯も一緒に作ってあげるよ。食べられない物ってある?」
「…ありませんね。何でも食べます。何でも食べるので、昔、落ちてた木の枝を食べて周りから引かれました。」
「ええっ!?落ちてた木の枝!?」
「ええ…。あれは…小学校でアスレチックの順番待ちをしていた時…。たまたま視界に入った木の枝が何だか美味しそうで…。つい拾って、皮を剥いで齧ってみてしまいました。」
それはリアル小枝…。チョコは美味しいけど、実物ってどうなの…?
「…美味しかった?」
「…いえ。ちょっと苦くて、美味しくはなかったですね…。あ!アイさんは真似しちゃいけませんよ!綺麗な花には毒があると言われるように、植物には毒を持つ物が多くあります。それを知らずに口にすると大変な事になります。例えば、夾竹桃。戦時下に折った枝を箸代わりに利用して、中毒者が出ています。」
「へぇ~…。」
そんな事が…。でも、落ちてる枝を食べようと思う過去も未来もきっと無いから安心して欲しい。
千歳さんがハッとした。
「あ。すみません…。話し過ぎてしまいましたね。アイさんの貴重なお時間をすみませんでした。」
そう言うと、お辞儀をして庭に面した廊下奥へと歩いて行った。そこは…廊下と言うには語弊がある。じぃちゃんの資料や史料がうず高く積まれている場所だ。千歳さんはそこに行くと、今どきの本と昔の本を分け始めた。千歳さんともっと話してみたかったので、手伝う事にした。
「何?新しいのと古いのを分けるの?」
「はい…。篠宮先生、そろそろ終活の事を考えた時に『これらをどげんかせんといかん』と思ったそうで…。それの手伝い込みで、ここに住まわせてもらう事になったのです。」
「へー…」
知らなかった…。じぃちゃん、終活とか考えてたんだ…。
「そうしましたら…」と顎に右手をあてた千歳さんが言った。そう言いながらも無意識に人差し指で親指の爪を擦っている。
「アイさんは、篠宮先生の著書を向こうに積んでいっていただけますか?この中には献本がかなりあるので。それらが無くなるだけでも、作業が捗ります。」
「ラジャ!」
専門的な事は分からないけど、じぃちゃんの名前が書かれた本を選ぶだけなら簡単だ。積み上げられた中から、どんどん抜き出して、向こう側に積んでいく。同じ本が五冊もある。似たようなタイトルで違う形状の本も沢山ある。甘く見ていたが、結構な大仕事だった。千歳さんは…と見てみると古めかしい薄い本を読んでた。
「こら~っ!人に作業させて、自分は読書してんじゃん!」
ビクッとした千歳さんがこっちを向いた。
「すみません…。ですが…、こういった古文書関係は中を検分しておおよその年代に分けてから分類したいので…」
「ほんとにぃ~?」
言いながら中を覗いた。びっしりとみみずが這ったような文字(?)で埋め尽くされていた。
「うっ…!無理ぃ…。頭痛くなりそー…」
「そうですか?分かると面白いのですが…。これら史料はあるだけでは駄目なのです。中を検分し、どの時代の何についての物かを特定して初めて真価を発揮するのです。この国にはまだまだそうやって未分類の史料が沢山ある。それらを解読して、まだ誰も知らない歴史を知りたいものですね…。」
楽しそうだ。
「誰も知らない歴史なんてある?教科書に全部書いてあるじゃん。」
「沢山ありますよ…。教科書に載る歴史というものは、勝者から見た歴史ですから。今の権力者に都合よく書かれているのです。そうですね…。分かりやすい例を挙げるとするなら、コロンブスの「アメリカ大陸の発見」ですかね?コロンブスが見つけるずっと前から、アメリカ大陸はあって先住民の方々が住んでいたにも関わらず、そんな風な言われ方をするのは、どうでしょう?」
「…言われて見れば、確かに~!その人達は昔からそこにいたんだもんね!」
「そういう事です。」
にこりと笑った。千歳さんは穏やかに話す人だ。騒々しい同級生達とは違う。あぁ、こういう人が「大人」なんだなぁ…って思ったよ。
*****
その日は珍しく、母の帰りが早かった。
「アイムホーム!お腹空いた~!何かある?」
「おかえり。麻婆豆腐にほうれん草のおひたし、玉ねぎとわかめの味噌汁に唐揚げが少々。林檎もあるけど剥く?」
「食べる食べる~♪いっただきま~す!」
スーツを脱いで、シャワーを浴びて出て来た母に温め直した食事を出す。母は「おいしー」と言いながら、テレビをつける。ニュース番組を見ながら食べる母に、林檎の皮を剥きながら話しかけた。
「じぃちゃんちに新しく住み始めた人知ってる?」
「あ~。そんな話聞いたわね…。何?会ったの?どんな人だった?」
「三十歳の背の高い、穏やかな人だった。じぃちゃんの本の片付けもするんだって?」
「みたいね~。あの家の何が大事で何がゴミか私には分からないから、助かるわ。で、どぉ?悪事働きそうな奴なら追い出した方がいいって言おうと思ってるんだけど…」
「とてもそんな事するような人に見えなかったよ。歴史好きな穏やかな人だった。」
「じゃー、お爺ちゃんと同類ね。安心だわ。」
「はい、林檎。」
「ありがと。」
シャクシャクと食べて、さっと立ち上がった。
「ご馳走様。じゃ、寝る前に持ち帰った仕事片付けたいから、学校からのプリントとかあったら出しておいて。生活費はこの封筒に入れといたからヨロシクね。足りなかったら言って。」
「は~い…」
早々にドアの向こうに消えた母の背を見送り、母の使った食器を洗う。我が家は絶対的に会話が足りない。でも、今日は千歳さんとたくさんお喋りしたから満足だった。
自室に戻ってから、スマホでSNSをチェックする。昼過ぎに上げたお花のコップの写真に対するハートの数が増えていた。『かわヨ♡』『これ復刻じゃないやつ!ホントの昭和レトロだ~!』とかリプもついてる。スライドして見て終わり。リプにコメントは返さない。ただ、かわいい物の写真あげるだけのアカウント。それでいい。
2章 五月
文系理系に分かれて始まった高三の授業も模擬試験が終わって、進路別のガイダンスが行われるようになると、あぁ、自分は受験生になったんだなぁ~って実感する。将来就きたい職業かぁ…。高校入試の時にも聞かれたけど、いまだに良く分かんないなぁ…。だって、大人の皆はなりたいと思ってサラリーマンやってるの?違うよね?日々生活する為に必要なお金を稼ぐ為に自分に出来そうな仕事を消去法で見付けてやってるだけだよね?だって、いくら好きなゲームがあったって、希望した人全員がそのゲーム会社に入れる訳じゃないんだし。
ゴールデンウィーク。そんな話をじぃちゃんちで千歳さんにした。
「まぁ、そうですね…。」
積み上げられた本を整理しながら千歳さんが言う。
「千歳さんは?なんで、じぃちゃんの手伝いしてんの?」
「篠宮先生のお手伝いが私の「業」という訳ではないのですが…」
「?」
「えぇとですね…。私、普段は非常勤講師として大学で働いているのです。講義が無い日や休みの日に家賃代わりに先生の家の片付け等をしている、といった感じでしょうか。」
「えっ!?じゃあ、タダ働きなの?」
「そんな…人聞きの悪い…。家賃代わりなので、十分対価はいただいておりますよ。」
「えーっ!でもぉ…、こんなに頑張ってもお金一円ももらってないんでしょ?」
四月に見た時よりかなりスッキリした廊下を見ながら言う。自分だったら、お断りだ。
「お金よりすごいモノを日々いただいておりますよ。」
「例えば?」
「篠宮先生のお話を毎日聞けるだけでも十分です。執筆原稿も誰より早く読めますし。」
「うそぉ~!」
「嘘ではありません。アイさんにとっての篠宮先生はただの祖父かもしれませんが、私にとっては恩人であり、憧れの先生ですから。」
「じぃちゃんが?」
「はい。私が読んだ歴史の本の殆どに篠宮先生のお名前がありました。先生は日本史の大家なのですよ!」
身内のこっちがビックリする位、誇らしげに千歳さんが言った。
「ふぅ~ん…。そうなんだぁ…。」
じぃちゃんの仕事内容なんか知らない。でも、こんな風に誰かに尊敬して貰えてるのはすごい。
「で。最初の話に戻るけど、なんで千歳さんは今の仕事してるの?」
「ん~…。成り行きで、ですかね?」
「は?」
「えぇ~と…。その…歴史を勉強したくて史学科に入り、そのまま院に進んで教授の手伝いをしていたら今に至る、という感じです。」
「…成程…。」
確かにそれは成り行き以外の何物でもない。
「まぁ、潰しがきかないってヤツです。私に普通の会社勤めは無理ですね…。」
そう言って、自嘲した。
「でも、いーじゃん!ちゃんと自分が生活するだけのお金は稼げてるんでしょ?」
「まぁ…、なんとか…。」
「なら、いーじゃん!あ~ぁ、将来かぁ…。どうしようかなぁ~!!」
大きく伸びをして、片付けた事により少し広くなった縁側を兼ねた廊下にころんと後ろ向きに倒れ込む。薄汚れた天井が目に入った。
「どうもこうも…。アイさんはまだまだ若いし、なりたいものになれるでしょう?」
ふんわり笑って、簡単に言ってくる。
「例えば?」
「そうですね…。お料理が上手なので飲食店を開くのはどうでしょう?私、通います。その可愛らしい容姿を活かしてモデルなんかも出来るんじゃないですか?って…すみませんっ!これはもしかしたらセクハラにあたりますか?」
「いや…、大丈夫。続けて。」
「では…。容姿を活かすのならカリスマ店員?とかいうのも有りですね。芸能界のスカウトが来てしまうかもしれませんが。もしくは、会社員。お母様を見習ってバリバリ働きますか?」
「あ~…。あの人はなぁ…」
昨日は帰って来なかった母を思う。もしかして恋人が出来て、年頃の子供のいる家に帰ってこられないような事をしてるんじゃ…と思った時期もあったが、あの人に限ってそれはないと知っている。父亡き後のあの人は0と1とを愛してる。それをひたすら組み合わせるマシン語から生まれたアセンブラがかわいくて愛おしいんだそうだ。昔、「再婚しないの?」と聞いた時に力説された。
