1-8 お掃除妖精さん
僕たちの屋敷にはお掃除妖精さんがいる。
ひらひらの三角巾をつけて、かわいいエプロンをして、ばたばたと屋敷を駆けまわりながらありとあらゆるところをお掃除してくれる妖精さんだ。
お掃除妖精さんは僕が掃除をはじめるとどこからともなくあらわれて、僕の掃除を手伝ってくれる。お掃除妖精さんと一緒に掃除をするときはとても楽しい気分になる。
「さあお掃除妖精さん。今日はどこから攻めますか」
「やっぱり自分たちの部屋からですね!」
スズネは右手に持ったはたきを左の掌にぱしぱし叩きつけながら云った。
はたきについたほこりが舞った。
お掃除妖精さんはかならず自分たちの部屋から掃除する。もし部屋をあとにまわしたとき疲れのせいで掃除がおろそかになると嫌だからだ。
すべて同じくらい綺麗にしてほしいとは思うけど、そこは僕がサポートすればいいだけだったし、スズネは身体に似合わず体力があるからお掃除の終盤になっても元気よく作業をしてくれるのだった。
「お掃除お掃除ー」
スズネは変な歌を歌いながら中空を飛ぶようにスキップして二階にある自分たちの部屋へ向かった。
まずお掃除妖精さんが入ったのは僕の部屋の隣にあるスズネの部屋だった。
スズネの部屋は実質剛健という感じの部屋だ。
ちいさなデスクと椅子に、とても質のいいなめらかな触感の絨毯、そして一番目を惹くのが壁際にある二竿の桐箪笥だ。
そのほかにはなにもなく、壁にはポスターもかかっていないし時計すらもない。
スズネは自分の部屋で踊りの練習をするから、あまりものがたくさんあると手をぶつけて落としたりすることになるから、このようながらんとした部屋になっているのだった。
「よっと!」
スズネは勢いよく窓を開け放った。あまりにも勢いがよすぎたため、そのちいさな身体が前のめりになって窓から落ちそうになった。
「気をつけて!」
僕はスズネの後ろ姿をすっぽりと抱きとめて室内に引き戻した。
「ごめんなさい」
てへへ、とかわいらしく悪戯に笑って掃除をはじめた。
お掃除妖精さんはこのようにハイテンションだ。
スズネの部屋はがらんとしているから掃除が楽だ。ささっと綺麗にしてしまって次はムニラの部屋にやって来た。
ムニラの部屋にはいくつもの絵があった。額に入れられて壁にかかっているものや、イーゼルに立てかけられた描きかけのもの、壁にもたれかけさせてあるもの。まさに絵描きの部屋といった感じだ。
「絵の具の匂いがします」
「スズネの部屋はお香の匂いだったよ」
「え、ほんとうですか? べつにお香を焚いたことはないんですけど」
「たぶん着物とかに染みついているんじゃないかな」
「自分じゃ気づきませんでした」
絵描きの部屋を掃除するのは難しい。というのも絵というのは繊細なものなので、それにはたきをかけてしまうと絵が落ちてしまうのではないか、そうでなくともはたきの欠片なんかが絵についてしまうのではないかと思われるからだ。
だから僕たちは絵を避けるようにして掃除をする。しかし絵を避けたとしてもムニラの部屋は掃除のし甲斐がある。
簡素なビューローを開けてみると、机になった部分に絵の具が飛び散っている。きっとこのビューローでもちいさなサイズの絵を描いたのだろう。
また窓枠に目をやるとそこにも絵の具が飛び散っている。
ムニラとスズネと僕の部屋は屋敷の裏側にあたるため、窓のすぐそばに道が見える。この眺めは奇妙なものなので、たしかに窓際で絵を描くというのは不思議ではない。
はたまた扉に目をやるとそこにも絵の具が飛び散っている。これは意味がわからなかった。しかしムニラはどこでも絵を描けるので、意味がわからなくとも不思議ではなかった。
そんなこんなで僕たちは雑巾でムニラの部屋のほとんどすべてを拭った。
でも絵の具は落ちず、この家ができたときからそこにこびりついていたんだぞという顔で居座ったままだった。
次はヘンリーッカの部屋だ。
彼女の部屋は年頃の少女のものらしく、壁には音楽のコンサートのポスターや、映画のポスターが貼ってあったり、ムニラにもらった絵がかけてあったりする。
デスクには楽譜が何枚か広げられていて、どういう曲なんだろうかと思って見てみるのだがまったくなにが書かれているのかわからなかった。
音符は文字と同じ記号のはずなのに、あまりにもルールがかけ離れている気がする。
この部屋には大きな楽器はない。チェンバロは階段下だし、それ以外の大きな楽器は会場に備えつけてあるものや仲間のものを演奏するからだ。
だからこの部屋にはちいさな楽器がたくさんある。ヘンリーッカが鍵盤楽器以外に好むのは笛だった。
いくつもの笛はケースに入れられてクローゼットのなかに仕舞われている。
僕が見たことのある笛は、ピッコロ、フルート、リコーダー、名前を知らない遠くの国の音がする笛だ。
でも掃除のためにスズネがクローゼットを開けてみると両手の指では数えきれないほどの楽器ケースが並んでいて驚いた。笛だけではなくヴァイオリンが入っているであろうケースもある。
ヘンリーッカがヴァイオリンを弾く姿は見ものだ。
ちいさな顎で胴を押さえて一生懸命弾くのだ。それはとてもかわいらしい姿だ。でもそれだからこそとても美麗な音を出すのだ。
