15.幸福な時間
魔人オヴロは右手に、濃厚な魔力を込めた。その手が黒色の炎に覆われる。
「さらばだ。治癒師マイア」
「ジャック、な、何を!?」
魔法を撃ち放とうとオブロが身構える。その一瞬を狙って、ボクは彼から身体の主導権を奪った。
『ボクの身体を返せ。このっ!』
「ぐおっ!」
右腕が大きく宙を旋回。手の平から放たれた灼熱の黒炎弾は、飛来して部屋の天井を突き破った。
「うちの天井がああっ!」
「ちっ、失敗した!」
グレイは驚愕し、オヴロは舌打ちする。チャンスは今しかない。ボクは焦るオヴロから、身体の主導権を強引に奪い取ろうと心中で抵抗する。
「邪魔するな。ジャック。貴様は無能らしく、心の奥に引きこもっていろ!」
『ボクが無能だと。そいつは大きな間違いだ』
「何!」
『この身体は、お前の物であると同時にボクの物でもある。それはつまり、お前の使える魔法や能力もボクの物ということだ!』
「くそっ、無能の分際で小癪なっ!」
身体の主導権が、オヴロに。ボクに。オヴロに。ボクに。オヴロに。コロコロと人格が入れ替わる。
『ボクに、この身体を返せ!』
「この身体は我の物だ。邪魔をするな!」
『違う。ボクの物だ!』
「我だ!」
『ボクだ!』
操縦不能となった身体は理性を失い、床の上を縦横無尽に転げ回った。
グレイやマイアの視点からは、欲しい玩具をねだる幼児の様に映っただろう。
「ああっ、何てことだ。ジャック様が悪魔憑きになった!マイア様の病を治しに来たはずなのに、逆に病に罹るなんて!」
「静かになさいグレイ。ジャックは今、心の中で敵と戦っているのです」
「敵ですって?僕には一人で暴れているだけにしか見えないのですが」
「敵とは、即ち自分の心。ジャックは今心の中にいるもう一人の自分と戦っているのです」
「も、もう一人の自分!?僕には何が何だか訳がわかりません!」
やがて、動きが止まった。身体の中で二人の決着がついたのだ。手をベッドに掛け、床から立ち上がる。
「勝負がついたのですね。ジャック」
「ジャックさん、しっかりなさってください。お願いですから、家を破壊しないでくださいね!」
額の汗を右手の甲で拭い払う。二人を安心させる意味を込めて柔和な笑みを見せる。
「大丈夫だよ、二人とも。ボクは平気だ」
「おお、ジャック様!心の中に潜むもう一人の自分に勝利なされたのですね」
「ジャック、その様子だと心配は要らないようですね。ああ、よかった……こほっ、こほっ」
「ボクの中に潜む悪魔は鳴りを潜めたよ。心配を掛けてごめん。すぐにマイアの病を治してあげるからね」
「ジャック、本当にそんなことが可能なのですか。一流の治癒師である私でも治せなかった病を。こほっ、こほっ」
「いいから見ていて」
ボクは右手をマイアの肩へと当てた。病の位置を特定し魔法を放った。
「…………もう平気なはずだよ」
「そうですか。あまり実感が湧きませんが」
「えっ、本当にこの一瞬で治ったのですか!?流石に早すぎませんか!マイア様、気分はいかがですか?」
マイアの顔色は格段によくなっていた。一見すると変化はないものの、近づいて見ると、眉間の皺は消失し、頬には薄らと赤みが差しているのがわかる。
「気分は……そうですね。凄くいいです。今までの苦しみが嘘のように、身体から消えていますね」
「マイア様、それではやはり、病から回復なされたのですね。やったあっ!」
グレイは歓喜の声を上げている。マイアが病床から立ち上がったのが、よほど嬉しかったのだろう。
「慢心はいけません。完全に治ったのかは、まだわかりませんから。それにしてもジャック、貴女は私の身体に、一体どんな魔法を施したのですか?」
「転移魔法だよ」
「転移魔法!」
そんな単語が出てくるとは、想定していなかったらしい。マイアは一瞬思考し、ぽんと手鼓を打つ。
「……思い出しました。ある物体や生物を別の場所に瞬間移動させる高位魔法ですね。貴方がそのような魔法を扱えたとは。でも、その魔法を使用してどのような施術を?」
「マイアの病は恐らく、体内に溜まった悪質な魔力が原因だったのさ。だから、転移魔法を使ってそれを体外に転移放出したっていうわけ」
マイアはなるほど、と小声で呟く。転移魔法の応用というのは、彼女にとっても盲点だったらしい。
それもそのはずで、治癒魔法以外の魔法を身体の傷や病を治すことに使用することは本来なく、大変に珍しい施術方法なのだ。
「ジャック、本当にありがとう。この恩は必ずお返し致します」
「べ、別に頭を下げなくてもいいよ。ボクらは昔の仲間じゃないか。それに転移魔法だって、他にも扱える人間はいるし」
「確かにいます。ですが、高位魔法を扱える者の人数は世界的に見てもそう多くはない。もし今の私がこの方法を思いついたとしても、術者の募集に手間取って、試す前に死亡していたでしょう」
マイアはベッドの上で深々とお辞儀した。それに続くように、慌ててグレイがお辞儀をする。
「ジャックさん。マイア様の病を治癒してくださって本当にありがとうございました!何か手厚いお礼をしたいところですが、あいにく我が家には財がなく、暖かい食事程度しかご用意できないのです」