「もうアイがいるからオトコはいらないの!オトコに費やす時間があったら、マシン語を勉強するわ!Cだけじゃダメッ!JavaもCOBOLもどんどん覚えていかないと取り残されちゃう!時代の流れは速いのよっ!」
そう言って、バシバシキーボードを叩いてた。うん、頼りになる。うちの母は父も兼ねるんだ。いや、どっちかって言うと父成分の方が高いな…。だから、自分が料理とかをするようになったんだっけ。
「まぁ…。まだ時間はありますし、ゆっくり納得がいくまで考えればいいのではないですか?近代国家ならではの贅沢な悩みですからね。」
「それっ!」
「はいっ!?」
「たまに耳にするけど、近代国家って何?」
「えーっと…。今の社会みたいな事ですけど、歴史の授業で習いませんでしたか?」
「もしかしたらやってるかもだけど、覚えてな~い!歴史の授業は去年までだもん。文系で日本史選択した人は今年続きをやってるみたいだけど、とってないし…」
「そうでしたか…。去年はどこまでやりました?」
「明治維新?ゲーム好きな子達が「もっと詳しくやって!」って騒いでたよ。」
「あぁ…。まさに直前で終わってしまったのですね。江戸時代まであった士農工商といった封建社会ではなくなった国家、という意味です。定義を述べるなら、平等で基本的人権の保障、法治国家で中央集権制などですかね。」
黒縁眼鏡をくいっと押し上げて言う。
「もっと分かりやすく言って。」
「えぇーっと…。昔は、生まれた家の仕事をやるしか選択肢がなかったけど、今は好きな仕事を出来る世の中になった、という事です。」
「すごいじゃん!」
「はい、すごいんです!幕末という歴史の転換期ってすごいエネルギーを感じますよね。だから、ゲームやアニメ等の題材に良く取り上げられると思うんです。」
「千歳さんって…ゲームとかするの?」
ちょっとビックリして聞いてしまった。古い本や黴臭い物に囲まれてるイメージしか無かったから意外だ。
「はい。こう見えて、一騎当千ゲームを良くしました。あと以前はゲームセンターにある三国志のカードゲームを良くしてましたね。自分の持ってる漫画のキャラのカードが出ると嬉しかったなぁ…。」
ほわん、と花を飛ばしそうな顔で語り出した。へぇ~、そうなんだぁ~。いい大人の千歳さんでも、ゲームしたり漫画読んだりとかするんだぁ…。ちょっと親近感。
「なんか…意外…」
口に出してた。
「えっ!?すみません…。いい歳してゲームしたりして…。」
「いや、謝んなくていーけど…。歴史が好きって言うから、昔の物にしか興味ないのかと思ってた…」
「そんなワケないですよ。」
相好を崩して千歳さんは続けた。
「史学科に来るようなヤツなんてね、大抵がオタクです。オタクはゲームも大好きですから!ゼミの皆で集まってよく一緒にゲーセンも行きましたよ。でも、やるのがリズムゲームとかじゃなくて、三国志のカードゲームってだけです。陰キャ集団ですね。」
そう言って苦笑した。
「だから…、アイさんみたいな陽の者には憧れますね。」
「え?」
「貴方はいつもニコニコ明るくて、青春を謳歌している感じがします。「ザ・女子高生」って感じでたまに話すと、私も楽しい気分になってしまう。ホント、篠宮先生はいいお孫さんをお持ちだ。」
「あ、ありがと…。」
そうかー。千歳さんからはそんな風に見えてるんだ…。それは自分が「こう見せたい」という理想像であったから嬉しいけど、少し胸がちくんと痛んだ。
「よっし!じゃあ、褒めてもらったお礼に今日も片付け手伝ってあげるよ!」
「え?それは非常に助かりますが…。折角の連休ですし、アイさんは御学友と出掛けしたりしないのですか?」
「しな~い!学校とプライベートは完全に切り離したい派です!」
きっぱり言った事は本当だけど、嘘でもある。休みの日まで色々言われたくないから学校の友達には会いたくない。だけど、本当に仲の良い人となら、四六時中一緒にいたい。そういう意味で、千歳さんのいるじぃちゃんちは居心地が良い。
「そうですか…。そうしましたら、そっちに積んである先生の本を段ボールに入れていただけますか?」
「分かったー。これ、どうするの?」
「献本分なので、ゼミの希望者に配る事にしました。これでかなりスッキリする筈です。」
「なるほど…。」
新書版やハードカバーなどを揃えて段ボールに詰めていく。なかなかに量が多い。最終的には十箱になった。
「…つっかれたー!!」
そう言ったら、「御疲れ様です。お茶っこさ飲みましょう」と言って、千歳さんが消えた。暫くしてから戻って来た。お盆にはいくつかの湯呑とどら焼きが載ってた。
「はい、どうぞ。」
寿司屋でもらったと思われる大きな湯呑とどら焼きが目の前に差し出される。
「わぁ、ありがと!って、熱いお茶か~い!」
「すみません…。では、今、冷たい飲み物を…。」
「あー、いいよいいよ!ちょっとツッコんでみただけだから、気にしないで。用意してもらった物は美味しく頂きます。」
そう言ってどら焼きにかぶりついたら、あんこだと思ってた中身がクリームだった。
「何これ!?うまっ!」
「そうですか?お口にあったのなら良かったです。」
甘い口の中をリセットしようと大きな湯呑のお茶を飲んだ。
「!…美味しい!」
熱いとばかり思っていた湯呑のお茶は程よくぬるく、こっくりとした丸みがあった。箱詰め作業で喉が渇いていたのもあって、ごくごく飲んでしまった。
「ふふっ…。いい飲みっぷりですね。では、次はこちらの湯呑をどうぞ。」
さっきより小さい花柄の湯呑を渡される。今飲んだのより少しだけ熱かった。またどら焼きを口にした。
「これ、どこの?」
「宮城にあるお店の生どら焼きです。先日、叔母が送ってくれました。」
「へぇ~。生どら焼きって初めて食べた。」
「そうなんですか?」
「うん。自分だとマカロンとかそういう見た目のかわいいのばっかり買っちゃうから…」
「あぁ…。」
そんな会話をしながら、もくもく食べた。二杯目のお茶は少し熱かったから、ふーっと吹いて飲んだ。早々にどら焼きを食べ終わった千歳さんは立ち上がって、またどこかに消えた。トイレにでも行ったかな?と思ってたら、またお盆に湯呑を入れて持って来た。
「こちらが最後です。」
そう言って出された湯呑は縦型で今までで一番小さな湯呑だった。湯気が立ってた。
「も~。なんで、三杯も?こんなに飲んだら、お腹タポタポになっちゃうよ!」
笑いながら言ったら、ふふっと笑って返された。
「ちょっと三成な気分だったものですから。」
「??」
「三献茶のエピソードをご存知ではありませんか?」
「知らな~い!」
「そうですか…。では、お茶請けとして聞いて下さい。その昔、鷹狩り帰りに寺に寄った豊臣秀吉のお話です。」
「秀吉なら知ってる!草履をあっためた人でしょ!」
「そうです。良くご存知で。」
「うん!パロディCMで知った!」
「成程…。で、その秀吉は喉が渇いていたので、茶を所望した訳です。そこの小姓が大きな湯呑で持って来たお茶はぬるくて飲みやすく、秀吉はあっと言う間に飲んでしまいました。そして、おかわりを所望します。次に小姓が持ってきた湯呑は、今度はやや小さく少し熱くなっていました。それも飲み干した秀吉はまたおかわりを所望します。今度持って来られた湯呑は更に小さく茶はアツアツの物でした。」
「同じだ~!」
手にした小さな縦型の湯呑をふぅふぅ息で冷ましながら言った。それから、飲んだ。こっくりと濃いお茶の味がした。
「どうです?一杯目は喉の渇きを潤す為のもの。それから、徐々に量を減らし、熱くする事で茶葉の味が良く分かったかと思いますが…?」
「うん!緑茶って今まで殆ど飲まなかったけど、おいしーんだね♪」
そう言ったら、千歳さんが微笑んだ。
「はい。これは石田三成の機転の良さを語るエピソードと言われていますが、公式なものではないので、本当かどうかは分かりません。」
「えっ!?そうなの?」
「ええ…。でも、そんな話があったと思わせるほどの機転を三成が持っていたと人々は思っていたのだ、という事は分かります。そういう民衆の心の動きが分かるので、逸話集も捨てた物じゃありませんよ。」
そう言って、ずずっとお茶をすする千歳さんはおじいちゃんみたいだった。良く言えば、落ち着いてる。悪く言えば…、おっさん…。そんな心を読んだみたいに千歳さんが言った。
「なんです?説教臭い年寄りとでも思いましたか?」
「そ…、そんな事無いよ…」
言い淀んでしまったせいで、千歳さんは溜め息をついた。
「はぁ…。いいんです…。どうせ、ガラスの十代のアイさんからしたら、私はおっさんなので…。そもそも、小学校のあだ名からして「おっさん」でしたから…。」
「そうなのっ!?」
「ええ…。当時から歴史が好きで、土器が無いか掘り返したり、戦国武将の話等を良くしていたら、「じじぃかよ!」ってツッコまれまして…。たまたまそこに用務員のおじいさんがいて、クラスメイトに「わしの方がじじぃだが?」と言ってくれたので「じゃ、お前はおっさんな!」となった訳です…。」
「マジでぇ~!」
アハハと笑った。千歳さんは続けた。
「でも、中学では昇格しました。」
「今度はなんて、呼ばれたの?」
「若年寄です。」
「はい?」
「あれ?歴史の授業で出てきませんでしたか?江戸幕府の役職名の一つですよ。老中に継ぐ重職で旗本担当なのですが…。文字から受ける印象そのまま、「若いのに老けてる」って意味の方で呼ばれてたんですけどね…」
「わっかる~!」
笑ってしまった。千歳さんと話すのは楽しい。変な気を遣う事も遣われる事も無く、素のままの自分でいられて、楽なんだよね。
母がずっと休日出勤だったのもあって、ゴールデンウィークはずっとじぃちゃんちにいた。夜はホットプレートを出して焼肉したり、お好み焼きと焼きそばから、もんじゃ焼きのコンボをキメたりして楽しかった。じぃちゃんがモリモリ食べてる傍らで、お皿に載ったたこ焼きを見て「九曜紋だ。伊達ですね」とか千歳さんが言っていた。何のこっちゃい?
