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さよならを云って  作者: 久慈くじら
第一章 プロローグ
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1-6 世界じゅうに等しく降りそそぐ(後)

 夏のはじまりの日だ。朝からヌードルみたいな雨が降っていて、スズネが玄関の扉を開けると生暖かい土の匂いが立ち昇ってきた。スズネは身震いをしてうれしそうに笑った。


「ほんとに外に出ますよ? いいんですよね?」

「うん、ヘンリーッカにお風呂を頼んでいるから、存分にこの雨を楽しめるよ」


 そう云うとスズネは一目散に駆けていって、いつも体操をしている狭い芝生部分を足裏でたしかめるように練り歩いた。


 それから顔を上に向けたり、腕を伸ばし手の平を空に向けたり、片足立ちになり身体を白鳥のように広げたりして雨を全身に受けた。


 スズネの体操は決まった動きがなく、その日そのときに動くままにしているという。その日の動きは今までのものとはまったく似つかないもので、スズネが雨の世界そのものになったみたいだった。


 彼女は夢中で夏の雨の日と戯れた。

 あまりにも夢中になっているためか、いつもならもう切りあげている時間をすぎてもまだまだ体操は続きそうな感じだった。だから僕は大声でスズネに帰ってこいと呼びかけた。

 でも雨のせいか、それともほんとうにスズネは雨の世界になってしまったのか、僕の声に気がついた様子はなかった。


 雨の音は、屋根や、窓、道路、水たまり、池、バケツなどに雨が当たったときの音だけで作られているのではない。

 雨の日に僕たちが生活している湿気った音、窓を閉める音、いつもよりトーンが違う声、本のページをめくる音、そういった音があわさって雨の音となる。


 だからスズネは僕の声を聞いても反応できなかった。僕の声だって雨の音の一部だからだ。でも僕にはそれがどのような感覚なのかはわからなかった。


 スズネをそのまま放っておいたら風邪をひいてしまうので、僕はしかたなく雨の降る世界に一歩踏みだした。

 芝生に足を踏み入れるとやっぱりそこはぬかるんでいて、あまりいい感触ではない。サンダルを履いた足はすぐにびしょびしょになるし、土がサンダルと足のあいだに入るしで気持ちが悪かった。


 芝生のまんなかで手を広げて雨に打たれているスズネに近づき、顔の前で手を振る。


「はやく帰ろう」


 僕の言葉を聞いたスズネはにっこりと笑って、目の前を左右に動いていた僕の右手を取った。手を繋いで家に帰りたいのかなと思ってスズネの手を引っぱろうとすると、反対にスズネに強く引っぱられた。

 あまりにも強い力だったので足をもつれさせながら彼女についてゆく。


 スズネは楽しそうに笑いながら僕を芝生の隅々まで連れていった。行く先々で立ち止まり、僕にこういうポーズをしろと身振りで示した。

 僕は最初はそれにしぶしぶつき合ってあげた。これが終わらないと家に帰ろうとしないだろうから。

 でもスズネと同じ動きやポーズをしながら雨に打たれていると、芝生のぬかるみや、生ぬるい雨が全身にまとわいついてくる感触が気持ち悪いものではなくなっていった。


 好悪の感情がなくなり、これが夏の朝に雨に打たれることなのだと、さらには自分がその夏の雨なのだと感じられるようになってきた。それから僕の感覚はぐっと広がっていった。雨はこの町に等しく降りそそいでいた。広場にも、住宅街にも、礼拝堂のある丘にも、森と湖にも、世界の果てにも。


 嬉しそうに叫ぶ男の子が広場を駆けてゆくのを母親に怒鳴られているのがわかる。その子供はもちろんびしょ濡れだ。しかしパン屋の軒先で雨をしのごうとする母親もやはり肩や靴先を濡らしていた。

 母親は溜息をついて、細長いパンをバッグから取りだした。パンはパンの三分の二ほどの長さの細長い紙袋に入れてあった。母親は紙袋が被っている側を空に向けバッグに突っ込みなおした。それからもう見えなくなってしまった息子が駆けていった道を早歩きで帰っていった。


 そんなふうにして町のいくつもの様子を感じとっていると、ふとシャツの裾を引っぱられた気がした。隣を見るとスズネが僕の顔を見あげていて、苦笑しながらこう云った。


「そろそろ戻らないと風邪をひいてしまいますよ」


 あの夏の日の出来事はずっと僕の記憶に残っている。雨が降るたびにあの感覚のことを思いだし、スズネはあんな感覚を毎日味わいながら生きているのだと感慨深くなる。

 もしスズネのようになれたら毎日が新鮮なんだろうな。


 でも僕の生活だって劇的ではないにしろ、毎日が同じというわけではない。こうやっていつもと同じベッドの上で朝を迎えることも、毎日すこしずつ違っている。


 今日のベッド上にはベルとムニラとヘンリーッカがいた。スズネは体操、フェリシアはどこかにでかけたのか、朝食を食べたりリビングでまったりしていることだろう。


 ベッドの上にいる三人のなかではヘンリーッカの寝相が一番よくない。

 僕たちと同じ方向に頭を向けて寝入ったはずなのに、朝になると僕やベルたちの足を枕にして寝ている。ベッドの下で寝ていることだってよくあるし、涎だってたくさん繰る。

 それなのに本人は寝相の悪さを気にした様子はなく、起きてきたあとはあたかも健やかに寝ましたよという顔で一日をはじめる。


 今日のヘンリーッカもやっぱり上下が反転していて、ベルの足を抱きまくらにして安らかに眠っていた。なにかを食べる夢でも見ているのかベルの脛をかじっている。

 それをしばらく眺めているとかじられているのを不快に思ったベルが目を覚ました。

 彼女はこんなことを云った


「北極を散歩していたらサメが海から急にあらわれて私たちを食べようとしたの。足に牙が触れたところで目が覚めてよかった。サメってすんごく怖いのね」

「おはよう。きっとそのサメの名前はヘンリーッカだよ」

「え?」


 僕の言葉を聞いたベルは首をさっと回して足元を見ると、脛をかじるヘンリーッカをみつけた。このっ、と声を荒げたベルはヘンリーッカの頬をひっ掴んでぐにぐにとパンをこねるみたいに扱った。


 頬を遊ばれているヘンリーッカはうめき声をもらすがなかなか起きる気配はなかった。

 最初は怒りで荒く頬を引っぱっていたものの、決して起きようとしないヘンリーッカを見ているとしょうがないなあ、という気持ちになってきたのか、だんだんと優しい表情と手つきになっていった。


 赤ちゃんのぷにぷにほっぺを触るように、ヘンリーッカの頬を人差し指でつつきながらベルはこう云った。


「ヘンリーッカに足をかじられているだけなのに、行ったこともない北極に行って、会ったこともないサメに足をかじられるだなんて、夢ってほんとに夢見がちよね。あなたはどんな夢を見たの?」

「ベルとお買い物デートをする夢かな」

「もう、もうすこし夢ぐらいは夢見なさいよ」


 そう云うベルの頬は、触られていないのにヘンリーッカの頬みたいに赤くなっていた。

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