9.勇者、動く
「ふわ〜あ」
眠気がなくなって、ボクは目覚めた。長い間、眠っていたような気がする。
「今、何時だろう。ていうか、ボクは何をしていたんだっけ……?」
ボケた頭をかき回すと、思い出したくない記憶まで蘇った。脱獄したことや、冒険者ギルドに行ったこと。そこでの出会い、ここが迷わせの森であること。
洋館の発見、仮面執事三人衆との戦闘、ボビンさんの死。そこから記憶が飛んで、イザベラとの再会。そこからまた記憶がない。
「イザベラはどこにいるんだろう。イザベラー?」
彼女の名前を呼んでみるものの、その声は返ってこない。段々と脳の動きが活発化し始め、ボクはようやく周囲の違和感に気付き始めた。
「ここはどこだ。洋館じゃない!」
ボクは屋外で地べたの上に、仰向けの形となって寝ている。周囲に目を向けるが、洋館は見当たらない。
「う〜ん。何がどうなってるんだ……?」
厚い黒雲が空一面を覆っており、周囲はくすんだ色の濃霧に囲まれていて、一寸先さえ視認できない。
おまけに周りの空気も異様に淀んでいて、すこぶる呼吸がしづらい。全く、最悪の目覚めだ。
「イザベラ、何処にいるんだよー!」
大声で呼びかけてみるが、やはり応答はない。これだけ他人の反応がないと、この世界に自分だけしか存在しないのではないかという、突端な発想さえ浮かんでしまう。
「イザベラ。どこかへ出掛けたのかなぁ?」
記憶は定かでないが、イザベラの顔を一瞬だけ見たということは覚えている。元気そうだったから、ひとまず安心した。
「イザベラといえば、昔はブレディと仲がよかったんだよな。今も会えばきっと……待てよ、ブレディを見つけ出せば、イザベラの居場所もわかるかもしれない!」
イザベラはブレディと仲がよかった。五年経った今でも、交流が続いている可能性はある。ブレディを探し出せば、イザベラに再会できるかもしれない。
「よし、ブレディを探そう!」
ひとまずイザベラに会うことはできた。彼女との再会も狙いつつ、一度、ブレディを探してみるというのも、作戦としてはありだろう。
適当なことを思案しつつ進んでいると、霧の薄い部分から自分のいる場所が推測できることがわかった。
結果、やはりボクが今いる場所は、迷わせの森で間違いないだろうという結論に至った。
「ここはやっぱり迷わせの森だ。じゃあここにあった洋館や、イザベラ達はどこに行ったんだろう……」
歩いていくと、今度は草を踏んでつくった獣道が現れた。間違いない、ここは一度ボビンさんとボクが通った地点だ。
「ここを通れば、帰れるぞ!」
あのときの記憶を脳に呼び起こしながら、いざその道を進もうとした瞬間。ボクの右手は謎の黒い炎にバチンと弾かれた。
「わっ!?」
声を上げて大きく後ろへ転倒。自分の目を疑いながら恐る恐る顔を上げる。道の前には悪夢に出てきそうなくらい不気味な怪物がいた。
「な、何だこいつは!」
紫色の鱗を持ったドラゴンが鎮座していた。身体は恐ろしく巨大で、眼球だけがドス黒く染まっている。
背中には六枚の双翼が広がり、ぬらりとした爪や尾の先端からは金属も溶かしそうな毒液が滴っている。
「ドラゴンは魔物の一種だから、魔王が死んだ後に絶滅したはずなのに、どうしてここに……!?」
紫色のドラゴンは我に視線を定めると、親の仇でも見つけたかのように、凶悪な咆哮を上げる。
「グオオオオオオオッ!」
奴は強烈な悪意をその身に抱き、我に襲いかかってきた。毒で染まった爪がぎらりと光る。
「うわああああっ――」
「グオオオオオオオッ!」
「――クククッ。来い、爆炎抹殺掌」
我は手の平に力を込め、強力な火炎高位魔法を撃ち放った。奴の胴に魔法が直撃、その身体はあっという間に紅色の火炎で包まれる。
「グギイイイオオオオオオオッ!」
「アハハハッ!火加減の方はどうだ!」
「おおおっ、ぐ、ぐ、ぐううっ」
「こっちも解かせてもらうぞ。解呪」
黒雲広がる空に右手を掲げ、魔法を打ち放つ。陰惨と周囲を包んでいた黒雲と霧が、今の一瞬にして消え去り、燦々とした太陽が顔を出した。
「クククッ……化け物に成り果てても、結局我を殺せなかったな。イザベラよ」
火傷を身体中に負ったドラゴンは、ゆるやかに目を閉じた。差して気にすることもない。我は次なる目標を見据え、我は荒れ果てた森を後にする。
◇
――舞台は代わり、カナリ王国のはずれにある小さな農村。栄えているとは到底言い難いその場所で、かつて英雄と呼ばれた男は、素性を隠し暮らしていた。
「のどかだなあ」
安酒をちびちびと飲みながら、青年は呟く。若い頃は武功を立てる為に暴れまわったものだが、今の平穏な生活もこれはこれで悪くない。
「ロック!」
「……ん。おお、リイナかあ」
「おお、じゃない。どうして貴方は、昼間っから酒を飲んでるの!」
「まあまあ。いいじゃないか。酒を飲むくらい。その程度の休息は、人間にとって必要不可欠なのさ」
「休息って……ロックは、ず〜っとそんな調子じゃない。休息以外の時間がどこにあるっていうの」
怠惰な男を、几帳面そうな女が叱責する。散らかった長髪に無精髭を生やしている男に対し、女の方は薄い緑色の髪を、後部で丁寧な具合に纏めている。