「自転車で五分だから大丈夫だよ」って言ったけど「夜道は危ないので」って、千歳さんが毎回マンションまで送ってくれた。千歳さんが歩きだったから、こっちも自転車を押しながら歩いたせいで家に着くまで倍以上の時間がかかったけど、「平安時代の美人はおかめ顔」「伊達政宗の血液型はB型」「「I LOVE YOU」を夏目漱石は「月が綺麗」と訳した」とか、歴史のちょっとした話をしてくれて楽しかったな。
3章 六月
六月は梅雨。雨ばっかりで嫌になる。小雨ならカッパを着て自転車で行っちゃうけど、最近の梅雨はスコールみたいに激しいから、仕方なく電車に乗る。混んでる電車は大嫌い。ただでさえぎゅうぎゅうで苦しいのに、昔、Gパンを履いていたのに痴漢にあって以降、もっと嫌いになった。だから、なるべく乗りたくない。
「やだな…」
駅に着いて傘を畳みながら思わず零れた一言に「何がです?」と声があった。目線を上げたそこには、スーツ姿の千歳さんがいた。
「えっ!?」
「おはようございます。こんな所で会うなんて奇遇ですね。私、今日は講義がある日なので…。」
ちょっとはにかんで笑う。いつも黒のチノパンに黒のパーカーとかのラフな格好しか見てなかったから、グレーのスーツ姿は新鮮だ。
「この時間なの?」
「たまたまです。」
「どっち行き?上り?下り?」
「上りですから、途中までご一緒してもいいですか?」
「いいよ!」
食い気味に答えた。心強かった。安心して電車に乗れた。今日も混んでたけど、優先席の連結近くに立つ自分のすぐ隣に背の高い千歳さんがいてくれたおかげで、そこまで押し潰されなかった。四駅なんてすぐだった。降りる時、千歳さんが声掛けしてくれたから、スムーズに降りられた。ホームに降りて振り向いたら千歳さんが小さく手を振っていたから、振り返した。でも、すぐ発車して見えなくなった。その時、後ろから声がした。
「アイちゃん!おっはよー!今日、電車なの?」
「うん。雨すごいから!」
「雨やだよね~!」
「ホントにね…」
でも。そう言いながらも、今日の雨は悪くなかったよ、って思ってる自分がいた。
*****
模擬試験がまたあって、推薦入学の説明会が開かれたりなんかして、周りは皆、志望校を絞ってきてるんだな~、ってちょっと焦る。自分は国公立はハナから無理だと思っているので、偏差値的に入れそうな通学圏内にある私大の経済学部に行こう、って事しか考えてないからなぁ…。しかも、学部決めたの母だし。「特にやりたい事無いからな~」って言ったら、「なら、経済学部にしなさいよ。日本はお金の教育がなってないから、学んでおいて損はない!」って強く言われて押し切られた。
経済学部はなんというか…、ビミョーな学部だ。二年で提出する三年時のクラスを文系にするか理系にするか、決める時に悩んだ。文系と理系にきっちり分けられないのが経済学部なんだよね~。どっちかっていうと文系寄り。でも、数学も必要。文系科目は自分で一通り出来るけど、数学はどうかな?と思って、悩んだ末に理系コースを選んだワケなんだけど…、今現在ちょっと後悔してる。理科選択でとった生物は植物とかについてだから楽しいけど、化学必須がネックだった。化学式苦手…。お前化学部だろうって?そうだけど~!頼まれて入った幽霊部員だもん!カルメ焼き作ったり、牛乳パックで和紙作る時しか顔出ししてないもん!ううう…。そんな訳で、悩めるお年頃。
生徒会の選挙があったり、芸術鑑賞会があったり、球技祭があったりで今月は学校行事が忙しい。去年はオーケストラが来ての演奏会だったけど、今年の芸術鑑賞は能だって…。つまんなさそー…。球技祭の出場種目は、去年同様男女混合のソフトにしといた。うちの学校は文武両道を謳っているそこそこの進学校だ。バスケ部とバレー部が強い。よって、球技祭のその二種目はガチバトルだ。部員以外は避ける。サッカーは走り回って疲れるから、ゆる~く球技祭が終わるのを待つ勢と運動音痴は皆、ソフトボールを選ぶ。緩い種目なので、ピッチャーとキャッチャー以外は球技祭当日にじゃんけんでポジション決めをする。ベンチの選手はだべってるだけだ。
カキーン!という音が響く。
「おー!ホームラン!」
「すごー!」
「いいぞ~!」
そんな声の中でジャージを着て蹲る。今日はなんだか、朝からお腹が痛い…。出来ればずっとベンチでお願いしたい。そう思ってぼーっとしてたら声がした。
「アイちゃん、どこか具合悪いの?」
クラス委員長の水野さんだった。
「…うん…」
「何?生理?俺が当分来ないように止めてやろ~か?」
「キモッ!」
「なんでよ?俺、アイなら抱けるわ!」
「オレも~!」
「キャーッ!」
「うわ~!サイテー!」
ギャハハと騒ぐクラスメイト達のノリについていけない。言い返す気力もなく黙ってた。
「ちょっと…!そういうの、やめなさいよ!セクハラよ!」
黙ってる自分に代わって、水野さんが注意する。
「お~、こわっ!」
「水野~、お前、もうちょっと可愛げあった方がいいぞ。」
「うるさい!可愛げなんて無くて結構!」
バッサリ一蹴すると、こっちに向かって手を出した。
「立てる?一緒に保健室行こっ。」
「うん…。ありがと。」
「じゃ~。あたし達保健室に行くけど、二年相手に負けるとかみっともない結果にしないでよね!各種目一位には参加賞のジュースに加え、購買のアップルパイが付くんだから!」
「りょうか~い!」
「いいんちょ~、キビシー!」
「まぁまぁ、俺ら腐っても三年ですから~!」
「まっかせといて~!」
そんな声を背後に聞きながら、水野さんと保健室に向かった。
「せんせー!…いないの?急患かな?」
水野さんはそう言うと、手慣れた感じで保健室ノートに名前を書いた。
「はい、このベッドで寝てなよ。」
そう言って、布団をめくってから「一応、熱あるか測った方がいいよね」と言って体温計を持って来た。
「はい。」
「ありがと。」
ピーと鳴ってデジタルな数字が浮かぶ。七度一分だった。
「ちょっと熱あるね。しんどいようなら帰る?」
まだ十時半だ。帰っても、どうせ家で一人だ。
「ううん…。学校にいる。」
「じゃあ、とりあえずここで横になりなよ。あたしがついててあげる。」
「いいの…?」
「球技苦手だから、ちょうどいいわ。委員長特権よ♪」
そう言って悪戯っ子のように笑うリケジョの水野さんは長い髪を後ろの低い位置で一つに結んでいる眼鏡女子だ。どっちかっていうと地味。でも、ツケマやリップを塗ってる女子達よりはるかに綺麗な顔立ちをしている。頭もいい。ホントかどうかは知らないが全国模試で一位をとった事があるらしい。
窓ガラス越しに歓声が聞こえる。
「皆、頑張ってるわね。」
他人事のように水野さんが言う。
「来年の今頃、あたし達は何をしてるのかしらね…」
ベッド脇に座って、頬杖をついて窓の外を眺める水野さんが呟いた。
「大学生?」
「無事になれてたらね。」
「水野さんなら余裕でしょ?」
「先の事なんて、誰にも分からないわ…。」
フッと一瞬だけ昏い目をしてから、水野さんがこっちに向き直って言った。
「アイちゃんは…いーなぁ…。」
「何が?」
「可愛くて。自分のやりたいようにやってるトコがうらやましい…。」
「そうかな?」
「そうだよ。あたしは可愛げが無いし、そういう強さもない…」
小さく溜め息。さっき言われた事を気にしているのかな?
