世界を刻む時計塔
世界はいつだってかみ合わない。だから長い間、かみ合っていないことにすら気付いていませんでした。
目の前にある歯車が、いつでも正確に寸分違わずかみ合って、するすると廻り、がちんと動く様を眺めていると、この上もなく、なんの問題もなく世界は廻っているように思えるのです。
街のどこからでも見える、その古く高い時計塔は、神々の時代に刻を司る神が使いの精霊たちとこの地のご先祖様たちに作らせたと言い伝えられています。
世界の刻を創る神聖な地としてだんだんと人が集まり、栄え、今ではなかなかの都会になっています。
足早に歩く街の人々がふと顔をあげれば、いつでも正確に時を刻む文字盤がみえました。
掃除夫の少年が、今日も水の入ったバケツと少しの掃除道具を持って、三百段の階段を休み休み登っていました。文字盤や歯車のある部屋につくと、まず床や壁を磨きます。古い床や壁とは対照的に、一分毎にがちんと音をたてる大きな歯車や、するすると動く小さな歯車は、まるで今完成したものかのように、ピカピカと金色に輝いています。
これは精霊の魔法によるものと考えられていました。古から動き続けているこの時計はただの一度の整備もなくとも、ただの一度も止まったことがありませんでした。
部屋の中の掃除が終わると、少年は文字盤の窓からひょいと外に出ました。文字のちょっとした出っ張りを足がかりに、軽業師のように軽快に移動しながら長いモップで文字盤を拭きます。とはいえ、鳥のフンなどで特に汚れた箇所だけです。ちゃんとした掃除はもっと大掛かりに、ロープを使って何人もの人で行います。
外の掃除も終わって、よし、と少年が部屋の中に戻ろうとした時です。つい、いつもの仕事ということで気の緩みがありました。少年は窓を掴み損ね、それに慌てて足まですべらせてしまいました。
落ちればひとたまりもない高い高い塔です。背筋にぞわりと冷たいものが走り、なにかにすがろうと手を伸ばすも空を掴みます。
しかし、不思議なことにそれ以上落ちることはありませんでした。そして、自分の体もまるで動かせないのです。
窓からひょこっと覗いた、それはそれは美しい少女が、少年の固まった手をとり、ひっぱりました。少年は落ちそうになったその姿勢のまま、ごろりと床に転がりましたが、動かなかった体がそのとたんに開放されます。けれども、時計塔を登り始めた時からずっとずっと流れ続けていた歯車の音がまったく聞こえないことに気づきました。ひょっとして耳は働いていないのかと思った時、少女が「ああ、よかった」と言ったのが聞こえました。
にっこりと微笑みかけた少女は金色に光り輝くようにも見えました。
「あの、ありがとう……。君は?」
「私は、歯車を動かす刻の精霊です」
「いつもここにいたの?」
「ええ」
「ぼくは毎日のようにここに来ていたけど……いつもどこにいたの?」
「あなたがたの刻の流れの中に、私はいないんです。今はあなたを助けるためにちょっとだけ刻を止めているから。でも、もう戻さなければ」
「また、会える?」
「本当は、時間を止めるのは、いけないことなの。だから、もう永遠にお別れ」
がちん、と音が鳴り、少女の姿は見えなくなりました。
この夢だったかのような出来事に、少年はとらわれました。寝ても覚めても、もちろん時計塔に仕事に行くたびに、少女のことを思い出しました。あの、この世の誰よりも美しい少女にどうしても、どうしても、もう一度会いたくてたまりませんでした。魅惑の魔法にでもかけられたようでした。刻の精霊を一目でも見てしまえば、きっとこの少年でなくてもこの魔法にかかってしまったことでしょう。それほどまでに、彼女は美しかったのです。
少年はいつもの小汚い服ではなく一張羅を着て、三百段の階段をのぼりました。もう一度だけ、それが大罪であっても、彼女に会って、この想いを伝えたい一心でした。
まずは、綺麗にかみ合った歯車を止めてみようと試みました。隙間に棒を噛ませてみたり、部品を外そうとしてみたり。けれども金色の歯車は大きいものから小さな部品に至るまで、びくともしません。
それならば、と、少年は文字盤の窓を開けました。強い風が吹き付けましたが、それにまけじと枠に足をかけます。あのときのように、ここから落ちれば。
地面を背に、窓枠から手を、文字の出っ張りから足を離しました。けれども、少女の言葉が覆ることはありませんでした。少年をとらえる魔法は三秒で解けました。
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