「いい?農夫の朝に余暇や休息なんてものは存在しないの。朝早く起きて、夜早くに寝て、しっかりと畑を耕す。それが農民の基本!わかった?」
「わかった、わかった。行くよ、行けばいいんだろう。はいはい、リイナ様のご命令とあらば」
「……何よ、その態度は。言っとくけど、年貢が払えなくなったら、困るのはロック自身なんだから!」
「ああ、大丈夫。いざとなったら、リイナの魔法でチョイチョイっと適当に誤魔化す予定だからさ」
「はぁ!?そんなズルが許されるはずないでしょ。他の農民達は身体を懸命に動かして働いているのに!」
「そんなこと言ってさ。どうしてもオレが困って、もう無理だって泣きついたら、そのときは助けてくれるんだろう?」
「…………まぁ、そうなったら助けるかもだけど」
「よし、じゃあサボろう。って、ああっ待て!オレの頭上に拳を掲げるな!せめて後一杯呑んでから!」
適当にリイナをあしらったロックは、瓶の酒を小さな盃に注ぎ、盛大に呷る。
「くぅ〜!」
「はぁ……どうしてこうなったのか。今じゃ誰が見ても気づかないでしょうね。貴方の正体が、元神託の剣のリーダー、勇者アレキサンドルだってこと」
「気付かれなくていいもんね〜。ていうか、昔の名前で呼ぶなよ。そいつはもう捨てちまったんだからさ」
盃を置き、ロックは豪快に笑った。何を隠そう彼こそが、五年前に魔王を打ち破った勇者アレキサンドルなのだが、村の周囲でこの事実を知るものはいない。
「酒気が消えたら出発しよう。ああ、そうだ。獣の糞を入れておいた壺があったろ。あれも持っていこう」
「そうね。獣の糞はいい肥料になるからね!あれを畑に撒けば今年も無事豊作を迎えら……ああああ」
会話を途中で放棄し、リイナは項垂れた。
「どうした、リイナ!?」
「おかしい、おかしいわ、私の人生!私は一流の剣士を目指して、勇者アレキサンドル様に弟子入りしたのに、なんで農民になって作物を耕しているの!?」
「リイナよ……遂に気付いてしまったか。お前の右手に握られていた聖剣が、獣の糞にモデルチェンジを果たしているということに」
「とっくに気付いてたわよ!ていうか全部貴方のせいでしょ!」
リイナは目に涙を溜めながら、強く怒鳴る。アレキサンドルは慌てて、彼女を宥めた。
「ううっ、一流の剣士になりたかったのに……」
「まあまあ、落ち着けって。今どき剣士なんて目指したって意味ないぞ。冒険者や用心棒の職にありついたところで、貰える賃金も相当低いんだぞ?」
「でも。貴方は一流の剣士を目指して、昔から修行してたんでしょう。私は貴方の噂話や、英雄譚に憧れて剣士になったのに!」
「そりゃあ、昔のオレは頑張ってたよ。だけどそれは魔王という倒すべき壁があったからだ。今は魔王も魔物もこの世にいない。剣の時代は終わったのさ……」
ロックはリイナを宥めるようにそう語ったが、彼の瞳には少しばかり寂寥の色が含まれていた。
「昔の貴方はどこに行ったの?勇者アレキサンドル様はもうどこにもいない。ここにいるのは、昼間っから酒に呑まれる、ただのダメオヤジよ!」
「おい、オヤジと呼ぶな。オレはまだ三十歳だぞ!オレを揶揄する暇があるなら、お前こそ初心に立ち返ったらどうだ」
「はぁ!?私のどこに非があるっていうの!」
「昔のリイナはそりゃ〜、可愛いかった。お呼びでしょうか。アレキサンドル様っ!って。今はただ騒がしいだけだ。あと獣の糞の匂いがする」
「私が尊敬していたのは勇者アレキサンドル様よ!今の貴方は、呑んだくれのダメオヤジじゃない!それと糞の匂いなら貴方もするからね!」
「何度も何度もダメオヤジって呼ぶなよ!結構傷つくんだからな。オレの心はガラス細工なんだからな!」
赤ら顔で涙ぐむロックに、かつての面影はなかった。リイナはうんざりして話題を変更する。
「そういえばさ。隣のバルツァ王国のヘルメオ牢の地下牢獄から処刑予定だった罪人が逃げたらしいわ」
「へ〜、罪人がねぇ」
「確か名前は、ジャックとか言ったかな」
「……ジャック?」
その名を耳にした途端。盃を片手に雄弁だったアレキサンドルが途端に硬直した。
「バルツァ王国。ヘルメオ牢。そして、ジャック」
「どうしたの、ロック?」
「別人の可能性も、いやしかし、まさか……!」
逡巡の末、ロックは決断を下した。リイナを目の端にとめ、的確な指示を飛ばす。
「リイナ。すぐにバルツァ王国に向かうぞ。出発の準備をするんだ。ヘルメオ牢か、もしくは奴が向かいそうな場所へ行くんだ」
ロックはそう言うが、彼の急激な態度の変わりように、リイナはついていけない。
「ち、ちょっと。何言ってんのロック。私達はこれから畑に行くのよ?隣の王国の事件なんて放っておけばいいじゃない。現地の人達に任せればそれで」
「あんなバケモノを放っておけるはずないだろう!」
突然激昂したロックに、リイナは気後れする。ただ黙って彼を見つめるしかない。
「オレが間違っていた。やはりあいつは追放ではなく、オレが直接この手で、殺しておくべきだったんだ……!」
ロックは大きな音をたてて、盃を机の上に叩きつけた。