「ねぇ、アイちゃん。」
「なに?」
「好きな人っている?」
「え?」
「あ…。言いたくないなら答えなくていいのよ。あたしはいるの。でも、たまに分からなくなるの。これが本当に「好き」って事って?ただ、シチュエーションに酔ってるだけじゃないか、って…。はぁ…。お互いの好きが可視化出来たらいいのに…。目に見えない不確定なものは苦手だわ。あたしが相手を1好きになったら、向こうは2好きになる比例の法則とかが欲しいの。…違うか。もっとこう…分かりやすい「好き」の形を求めているのかもしれないわね…」
これまで聞いてきたコイバナとは違う言葉の羅列だった。
「「ピの事を考えるとキュンとする!」とかじゃないんだね…」
「ぴ?」
「彼氏の事。」
「…今はそう言うの?」
「言う人もいる。」
「そう…。なんか…、同年代なのに、違う時代を生きてる感覚だわ。」
「あはは…。水野さん、委員長だし、真面目だもんね。」
お腹にお布団がかかってあったかくなったからか、軽口がきけるようになった。
「真面目?あたしが?」
「うん…。うち、そんなに校則厳しく無いのに、髪の毛だっていつもきっちり一つにまとめてるしさ。たまには、カチューシャして下ろしたり、お団子にしてもいいのに。」
「あぁ…。中学の頃からこれで慣れてしまっているからいいの。それにカチューシャなんて持ってないし。」
「そうなの?」
「えぇ。うちは「学校は勉強しに行く所だから、オシャレなんてしなくていい」っていう親だから。カーディガンも希望を聞かれる前にネイビーを用意されてたわ…」
「ええっ!?そうなの?うちの学校の売りは選べる制服の種類の多さなのにぃ~!」
「そんなの、親には関係ないのよ。色んな種類があるって事は、それだけお金がかかるって事だし。必要最低限に抑える為には基本だけで充分。」
「そ、そうなんだぁ~…」
それを聞いて、うちの母に感謝した。「学校に行くモチベを上げるためにも、服は大事よね!どうせ、三年間は制服メインで過ごすんだから、普段着も兼ねてると思えば安いものよ!」とセーラーの上着をメインにカーディガンも三色全部買ってくれた。
「あ~ぁ。あたし、ホントはチャコールが良かったのにな~。」
「あ!じゃぁ、チャコールのカーディガンあげるよ!」
「え?」
「もう三年であんまり着ないしさ。最後の一年位、好きな色着て過ごしなよ!」
「でも…。」
「チャコールあげてもネイビーもグレーもあるから困らないし!あ!家に持って帰って親バレするのが嫌なら、学校にいる間だけ貸すよ?」
「…ホントに?」
「うん!」
「…ありがとう…。」
水野さんが嬉しそうに笑った。背後から日差しを浴びる水野さんの髪の毛は煌めいて茶色く光る。あぁ、確かにチャコールの方が水野さんには似合うな、って思った。
*****
翌朝、紙袋に入れたカーディガンを水野さんに渡した。
「はい。クリーニングしてあるからね。」
「ありがとう。今日、肌寒いから早速着るわ。どう?」
ブラウスにチャコールのカーディガンを羽織った水野さんが聞いてくる。
「髪の毛が茶色っぽいから、似合うよ」って言ったら喜んだ。だから、「はい、これ」ってオマケもあげた。
「何これ?」
包みを受け取った水野さんが聞く。
「開けてみて。」
「あ…!かわいい…」
「うん!水野さんに似合うと思ってプレゼント!早速つけてみてよ。」
中には細いカチューシャとヘアクリップとシュシュをいれといた。
「でも…。悪いわ…。」
そう言って押し返してくる水野さんに言った。
「それ、かわいいと思って買ったんだけど、自分には似合わなかったの。だから、水野さんがもらってくれるとこの子達無駄にならずに助かるんだけど…」
「そ、そういう事なら…」
水野さんが手をひっこめる。ふふっ、思った通りだ。人へのプレゼントだから勿論全部新品だけど、水野さんちうるさそうだし、そう言った方がもらってくれると思って、昨日値札とか全部剥がしてから敢えて使用済みのショッパーに入れて持って来て正解だった。
「ど、どうかな…?」
カチューシャをした水野さんが聞いてくる。
「かわいい!似合ってる!一緒に写真撮ろ!シュシュは腕につけてもかわいいよ。」
そう言って、パシャリと記念撮影したのを見て思った。
「ん~。折角だから、一つ結びやめて編み込みにしない?」
「ええっ?私した事ない…」
「まかせてまかせて!」
編み込みで斜めの三つ編みにしてたら、他のクラスメイト達が登校してきた。
「あ、水野さん!かわいい~!」
「でしょ!」
「アイちゃん、器用~!」
「まぁね~♪」
「あたしもやってよ。」
「いいよ~♪」
朝のHRが始まるまで、皆の髪の毛をいじって遊んだ。ヘアアレンジの道に進むのも有りかも、と考えた。
その日から、朝、登校したら水野さんのヘアアレンジをするのが日課になった。自分はショートで出来る髪型は限られてるので、人の髪の毛をいじるのは楽しい♪お団子にしたり、ポニテにしたりしたけれど、どれも似合って可愛かった。けど、下校する時は必ず一つ結びに直して、あげたヘアクリップとかをカーディガンと一緒にロッカーにしまって帰って行った。編み込みのまま帰って行ったのは「今日、人と会う約束があるの」と言った一度きりだった。
4章 七月
暑い!毎日暑すぎる!朝自転車を漕いで登校するだけで汗だくになる。日焼け止めと制汗スプレーとミニ扇風機がマストな季節。ウェットシートも欠かせない。
「暑い…。教室にクーラーあって良かった…」
ミニ扇風機の風を浴びながら、ウェットシートで顔を拭きながら呟く。
「アイちゃん、こないだの試験どうだった?」
水野さんが聞いてくる。ヘアアレンジをするようになって以降、格段にかわいくなったと思う。どうせなら、眼鏡をやめてコンタクトにすればいいのに。でも、親がうるさそうだから無理か…。
「うー、数学に足を引っ張られた…。水野さんは?」
こんな事なら文系を選択しとけば良かったと少し後悔。
「ちょっと…悪かったわ。全科目平均八十点ってとこ…」
それいい方じゃん!と思ったけど、水野さん的には悪いんだぁ…。そう思ってみれば、なんだか顔色も優れなかった。
「大丈夫?顔色悪いけど…?」
「…えぇ。ちょっと寝不足なだけよ。」
「もう面談の日にち決めた?」
「塾の無い日にしてもらったわ。アイちゃんは?」
「すぐ帰りたいから、一番にしてもらった。」
「何それ…」
水野さんがくすっと笑った。最近の水野さんは表情が優しい。なんでかな?やっぱり、ヘアアレンジでかわいくなった分、気分がアガってるのかな?そうなら嬉しいな。だって、『かわいいは正義』だもん。
「そうだ。アイちゃんは塾とか行かないの?」
「ん~…。普段は色々やる事あるしなぁ…。あ!でも、流石に夏期講習には行こうと思ってるよ。」
「なら!あたしが行ってる所にしない?」
「いいよ。」
「ほんと?嬉しい!じゃ、また詳しい事が分かったら明日にでも教える。」
「あ~。そんな事しなくても…。」
そう言って、スマホを出す。
「水野さんのスマホ出して。」
「え?ええ…。」
はい、と差し出されたスマホを見てビックリした。皆が入れてるメッセージアプリが入ってない。色々出来るカメラや動画のアプリも無かった。新品の時と殆ど変化のないスマホ画面だった。
「えーと…。メッセージアプリ入れてないの?」
「えぇ。親が厳しくて…。何か用があったらショートメッセージでやりとりすればいいでしょ、って…。」
「………。」
こんな時、頭の固い親の子は大変だぁ、って思う。こっちは常に楽で便利な物を求めているのに。「おはよう」「おやすみ」の四文字だって、文字を打つよりスタンプ一つで手軽に済ませたい。タイパ重視だ。皆に知らせたい事ある時はグループに送る。既読マークもつくのが有難いのに…。まさか…、水野さんがいれてないなんて…。でも、思い返せば確かにクラスのメッセージグループに水野さんらしきユーザーはいなかった。
「ご、ご、ごめんなさい…。」
「いいよ。水野さんのせいじゃないんだし。じゃあ、とりあえず番号交換しとこ。そしたら、すぐ繋がれるし。」
「あ、あの…」
「何?」
「うち…。親うるさいから、こっちからはあまりかけられないのだけれど…」
しどろもどろで言って来る。
「いいよ。こっちからかけるから。」
「あ、ありがとう…」
ほっとしたように水野さんが言った。
「今日、塾あるの?」
「えぇ。九時半には家にいると思うわ。」
「分かった。じゃ、その頃に電話するね。」
「えぇ。」
そう言った水野さんにワン切りする。“アイちゃん”として水野さんのスマホにこっちの番号が登録された。
帰りにじぃちゃんちに寄ったら、千歳さんがいなかった。
「あれ?」
「おう、アイ!どうした?千歳君なら今日はいないぞ。」
「そうなんだ…」
ちょっとがっかりだ。
「今日はハンバーグ作ろうと思って材料買って来たんだけど…。まぁ、いいや。多めに作るから、残った分は冷凍して後で焼いて食べてね。」
「おう!」
じぃちゃんちで一緒に夕飯を食べてから帰った。母はまだ帰ってない。時計の針は七時を回った所だ。外はまだ明るい。一人の家で、ぼんやりとベランダから外を眺めた。自分の将来についてぼーっと考えた。自分は何になれる?何になれない?自分のやりたい事ってなんだろう?
「わっかんないな…」
早々に考えるのをやめて、シャワーを浴びてからベッドに寝転んだ。疲れてたのか、そのままうたた寝をしてしまった。目が覚めたら、八時半だった。
「あっぶな!寝過ごす所だった!まだ英語プリントやってなかった!」
慌てて、プリントをやる。明日の予習をして時計を見たら、丁度九時半だった。水野さんに電話した。
「もしもし…」
「アイちゃん?こんばんは。あのね、十日間の集中コースがあるのだけれど、それにしない?」
「いいね。」
「そうしたら、アイちゃんの分の申込書ももらったから、明日持って行くね!」
「ありがと。」
うーん、と伸びをしてからベッドに転がる。そうして、そのまま寝てしまった。
翌朝。母が帰ってきた形跡はなかった。一人で朝食を食べて、母にスマホでメッセージを送った。
『おはよ。友達と一緒の十日間の夏期講習申し込んでもいい?』
すぐに既読がついた。
『OK!どこのか教えてくれたら、ウェブで申し込んでおくから、詳細送って。昨日帰れなくてゴメン!納期がヤバくて、今日もきっと帰れない。』
…相変わらず忙しそうだ。
『あんまり無理しないでね。行って来ます』
そう打ち込んで家を出た。今日もうだるような暑さだ。
*****
夏休みが始まった。日差しが強いから、シーツや布団カバーなどの大物の洗濯が捗る。
「うん。満足!」
ピシリと皺を伸ばして、ベランダから室内に入る。冷蔵庫を開けて、炭酸水を取り出して飲んだ。
「ぷはー!」
喉越し爽快!ビールもこんな感じなのかな?申し込んだ夏期講習は八月なので、それまでは自主学習だ。とりあえず、漢字と英単語。青い文字でノートが埋まっていくのをみると、自分がすごく頑張ってる気がする。
「うん!気分がアガッた所で、気力があるうちに苦手科目を片付けますか!」
どん!数学の図形問題。ラスボス級の強さである。分からない所は素直に答えを見る。説明を読んでも分からなかった所にウサギのフセンを貼った。ここは夏期講習に行った時にきいてみよう。それから、英語の長文読解にとりかかる。S(主語)、V(動詞)、O(目的語)を意識しながら読めって言われたっけ…。文節をスラッシュで区切りながら読んで行く。どうやら、これはシェイクスピアの何かの作品か?