だから僕たちはヘンリーッカの部屋の隅々を繊細に掃除した。
お次はフェリシアの部屋だった。
彼女の部屋には本棚がふたつと、学者が使うような重たいデスクとそれに似つかわしくないかわいらしいサイズの木製のイス、そして床には本となにか書きつけられた紙が散乱している。
あとはクローゼットにたくさんの服や帽子や靴がしまわれている。
フェリシアが女の子たちのなかで一番都会的で、お洒落さんだ。
「うーん、本の匂いですねえ」
お掃除妖精さんはうっとりしながらそう云った。
本の匂いにはいくつか種類がある。新しい本の匂い、古本の匂い、美術書の匂いなど。
フェリシアの部屋は古本の匂いで満ちていた。
古本の匂いは埃やカビの匂いに近い。だからフェリシアの都会的な振る舞いと、この匂いにはギャップがある。
けれど、この埃っぽい匂いが根底にあるからこそ彼女は都会的なのかもしれない。
フェリシアならきっとこう云うだろう。都会の人間が着る服は新しく生まれてきたものではなく、古い服をいったん解き、その糸を織りあげて作ったものだから、と。
次は僕の部屋だったが、特筆して書くべきことがない。
だから最後のベルの部屋だ。
彼女の部屋は雑多だった。色々なものがたくさんあるのだが、それをひとことで云い表すことができない。
「あっ、ムニラが描いた絵が飾ってあります」
その絵は一見抽象画のように見えた。けれど、絵から離れて全体をぼやっと眺めるようにして見てみると、僕たちの屋敷が描かれているのがわかった。
とてもいい絵だ。
棚にはいくつか本が積まれている。題名を聞いたことのないベストセラーだ。
他には遠い国のちいさな人形や、木彫りの熊、お洒落な表紙のノート、手作りの黄色い花の髪飾り、なにかの包装に使われていた皺だらけの白いリボン、魚の形をした中くらいのガラス瓶、熊か犬かわからない絵が描かれたマグカップとそれに入っている色や形のさまざまなペン、ただの石、誰かからの手紙、書きかけの便箋。
たくさんのものが整列することなくただ置かれている。
これらはベルの持ち物であるというだけであって、ここからベルがどういう人間なのかわかることはない。これらのものがベルの血肉になっていないからだろう。
だからほんとうの意味ではこれはたくさんあると云えるのだろうかと思ってしまう。
この部屋は宇宙のようだ。なにもかもがあり、そしてそれらに手が届くことはない。ただ眺めているだけ。
けれど、それが真実のありかたなのかもしれない。
スズネが棚にはたきをかけた。死蔵されていた埃が生き返る。窓を開け放つと、埃はいっせいに外にでかけていく。そしてそれらが帰ってくることは一生ない。
二階の掃除を終えたお掃除妖精さんと僕は雑巾を手に持って、階段を降りながら手すりを拭いていった。
手垢がつくのか、それとも木の色が移るのかわからないが、雑巾がとても汚れるのだ。
「ふふん」スズネは雑巾を広げて汚れを満足そうに確かめている。「これこそが掃除の醍醐味ってやつですね」
僕はガラス窓を拭くのが好きだ。窓はあまり汚れないので、あまりきれいになったという実感はないのだけれど、すべての窓から外を眺めるというのは普段しないことだからだ。
お掃除妖精さんも窓を拭きたがるけどぜんぜん身長が足りないため、下半分を拭き終えると僕にバトンタッチする。彼女はその行為が好きみたいだった。
そのようにしてお掃除妖精さんと僕は屋敷のすべてを掃除してゆく。
寝室、玄関、玄関ルーム、階段下のチェンバロ、リビング、キッチン、ダイニング、サンルーム。
そうして掃除が終わると、疲れた僕たちはサンルームでお茶をすることにしている。
「綺麗になったテーブルで飲むお茶はおいしいですねえ」
掃除で疲れきったスズネはテーブルに身をだらしなく投げだしてクッキーをつまみウサギのようにすこしずつ口に運んだ。
ヘンリーッカは掃除を手伝わないかわりに、掃除の日はかならずクッキーを作ってくれる。それも、スズネが大好きなチョコチップクッキーだ。
ベルは気が向いたときと、僕がやろうと云ったときに手伝ってくれる。
フェリシアは気まぐれだから手伝ってくれるときと手伝ってくれないときがある。また、熱心にやっていたかと思えば、掃除の途中で消えてしまっていて、掃除が終わったあとにあらわれるといったこともある。
「あら、もう終わったの?」とサンルームに姿をあらわしたシアの表情はあまりにも演技臭くて怒る気する失せてしまう。
そしてムニラだけど、彼女が掃除をすることはない。消すのは不得意、と云うだけだ。
気づけばスズネが、すーすー、と寝息をたてて自分の腕枕で眠っていた。
夕日がサンルームにたくさん差し込んでいてとてもまぶしかった。
スズネの白い肌がひときわ白く輝いている。
僕は彼女と同じように目を閉じてみた。瞼の裏がオレンジ色にまぶしく光って、そわそわするような落ち着くような気持ちになった。
こんなに眩しいのによく眠れるなあ、と思いながらふたたび目を開ける。
僕はおつかれさま、と小声で云いながらスズネのほっぺたをつついた。疲れにやわらかく沈んだ眠りだ。
口からは涎が一筋垂れていた。