「お礼なんていいよ。ボクは金銭が欲しくて、助けたわけじゃないからさ。それより暖かい食事を用意してくれるって本当?楽しみだなあ!」
「わかりました。すぐに用意を!」
「あ、その前に空き部屋とかないかな。荷物を置いておきたいし、少し休みたいんだ」
「承知しました。す、すぐに用意を!」
グレイは即座にドアを開ける。
「じゃあ。また後で会おうねマイア」
「はい。食事の時間に。貴方とは語りたいことが山程ありますものね」
「うん」
マイアが微笑で手を振ったので、こちらも微笑を携えて、手を振り返した。
その後部屋を出て、グレイに連れられ家の奥に進んでいく。廊下の突き当たりを左に曲がったところにある一室にグレイは案内した。
「こちらのお部屋です。ジャック様」
「ここか……うーん、何ていうか」
一言で言えば、汚なかった。窓はひび割れ、障壁は一部分剥がれている。床からは、ネズミの鳴き声。試しに床の表面に人差し指を滑らせてみると、埃がごっそりと付着してきた。
「見苦しいところで大変申し訳ございません。すぐに掃除しますから!」
「いや、いいよ。ここしか部屋がないのなら、ボクが我慢すればいいだけだから」
「しかし、恩人をこんな部屋に泊らせたなどということがあっては、こちらの面目が立ちません!」
「平気だってば。ボクはこういう部屋で暮らすのに慣れてるから。それよりも食事、食事っ!」
「はあ。承知しました。では少しの間ご辛抱お願いします。食事の後、すぐ掃除に上がりますので!」
グレイはすぐに出て行った。慌ただしい様子から察するに、急ピッチで料理に取り掛かるのだろう。
――部屋の周辺に誰も居なくなったことをよく確認して、心の中にいるボクは彼に問いかけた。
『で。オヴロ、何故マイアの病を治癒したんだ?』
「……」
先程まで常に表に出ていたのは、ボクじゃない。魔人オヴロだ。苛烈な人格争いに勝利したのはボクではなく、オヴロだったのだ。
にも関わらず、オヴロはマイアを殺さなかった。それどころか、彼女の病を治癒した。
ボクのふりをして、マイアを殺害する絶好のチャンスだったのに、どうして彼女を助けたのだろうか。
「お前にマイアを助けるメリットがあったとは思えないんだけど。どうしてマイアを助けた?」
オヴロはボクの問いかけに対し、複雑そうな声音で応える。
『我にも……わからない』
「わからない?」
『ああ。過去の記憶か何かが。我の邪魔をした。何か強い思いが、我の人格にストップをかけた」
「過去の記憶、って何だ。ボクにも関係することなのか。きちんと説明してくれよ」
『何度も言わすな。我にもわからんのだ。ただ何か大事なことを、我は失念しているような気がする』
我はもう少し考える、そう言い残してオヴロは心の底に再び引きこもった。
◇
マイアと従者のグレイを加えた今晩の夕食は、とても楽しいものになった。
地下牢獄の檻の中で常に孤独だったボクには、二人と共に交わす何気ない会話や、ほっこりとした二人の笑顔が、貴重な宝物のように感じられた。
肝心の食事の味はといえば、使用されていた食材はお世辞にも豪華とはいえない。けれど、グレイの調理の腕で美食と呼ぶに相応しい料理に仕上がっていた。
「美味しい。これも、これも美味しいよ!」
「ジャック様は恩人です。じゃんじゃん食べてください。お代わりもしてください」
「じゃあ、これお代わり。これも、これも、これもお代わり!」
「はい!」
暖かい家庭料理や人の笑顔といった物に、疎い生活を送っていたせいだろうか。
「ジャック様。どうされましたか?」
「うん。な、なんでもないよ」
涙がポロポロと溢れる。二人がくれた幸福な時間がボクの心をじんわりと温めてくれた。
だが、ここで泣けばせっかくの雰囲気が崩されてしまう。ボクは涙を拭って食事を続けた。あの言葉を最後に、オヴロが表に出てくることはなかった……。
◇
夕食が終了し、僅かな会話の後、ボク達はそれぞれ自分の部屋へと別れた。
幸いにも、すぐにグレイが部屋を掃除しに訪れた為か、恐怖や孤独感がぶり返すということはなかった。
食事が終わり、人々が寝静まる時間になる。だがボクはベッドではなく、マイアの寝室の前に立っていた。
「マイア、起きてる?」
ボクは、マイアの部屋のドアを叩く。
「……流石に寝てるかな」
「はい、起きていますよ。ジャック」
「おお、そう。そうか。起きてたんだ。グレイは?」
「あの子は自分の部屋で寝ているでしょう。私の看病はしないでも大丈夫だと、直接伝えましたから」
「今日は快眠だろうね。仕事が多かっただろうから。美味しい夕食作りに、部屋の掃除に、天井の修理に」
「ふふっ、嬉しいやら忙しいやら。あの子にとって忘れられない日になったでしょうね」
ボクはドアを開けた。マイアはベッドの上で微笑んでいる。ネグリジェ姿のマイアを、薄い月の光が照らしていた。
肌の色を見ると、病の気配は僅かに残っているものの、体調はかなりよさそうだった。
「貴方がここに来ることは、わかっていました」
「そっか……」
「お互いに話しましょう。過去のことを」
「うん」
意を決してボクから話し始めた。ここに来るまでにいたる残酷な過去の話を。