「はー…!!」
つっかれた!脳みそが悲鳴を上げている。椅子の上で大きく伸びをして、時計を見たらとっくにお昼を過ぎていた。
「マジか?自分、集中力すごーい!」
自画自賛してから、ほっかほかになってた洗濯物を取り込んだ。
「頑張った自分に~、ご褒美をあげないと~♪」
鼻歌を歌いながら、冷凍庫からお高いカップアイスを取り出す。苺味が好きだ。フタを開けたら、綺麗なハートが顔を出した。
「わ!めっちゃハートじゃん!かっわい~!これは撮らないと!」
いそいそとスマホで撮った。苺味なのもあいまって、ピンクのハート。かわいさMAX!キラキラ加工をつけてから、SNSにアップした。すぐに「いいじゃん」がつく。『クリアハート!』『こんなくっきりしてるの初めて見た!うらやま!』『ピンクのハートで超かわいい♡』『出現率0.2パーセントのレアものですよ!』『今日はきっといいことあるね!』と、いつもよりリプも沢山ついた。
「へー。そんなにレアなんだぁ…。」
リプを読みながら、ハートを崩さないようにカップの縁から一口食べた。そんなにレアなら誰かに直接見せたかったな…。そこまで思って、思いついた。食べかけのカップアイスを保冷バッグに入れて、保冷剤を突っ込む。それから家を出て、エレベーターのボタンを押すのももどかしくて、階段を一気に駆け下りた。自転車のカゴに保冷バッグを入れて、炎天下を五分こぐ。
「じぃちゃーん!」
玄関を開けて勢いよく駆け込んだら、千歳さんがいた。
「おや、アイさん。お久しぶりです、こんにちは。残念ながら、篠宮先生は今日、講演に出掛けていてお留守です。」
「そうなの?」
「えぇ。何か急ぎの用ですか?」
「ううん…。全然…。じぃちゃんがいないなら、千歳さんでいいや。」
そう言いながら、保冷バッグのファスナーを開ける。開けながら思った。ううん、違うな。ホントは千歳さんに見せたかったんだ。
「ほら、見て!激レア!」
バーン!と食べかけのアイスを目の前につきつけられた千歳さんは、一瞬面食らった顔をしてから、いつもみたいに目を細めて微笑んだ。
「とても綺麗なハートですね。」
「でしょ!出現率0.2パーセントなんだって!」
「それはすごい確率の物をひきましたね。」
「うんっ!こんなに綺麗なハート出たの初めてだから、実物を見せたかったの!」
「それはそれは…。幸福の御裾分けをどうもありがとうございます。」
ぺこりと千歳さんがお辞儀した。こういう所、好感が持てる。
「どういたしまして♪」
にっこりした。
「素敵なハートですが、今日も暑いので早く食べてしまわないとアイスが溶けてしまいますよ。」
「だいじょぶ!少し溶けた方がおいしーんだよ。」
「そうなんですか?」
「そーだよ。口当たりが良くなるの。」
そんな他愛もない会話がすごく心地よかった。廊下の次は八畳の和室にうず高く積まれた本の片づけをする千歳さんの傍らで残りのアイスを食べた。食べ終えて、ゴミを捨てて戻ったら千歳さんがビックリした。
「何?」
「いえ…。肝心の篠宮先生がいらっしゃらないので、アイさんはアイスを食べたら帰るとばかり…」
「ここはじぃちゃんの家なのに、いちゃ悪いの?」
「いえ!決してそんな事は…。ただ…」
「ただ?」
「その…。妙齢の方が、私みたいなのと一つ屋根の下に二人きり、と言うのは世間的によろしくないかと。」
「は…?何その心配?」
思わず、笑っちゃった。
「いやいや…。笑い事では無いですよ。アイさんは可愛いんですから、もっと危機感を持った方がいい。」
「へー。」
ちょっと面白くなったので、聞いてみた。
「じゃあさ、「付き合って」って言ったら付き合ってくれる?」
「却下です。」
瞬殺された。
「なんでっ!?さっき「可愛い」って言ってくれたのにっ!嘘だったのっ!?」
「だって、アイさん未成年でしょう?」
こっちを見もせず、バッサリだ。
「ああ~…、成程ね。未成年インコー条例とかがあるんだっけ?」
「はい。それ以前に…私とアイさんでは歳が離れすぎています。一回り違いますよね?芸能界にはかなりの年の差カップルがいますが、現実にはそうそういませんよね?あれは、お金持ちの男性と若い女性の望むものがマッチングした結果ですから。現実社会では金の無いおっさんなんて、若い子には相手にされないものなんですよ。」
「ふ~ん…」
「分かりましたか?分かりましたら、おっさんを揶揄ってないで、熱中症に気を付けてお帰り下さいね。」
にっこり笑って、玄関から押し出された。笑っていても圧がすごい。
「なんだよ~、ケチ!」
「ケチで結構。日光を見ずして結構と言うなかれ。私は李下で冠を正しません。」
意味分からんダジャレ(?)を言われて、ガチャガチャと玄関の鍵がかけられた。
「も~っ!!!」
なんだよ!クリアハートが出たんだから、今日はラッキーデーなんじゃないの!?なんで、自分のじぃちゃんちに遊びに来た孫が締め出されなきゃならないんだよ!プンプンしながらまた炎天下に自転車をこいで帰った。
帰宅してから、エアコンの効いた室内で炭酸水を飲んでて気付いた。千歳さんは「未成年とは付き合えない」と社会通念を言っただけだ。そして、「李下に冠を正さす」と。それは「人に疑われるような事はしない」という意味だったハズ。それってさ、もしかして…少しは脈があるって事なんじゃないの?
*****
その日の夕方五時過ぎ。見切り品が出始める時間に買い物に行く前に、またじぃちゃんちに寄った。千歳さんはホースで庭の水やりをしてた。
「アイさん?もうすぐこんばんはですが、今度はどうしました?」
すぐ帰れるよう自転車は道路わきに停めて、水を止めようと水道の所へ行った千歳さんの所に駆け寄った。
「あのさ。千歳さんの連絡先教えてくんない?」
「え?」
「だって、不便なんだもん。暑い中来た自分のじぃちゃんちなのに、千歳さんだけだと長居出来ないなんて!だったら、千歳さんにメッセ送って行けるか聞いた方が確実じゃん!」
「それは確かにそうですが…」
「それにっ!もうじぃちゃん歳なんだし、何かあったら家族に連絡する必要あるでしょ?うちの母は忙しい人なんだから、こっちに連絡した方が早いじゃん!」
「た、確かに…!」
よし、押し切った!格ゲーで言うなら、「AI、WIN!」だ。
「ちょっと待ってて下さいね。」
首に下げたタオルで手を拭いて、縁側みたいな廊下の所に走っていった。スマホは携帯電話なのに携帯してないんかいっ!
「お、お待たせいたしました…。え、えぇと…」
もたもたしてる千歳さんに二次元バーコードを差し出す。
「これ読み込んで。」
「はい、えーと…」
良く分かってないのか、アプリを立ち上げてから軽く固まった千歳さんに許可を得て、画面をタッチして操作する。AIのアイコンが追加された。
「はい、これで登録完了。」
それから、自分のスマホをいじる。埴輪の馬の新しいアイコンがメッセージアプリに追加された。その隣にあるのは千歳さんのフルネームの漢字表記。
「千歳…なんて読むの?」
「ビンです。」
「敏さんって言うんだ…」
「えぇ、私の母が上田敏を好きだったものですから。」
そう言った千歳さんは、なんだか少し淋しそうな顔をしていた。でも、昼間言われたばかりだし、二人きりで長居は良くないかと思って言った。
「ありがと。じゃ、買い物行くね!今度からこっちにメッセ入れてから行くから!千歳さんも気軽にメッセ送ってね!まったね~♪」
帰宅して夕飯を食べてから、お風呂から出てから、何度もメッセージアプリを確認した。クラスのグループは賑やかだが、千歳さんからは何のメッセージも入ってこない。おっさんだから、高校生にメッセを送るのを躊躇してるのかもしれない。千歳さんはそういう人だ。それなら、こっちから…と『おやすみなさい』のスタンプを送った。反応なし。既読がつかない。まさか未読スルー?もやもやしながら気分転換にリズムゲームをしていたら、ポコンと通知が来た。ゲームを中断して早速開く。
『アイさん、こんばんは。折角メッセージを送って下さったのに、風呂に入っていて気付くのが遅れました。大変申し訳ございません。今日は折角足を運んで下さったのに、追い返すような形になってしまい、大変申し訳ありませんでした。ですが――』
「いや、長いな!」
思わず、画面にツッコんだ。でも、精一杯打ち込んでるんだろうなって思ったら、微笑ましかった。レスが送れたお詫びと以前作って冷凍庫に入れといたハンバーグを焼いて食べたら美味しかった事、さっきじぃちゃんが帰って来た事が書いてあった。『先生が講演のお礼にもらってきた焼き菓子があるので良かったら明日にでも取りに来てください』とあったからにっこりした。
『ありがと。じゃ、明日行くね♪』
そう打って、寝ているウサギのスタンプも送っておいた。今度はすぐに既読がついて『おやすみなさい。良い夢を』とメッセが来たから、嬉しい気持ちで眠りに着いた。
*****
翌日は勉強道具を持って、午前中からじぃちゃんちに行った。
「おはよ~!お菓子食べに来たよ~!あと、一人だとだらけちゃうから、今日はこっちで勉強していい?」
「分かるぞ、アイ!儂もだ!ここなら千歳君が見張ってくれるからな!お互い頑張るか!」
そんなじぃちゃんと二人、床の間のある八畳の和室のでっかい座卓で向かい合った。じぃちゃんは原稿、こっちは受験勉強。カリカリという音だけが響いた。
「御疲れ様です、お昼のそうめんが出来ましたよ。」
千歳さんが呼びに来た。
「む!もうそんな時間か…!今日はかなり筆が進んだ。アイのおかげだな。よし、飯にするか!行くぞ、アイ!」
じぃちゃんは御機嫌だ。
「うん!」
自分も勢いよく立ち上がって台所へ行こうとしたら…よろけた。
「わっ!」
「危ない!」
倒れそうだったのを千歳さんが受け止めてくれた。
「あ、ありがと…。」
「大丈夫ですか?」
「うん…。足が痺れてて…。もう少しして痺れが取れたら行くから、先に食べてて。」
「分かりました。」
そう言って、そっと座布団に下ろしてくれた。壊れ物を扱うように丁寧だった。
「千歳君、つゆは何だね?」
「市販の麺つゆと――」
二人の会話が離れていく。自分の頬に手を当てた。少し熱かった。
「赤くは…なってないよね?」
スマホをインカメラにして顔を見る。ちょっと赤かった。何だか恥ずかしい。傍らにあった麦茶をがぶ飲みしたら収まったから、まだ少し痺れの残る足を引きずりながら台所に向かった。そうめんは美味しかった。千歳さんがゴマを擂って作ったゴマダレがあったからだ。
「なにこれ!ちょっと甘くて美味しい!」
灰色の汁に黒いゴマが浮かぶそれの見た目はちょっとグロイけど、とても美味しかった。じぃちゃんもお気に入りらしい。
「レシピ教えて!」
「いいですよ。ただ、食べ終わった後の歯磨きはしっかりして下さいね」と言った千歳さんはいつも通り穏やかなハズなのに、どこか淋しげなのはなんでなんだろう?
5章 八月
夏期講習が始まった。短期集中コースなので、朝から夜までビッシリだ。昼用に簡単なお弁当を作って持って行く。お昼の時間は水野さんと一緒に過ごす。
「アイちゃんが来てくれて本当に良かったわ。この時間、一人だといたたまれなくて…」
おにぎりを食べながら水野さんが言う。
「分かる。周りが仲良くしてるのに、ポツンはいやだよね。」
「そうなのよ。同じ空間にいる筈なのに、一人だけ違う次元にいるような気になるの。」
分かるなぁ…。特に女子は群れたい生き物だもんね。トイレに行くのだって団体行動だ。
夕方六時にとったコースの講義は終わるけど、そこから開放されてる自習室で水野さんと一緒に勉強する。家で一人だとついスマホを手にして動画を見たりしてしまうが、ここでは皆が必死に勉強してるので刺激になる。どうせ家に帰っても一人だし、夏期講習期間は勉強漬けの生活も悪くない。途中、隣にあるコンビニで軽食を買って済ませ、九時まで勉強して帰る。そんな感じで一週目が終わった。
講習休みの日曜日。食材をまとめ買いに出掛けた帰り、バスン!と音がして、急に座高が低くなった。後輪がパンクしたようだ。仕方ない。自転車屋で直してもらおう。自転車を押して、自転車屋に行く。すぐ直してもらえると思ったのに、修理予約がいっぱいなのと月曜が定休日なので、引き渡しは明後日の午前中になると言われた。そんなに!?でも、仕方ない。近所にあったもう一軒の自転車屋は去年潰れて、歩いて来られる距離にあるのはこの自転車屋だけなのだ。
「お願いします」と預けて、歩いて帰った。まとめ買いした食材が重かった。
翌日は歩いて予備校に行った。自転車だとすぐに通り過ぎる大きな公園と雑木林の間を通る道を過ぎる時、蝉の声がうるさい位に降って来た。あぁ、夏だなぁ…。
いつも通り九時まで勉強して帰る時、「しまった!」と思った。今日は自転車が無かった。外は思ったより暗かった。
「やだなぁ…。」
さっさと帰れば大丈夫だろう。大股で歩いた。予備校から離れるにつれ、人通りは少なくなる。雑木林の隣の道に来た時、朝は気付かなかったが、街灯が弱弱しく点滅しているのに気付いた。
「もう消えそうじゃん…。」
そう呟いて早く帰ろうと思った時、後ろからタッタッタッと足音がした。こんな時間にもジョギングする人いるんだな~、と呑気に思った瞬間、後ろからがしっと抱き着かれた。
「!!!!」
怖くて声が出なかった。身体が凍った。それからパニックになって、無我夢中で逃げようとしたら、右の太腿にタックルされて転んだ。放り出されたトートバッグから中身が飛び出す。慌てて身体を起こそうとしたら、フーフーと荒い息をしたフードを目深に被った男がむき出しの下半身をこっちに見せつけてきた。
「!!!」
怖くて泣きそうだった。ど、ど、どうしよう…と思った時、眩しいライトがこっちを照らした。車が来たんだ。フードの男は慌てて、雑木林の中へと走って消えた。キキーッとブレーキ音がして、こっちを照らしたまま車が路肩に止まった。バタン!とドアが開く音がして、道路にへたりこんだままの自分の所に誰かが駆け寄ってきた。
「アイさんっ!?」
千歳さんだった。
「大丈夫ですか?」
そう言って、先ずは周囲に散らばったテキストとかを拾い集めてくれた。
「あ…」
ありがとう、って言いたかったのに、まだ体が震えて上手く声が出なかった。
「アイさん?」
千歳さんが顔を覗き込むようにして聞いてくる。
「立てますか?」
それを聞いて、右手で押して体を起こそうとしたが、腰が抜けていた。首を振った。千歳さんは拾ったトートバッグを車に置きに行ってから、戻って来た。それから言った。
「すみません。いつまでも道路の真ん中に蹲っていては危ないので、不本意でしょうが、私の首に腕を回していただけますか?」
頷いて、震える腕でしがみついた。
「よっこい…、しょーなん!」
その掛け声と共に、千歳さんの腕が背中と両足に回されてお姫様抱っこされた。そして、そのまま車の後部座席に下ろされた。ドアが閉まる。千歳さんが運転席に戻ってから聞く。
「大丈夫ですか?もしかして、痴漢にでもあいましたか?今から警察に行きますか?」
ブンブンと首を振る。嫌だ、警察なんか行きたくない。根掘り葉掘り聞かれて、余計なことまで詮索される。以前、電車で痴漢にあった時がそうだった。
――そんな格好してるから――
好奇の目をして言われた。物凄く嫌だった。あんな思いをまたしたくない。
「…分かりました。そうしたら、ご自宅までお送りしますね。」
そう言って、ゆっくりと車を走らせた。車だとマンションまではすぐだった。
「はい。着きました。立てますか?」
首を振った。呼吸は落ち着いてきたとはいえ、まだ体が震えてた。
「お母様はもう御在宅でしょうか?」
「…ううん、まだ…。」
今日の帰宅は十時過ぎになりそうだと昼にメッセージが入っていた。
「う~ん…。困りましたね…。でも、いつまでもこのままじゃいられませんし…」
千歳さんはブツブツ言ってから、「よし!」と言った。
「とりあえず、アイさんをおうちまで送り届けます。家は何階ですか?」
「ご、五階…」
「五階…。が、頑張ります!」
そう言うと千歳さんは車を『来客用』と書かれたスペースまで移動した。そして、自分のショルダーバックを斜め掛けすると、後部座席のドアを開けて背中を向けた。
「すみませんが、ご自分のバッグを持って、私におぶさって下さい。」
「う、うん…」
そろそろと体を動かして、腕を肩に回した。
「ちゃんと掴まってて下さいね。」
そう言って、両の手が太ももの下で組まれた。
「よっこい…、しょーいち!」
勢いよく言って立ち上がり、車のロックをして歩き出す。千歳さんの背は高いから、いつもよりずっと目線が高かった。マンションのエントランスに入り、正面にあったエレベーターに向かう。
「すみません。ボタンを押してもらえますか?」
「ん。」
右手を伸ばしてボタンを押した。丁度一階にいたエレベーターの扉が開く。そのまま乗り込む。「5」のボタンを押す。無言で上昇する。扉が開く。
「えっと…。お部屋は…?」
「あっち。505。」
指差す方向に千歳さんが歩く。505とかかれたドアの前で立ち止まる。
「か、鍵は?」
「ちょっと待って…。」
そう言って、右手でサロペットのポケットから取り出して渡した。ガチャリとドアが開く。
「はー…」
千歳さんはそう大きく息を吐くと後ろ向きに玄関に下ろしてくれた。
「ごめんね…。重かったでしょ…」
「いえ!違います!これは日頃の運動不足が原因で…。そんな事より、靴、脱げますか?」
「ん。」
それ位は出来る。でも…、立ち上がろうとしたけどまだ無理だった。下半身に力が入らない。
「えぇと…。御家族がいないのに、上がり込むのは良くないと思うのですが、せめてリビングまでアイさんをお運びしても?ていうか、上がっても大丈夫ですか?」
「うん。へーき。」
「では…。再び失礼します。同じように首に腕を回してもらっていいですか?」
「ん。」
「よっ!」
再びお姫様抱っこされて、リビングのソファに下ろしてもらった。
「ありがとう。」
「いえ…。お役に立てたなら良かったです。では。」
ぺこりとお辞儀をしてすぐに立ち去ろうとした千歳さんの黒いポロシャツの裾をぎゅっと掴んで引き止めた。
「まだ…帰んないでよ。」
「いえ…。もう遅いですし…」
「一人だと怖いから、母が帰って来るまではいてよ。」
そう言ったら、渋々頷いた。
「分かりました。そうしたら、篠宮先生とお母様にご連絡してもいいですか?」
「うん。母にはこっちから連絡する。」
そう言って、スマホでメッセージを入れた。
『塾の帰りに痴漢にあって、腰が抜けてた所を偶然通りかかった千歳さんに送ってもらった。今、一人だと怖いから母が帰って来るまで一緒にいてもらうね』
既読が着いたと思った瞬間、電話がかかってきた。
「は…」
い、と言う前に「アイッ!?大丈夫っ!?何もされてないっ!?とりあえず、今向かってるからねっ!」と言って、一方的に電話は切れた。すごい剣幕だったから、じぃちゃんに電話してた千歳さんにも聞こえたようだ。目線が合った。
「愛されてますねぇ。」
そう言った時、千歳さんのお腹が「ぐぐぅ~!」と大きく鳴った。変な動物の鳴き声みたいだったから、思わず笑った。
「あ…す、すみません。コンビニに寄って夕飯を買って帰ろうとしてた所だったので…」
恥ずかしさからか、顔を真っ赤にして言う千歳さんに言った。
「あのさ。良かったら、冷蔵庫に昨晩作ったグラタンがあるから、あっためて食べてよ。」
「いえ…。人様の家に勝手にお邪魔した挙句、御馳走になるなど…」
「こっちの都合でいてもらってるのに、今立てないからお茶も出せないし。空腹の人にご飯も食べさせないなんて、礼儀に反するからさ。送ってくれたお礼の気持ちも込めて、食べてくれると嬉しい。」
「で、では…。お言葉に甘えて…。失礼します。」
軽くお辞儀をしてから、シンクで手を洗って冷蔵庫を開ける。
「あ!すみません…。牛乳もらってもいいですか?」
「うん。」
「では。」
そう言うと、マグカップに入れてレンジに入れた。牛乳好きなのかな?と思ってたら、チン!と音がした後、こっちに持って来た。
「はい。ホットミルクを飲んだら、少しは気分が落ち着くかと思いまして…」
それから、はっとした。
「あ!気が付かなくてすみません!ちょっと待って下さいね。」
そう言うと、流しにあった空のボウルとコップに水を入れて持って来た。
「手洗い嗽を忘れてました。これでどうぞ。」
ぷっと吹き出した。こんな時でも、そういうのさせるんだ。でも、そういう習慣て大事だよね。お言葉に甘えて、ボウルの水で手を洗い、コップでうがいしてボウルに吐き出した。ポケットに入れてたミニタオルで口と手を拭く。
「ありがと。いただくね。」
ふーっと息を吹きかけてから飲んだホットミルクは物凄く甘く感じた。こっちが飲んだのを見てから、千歳さんは自身も嗽をしてからグラタンを冷蔵庫から取り出して、あっためてからテーブルに着いた。
「いただきます。」
ご丁寧に両手を合わせてからゆっくりと食べていく。そんな千歳さんを見ながら、ホットミルクを飲んだ。
「ご馳走様でした。とても…美味しかったです。」
そう言って、細く微笑んだ。美味しかったなら、良かった。千歳さんは飲み終えたマグカップも回収して洗ってくれた。それから、部屋の隅っこまで行って体育座りした。
「なんで、そんな隅っこに…?」
「何か間違いがあったと思われたら困りますので。」
「変なの~。」
「変じゃ…無いですよ。アイさん、さっき危ない目にあったばかりでしょう?石橋は壊れる位、叩いた方がいいんですよ?」
「そうなの?叩き過ぎたら、壊れちゃうじゃん。」
「言葉の綾です。」
「ふーん…。」
沈黙。千歳さんとの無言の時間はじぃちゃんちでの本の整理で慣れてるし、苦痛じゃないからいいんだけど、今は会話が欲しかったから話しかけた。
「千歳さんはさー、沢山牛乳を飲んだから、そんなに背が高くなったの?」
「いえ。牛乳は関係ないと思いますよ。私も含めてですが、東北人て背が高い人が多いんです。アイヌの血が入ってるから、という説を聞いた事がありますが、どうだか…。寒冷地に住む動物は体の表面積を大きくして体の熱を保つ、と言われているのできっとそれでしょう。」
「へー…。」
そんな関係が…。でも、それを言ったら沖縄出身のアイドルの子はちっちゃくてかわいい子が多い気がする。そんな事に気付かせてくれる千歳さんとの会話は面白い。
「そう言えばさ、今日はなんで車に乗ってたの?」
「あぁ。先日まで、発掘調査の手伝いに行っていたのですが、そこが結構市街地から離れてましてね…。大学時代の友人が事業を縮小するというので、安く譲ってもらいました。…いかにも営業車って感じだったでしょう?」
あぁ、確かに白の軽自動車だった。運転席に座る千歳さんはちょっと窮屈そうだった。
「あんな車ですみません…。」
「なんで謝るの?車なんて乗れたらいーでしょ。それに白くて小さくてかわいいじゃん?」
「可愛い?…そうですか?それならいいのですが…。男が軽自動車に乗ってるのは恥ずかしいって風潮あるじゃないですか…。」
「そんなのカンケ―無いよ。人は人!自分は自分!自分の人生なんだから、自分でいいと思えば、それでいーじゃん!」
ぐっと力を込めて言った。千歳さんが笑った。
「確かに!アイさんはいい事を仰る。流石は、篠宮先生のお孫さんだ。」
そこまで言ってから「あ!」と言った。ショルダーバッグを探ってから、こっちにやって来た。
「あの…。大したものではないのですが、これ。普段、篠宮先生のご飯を作るついでに私のも作っていただいているお礼です。良かったら、もらって下さい。」
そう言って、博物館の名前が印刷された小さな膨らみのある紙袋をくれた。
「…?ありがと。開けてもいい?」
「えぇ、ほんとに大したものじゃないんですが…」
中からフェルトで出来たデフォルメされた埴輪の馬のキーボルダーがでてきた。
「かわいー♪」
にっこりしたら、千歳さんがほっとした。
「…良かった。」
その時、玄関のドアが開いて母が駆け込んで来た。
「アイ―ッ!!無事だったっ!?」
すぐ近くに立つ千歳さんを睨みつけ、拳を振り上げる。
「うちの子に何か?」
「ストーップ!これは千歳さんだよ!じぃちゃんちに住んでる!メッセに入れたでしょ!」
「ああ~!!!」
母が拳を下げた。頭も下げた。
「早合点でとんだ失礼を…。はじめまして。親子ダブルでお世話になっております。今日はどうもありがとうございました。」
「いえ…。」
頭を下げる千歳さんに見向きもしないで、母はこっちを振り向くと言った。
「一体、どうしてそんな目に遭ったの?自転車ごとタックルでもされた?」
「違う…。こないだ自転車パンクして、修理がいっぱいなのと定休日で明日戻って来るから、今日は歩きで行ったの…」
「あぁ~。成程ね。状況は把握した。昼間は犬の散歩とか多いけど、夜は物騒だから…。講習まだあるんでしょう?明日からは大丈夫?早上がりして明るい時間に帰って来る?」
「それは…」
出来なくもない。講習自体は六時に終わる。でも…、その後の時間を水野さんを一人にするのは裏切りのような気がした。言葉を濁していたら、「あの…」と千歳さんの声がした。
「あら?」
まだいたの、と言わんばかりに振り向いた母に千歳さんが言った。
「あの…。もし良かったらですが…。九時過ぎなら、私がご自宅までお送り出来ますが…。あ、その場合、行きは歩きになってしまうので、アイさんさえ宜しければ…のご提案ですが…」
最後は消え入りそうに言った。
「それでお願いっ!」
両手を合わせて言ってみた。
「アイ!?いいの?」
「うん。あと四日だし、千歳さんにお願い出来ると助かる。」
「アイがいいならいいけど…。」
ちょっと不満げな母に千歳さんが言った。
「大丈夫です、お任せ下さい!篠宮先生に誓って、私が無事にアイさんをお送り致します。」
「お爺ちゃんに誓って、って…。あの人、そんなにすごいのぉ~!」
母が吹き出した。
「ハイッ!勿論です!篠宮先生は日本史の第一人者ですからっ!」
キリッと言い切った千歳さんを面白そうに見て、母が言った。
「それじゃー、お願いしようかしら。あ、ならガソリン代渡しておくわね。」
ビジネスライクに財布を取り出した母を千歳さんが止める。
「いりませんいりません!アイさん、篠宮先生のご飯作る時、私のも一緒に作ってくれたりするので、その恩返しみたいなものですからっ!お気遣い無くっ!」
「そうなの?」
こっちを向いて母が聞く。うん、と頷く。
「それじゃ、明日から四日間、宜しくお願い致します。」
「はい…。では、夜分遅くにお邪魔して失礼致しました。」
深々と頭を下げて、千歳さんは帰って行った。
「な~んか、うだつの上がらなさそうな男ねぇ…。」
母はそう言うと、こっちを向いた。
「アイさぁ、もしかして…、あぁいうのがタイプなの?」
「え??」
「ん?違うの?」
*****
なんだか疲れてたから、お風呂には明朝入る事にして、今日はそのままソファーに横になって寝る事にした。掛け布団といつも一緒に寝ているクマのぬいぐるみは母が運んでくれた。その後、母はさっさと自室に引っ込んだ。持ち帰りの仕事があるらしい。一人になってから、さっき言われた事を思い出す。
「あぁいうのがタイプなの?」
…あれって、好きかどうか、確認されたって事かな?う~ん…。ぬいぐるみの“くまた”を抱えて考える。昔から、かわいい物が大好きだ。それはぬいぐるみだったり、文房具だったり、スイーツだったり。ファッションもそう。がっちりしてるハード系より、ふんわりかわいいシルエットと素材が好きだ。キュート系って言うのかな?だから、千歳さんがちょっと窮屈そうに乗ってる白の軽自動車だってかわいいと思う。黄色いナンバープレートもかわいいと思う。そこで思い出して、さっき貰ってポケットにいれたままだったキーホルダーを取り出す。黄土色と茶色のフェルトで出来た埴輪の馬に金色のボールチェーンがついている。黒いつぶらな目をしていて、なかなかにかわいい。
「ふふっ。」
ここしばらくは千歳さんに会えてなかった。こっちも向こうも忙しかった。だけど、会えない時間に自分の為にこれを買ってくれたのかと思ったら、嬉しかった。クラスの女子に見せたら、「こんなのより、アクセがいい」って言いそうだけど…。
そういえば、千歳さんに予備校の名称を教えてなかった事を思い出して、メッセージアプリを立ち上げた。
そこで気付く。千歳さんのアイコンは埴輪の馬(実物)だった。
「ふふっ。」
貰ったフェルトの埴輪の馬に親近感を感じたから、スマホケースにつけた。それから、メッセージを打ち込む。
『今日は送ってくれてどうもありがとう。行ってる予備校はね、駅近くのコンビニの隣にあるKだよ』
今日はすぐに既読が着いた。
『分かりました。明日、着いたらメッセージをいれますので、それまでは予備校内か明るい所にいて下さい』
『了解』
『では、今日はゆっくりおやすみください』
『おやすみ~(スタンプ)』
既読がついたのを見届けて、アプリを閉じた。なんだかほっこりした。うん、自分は千歳さんを好きなのかもしれない。そう思って眠りについた。
翌朝。シャワーを浴びて、心身ともにスッキリした。今朝は珍しく母が朝食を作ってくれた。目玉焼きにウインナーを焼いたもの。白米に豆腐とわかめのお味噌汁。久し振りに食べた母の手料理だった。
「なんだかな~」と母が言う。
「何?」
「私が作るより、アイが作るご飯の方が彩りも良くて、おいしいよね。」
「そうだね、ここにキャベツの千切りとトマトを添えた方が彩り、栄養バランス共にアップするね」って言ったら、「ですよね…」と項垂れた。
「でもさ。久し振りに一緒の時間にご飯食べられて嬉しいよ」って言ったら、「ううっ!いい子!アイは世界一可愛いっ!」って。だよね、『かわいいは正義』だよね~!
だから、今日は細身のレギンスにうさ耳のついた膝丈まであるだぼだぼパーカーをあわせた。全身黒だから、ヘアピンとトートバッグは差し色として赤にした。それから、元気に予備校に向かった。昨晩、痴漢に通った道を通る時はちょっと緊張したけど、前をベビーカーを押した若いママが歩いてたし、かわいいコーギーにリードをつけて散歩させてるおばちゃんがいたから平気だっだよ。
その日の講義を終えて、九時まで水野さんと自主勉をしてから自習室を出た。スマホを見る。千歳さんからメッセージが入ってた。
『予備校の向かいにいます』
『今、行くね!』
そう打ち込んで、水野さんに手を振る。
「バイバイ!また明日!」
階段を駆け下りた。予備校を出た道路の向こう側に白の軽自動車が停まっているのが見えた。信号を渡って、駆け寄る。
「おまたせ!待った?」
「いえ。さっき来たばかりです。」
助手席のドアを開けて乗り込む。「あ」と千歳さんが言った。
「ん?」
「あ…。えっと…、後部座席じゃなくて大丈夫ですか?」
「何?千歳さん、助手席は彼女しか乗せないとかいう人?」
「ち、違いますっ!彼女なんていませんし…。その…、こんなボロイ軽の助手席に乗ってる所を誰かに見られてからかわれたら困ると思って…。」
「あ~、そういうの全然ダイジョーブ!気にしないで!はい、れっつらご~♪」
その声に急かされて、千歳さんの軽が走り出す。
「車だと早いね~♪」
「そうですね。あと荷物が沢山運べるのが助かります。」
「うん。」
「昨日…、あれからフラッシュバックして気分が悪くなったりしませんでしたか?」
「うん。お陰様で。あ、ほら見て!昨日もらったキーホルダー、スマホにつけたの!」
「すみません。運転中は見られませんので…」
ちょっと位こっち見てくれてもい~のに!ちょっとむくれた。でも、安全運転の為にわき見は禁止なんだろうなぁ。千歳さん真面目だし。前を見たまま、千歳さんが言う。
「昨日あれから交番に行って、あの道に痴漢が出た事を報告しておきました。「周辺のパトロールを強化する」と言ってましたが…。警察も万年人不足っぽいので、どうでしょうね…。あと、今朝市役所に電話して、街灯が切れそうな事も報告しておきました。」
「へー。」
その甲斐あってか、帰り道では昨日チカチカしてた街灯が煌々と光ってた。
「わ!ほら見て!新しくなってる!千歳さんのおかげだね!」
「仕事が早いですね。これなら、他の方も安心だ。」
あっと言う間にマンション前についた。車が止まってから、スマホにつけた馬のキーホルダーを見せた。
「ね。かわいいでしょ♪」
「気に入ってもらえたのなら、何よりです。では、また明日。」
車を降りる。
「ありがとう。またね~!」
見送ろうと二歩下がってひらひら手を振ってたら、窓が開いた。
「アイさん。危ないですから、私が見てるうちに早くマンション内に入って下さい。」
「え~…、見送ろうと思ったのに…。」
「お気持ちだけいただいておきます。」
「はぁ~い…」
昨日の今日で心配してくれてるんだって分かったから、走ってエントランスまで行った。エレベーターのボタンを押してから振り向いた。千歳さんが運転席で手を振ってた。エレベーターの扉が開いて乗り込んだ。扉が閉まって見えなくなる直前まで手を振った。それから、急いで自分の家に入って、ベランダまで走った。千歳さんの乗った白い軽が交差点の角を曲がっていく所だった。
「バイバイ…。」
それから、メッセージを送っておいた。
『送ってくれて、ありがと。無事に帰宅したから安心してね。』
しばらくしてから、既読がついた。
『おやすみなさい』
その七文字が嬉しかった。
*****
次の日もその次の日も、ちゃんと千歳さんは迎えに来てくれた。明日が夏期講習の最終日。千歳さんに送ってもらう最終日でもある。だから…。
「よぉ~し!やるかぁ!」
帰宅後、おもむろに冷蔵庫をあける。バターは常備してある。室温に戻す時間が惜しいから、レンジで時短。そこ砂糖と卵黄を入れて良く混ぜる。更に薄力粉をふるって追加。さっくり合わせて一つにまとめてから、冷蔵庫で少し休ませる。この間にお風呂。ドライヤーを済ませてから、オーブンを予熱する。その間に冷蔵庫で寝かしておいた生地を取り出し、薄く延ばして、型で抜いた。ハートの形。よっつ並べるとクローバーになる所が気に入ってる。型抜きしたのを約二十分焼いた。
「お~!久しぶりに作ったにしてはい~感じ♪」
こんな時間に食べたら太っちゃうかな?と思いつつ、匂いにつられて一つつまんだ。
サクッ。
「ん~♪おいし~♪」
我ながら美味しく出来た!と自画自賛してたら、「あら~。すっごくいい匂い!」と母が帰ってきた。
「やだ、アイ。こんな時間にお菓子作ってたの?」
「うん。明日で講習最後だから、一緒に受けてる子と千歳さんにあげようと思って。」
「ふ~ん…」
そう言いながら、母が一つつまんだ。
「あら、美味しい♪これならいくらでもいけるわ。」
「ちょっとぉ~。食べてもいーけど、あげる分は残してよね。」
お疲れの母にコーヒーを淹れて差し出す。
「ありがと。じゃ、あとみっつだけ。いっただきま~す♪」
「ん。」
今日は粗熱をとって、明日の朝にラッピングしようと袋を探す。二月に友チョコ交換に使った残りがあった。これでいいや。
翌日のお昼休み。
「今日で講習おしまいだね。アイちゃん、一緒に受けてくれてありがとう。」
そういう水野さんにクッキーをあげた。
「え?昨日あれからアイちゃんが作ったの?すごーい!」
ビックリする水野さんに「食べてみて」と促す。
「美味しい!」
「ほんと?」
「うん。すごくサクサクしてる。」
母以外の評価も良くて安心した。
「あたしも…何か用意しとけば良かったわ…。気が利かなくて…ごめんなさい。」
「い~よ、い~よ。ちょっとした気分転換に作っただけだし。」
「でも…」
「じゃ~、今度のバレンタインの時にでもちょーだい♪あ、でも今年は受験だから、友チョコ交換は無理か…。」
「友チョコ交換いいなぁ~。あたし、した事無くて…」
「ええっ!?マジ!?小学校の時とか皆でやらなかった?」
「うちは…。母が「よその家で作られた物は不衛生だから」っていうタイプだったから…。」
「あぁ~…。たまにいるよね。他人が握ったお握り食べられないって人。でもさ~、総菜で売られてるお握りも、結局は誰かが握ってる訳じゃん?それはいーのかね?」
「商品として売られているのは、衛生管理がしっかりしてるっていう認識だから。」
「なるほど…。」
なんだか屁理屈なような気もするが、そんな人もいるのか…。
「じゃ、また新学期に!」
「気を付けて帰ってね、バイバイ。」
「ばいば~い♪」
手を振って、道路の向こう側で待ってた白の軽自動車に乗り込む。
「講習御疲れ様でした。」
「ありがと。今日はね、千歳さんにちょっとしたお礼を持って来たよ。」
「いりませんよ、お気遣い無く…」
「ちょっと~!折角作ったのに、そういう言い方は無いでしょ!」
「作った?あ、もしかしてご飯ですか?」
「ブブーッ!今日はクッキー。昨日あれから急に食べたくなって焼いたのの御裾分け。」
嘘。本当は千歳さんにあげようと思って作ったんだけど、さっきの「いりませんよ」が心に刺さって、ついでって事にした。
「アイさんはお菓子も作れるんですね。」
「うん。昔、ばぁちゃんが「買うより自分で作った方が沢山食べられる」って言うから作るようになったんだけど、手間暇考えたらイーブンだよね~。」
「そうですね…。最近はバターをはじめ原材料が高騰してるので、町の洋菓子屋さんは経営が厳しいらしいです。そういえば、「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」の有名な科白。あれ、実はマリー・アントワネットの言葉ではないってご存知ですか?マリーの結婚前のルソーの――」
千歳さんの歴史うんちく話を聞きながら、やばいと思った。バレンタインの残りでラッピングしたから、袋には思いっきりピンクのハートが印刷されている。加えて、クッキーもハート型だ。これ…、もらうのハードル高過ぎないか?友チョコ交換ならお互い様だけど、ただのお礼にハート型って…。そう思ったけどもう後の祭りだ。ええい、ままよ!さっとあげればいーんだよ!
そう腹をくくって、マンション前に着いた時に「これ!」と渡した。ピンクのハートのラッピングに千歳さんはちょっとビックリしてた。
「友チョコ交換した時の残りでラッピングしたから…」
「そうですか…。ありがとうございます。でも…。こんなハートの包み紙でもらったら勘違いする人もいるでしょうから、気を付けたほうがいいですよ。」
穏やかに言われてカチンときた。自分の心を否定されたような気がしたんだ。
「勘違いしてもいーよ!千歳さんにあげようと思って作ったんだもん!」
「えっ!?アイさん…、もしかして私を好きなんですか?」
「うっ…。た、多分…?」
だって、これまでの人生で誰かを好きになった事がないから良く分からない。でも、先日確かに千歳さんを好きだなぁ、って思ったんだ。
「はぁ~…」と千歳さんは大きな溜め息をついた。
「アイさん、それは多分錯覚です。先日貴方は痴漢にあった。すごく怖い思いをした時にたまたま私が通りかかった。それによる吊り橋効果で、貴方は私に恋をしたと勘違いしたんです。」
「勘違い…?」
「そうです。極度の緊張状態からくる心拍数の上昇を脳が恋のドキドキと勘違いした、という訳です。」
「そう…なのかな?」
確かにあの時、すごく怖かった。千歳さんが来てくれてすごくホッとした。お姫様抱っこで運んでもらった少女漫画で見るようなシチュエーション。でも、その前から千歳さんの事はいいな、って思ってたよ。
「そうです。それは恋ではない。ですが、折角作っていただいたので、クッキーは美味しくいただきますね。」
「あ、うん…。」
車を降りて、マンションのエレベーターの扉が閉まるまで千歳さんに手を振る。頭にさっきの千歳さんの言葉がリフレインした。
『それは恋ではない。』
胸がちくんと痛んだ。これが恋による痛みでないのなら、何?
<続く>