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さよならを云って  作者: 久慈くじら
第一章 プロローグ
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1-4 春が遊びに来る家

 しばらく四人でお茶をしているとベルがこう云いだした。


「そういえば、シアはこういうときは絶対にあらわれるのに。いったいなにをしてるのかしら」

「ムニラがどこかでぼうっとしてるのは想像できますけどね」


 ムニラが作品を描くのはだいたいは昼間だ。彼女の作品は抽象画なので、風景を見たり人物を見たりしながら描くものではない。だからどこにもでかけずに家のなかだけで描けるものだと思うのが普通なんだけど、彼女は基本的には屋外で風景を見ながら抽象画を描く。不思議な話だ。


 抽象画は心象を描くものじゃないの? とムニラに訊ねたことがある。風景を見ながらじゃなくても描けるだろう?

 するとムニラはこう答えた。


「心象は自分のなかだけで作られるものじゃないから」


 たしかにそうだ。自分のなかから完璧にオリジナルなものが出てくることなどない。いつかどこかで見たイメージや、誰かから聞いたものなど、自分の人生において出会ってきたものすべてが混ざりあったものが心象となる。つまりは心象とは生き様のことだし、それを通して出てくる作品もまた生き様なのだ。


 それじゃあ夜に外を眺めながらぼうっとしてるのはなにをしてるの? なにも見えないでしょ?

 今のわたしのテーマは「なにも見えないことなんてない」だから。


 そう云うとムニラはまた窓の外の闇夜を眺める作業に戻った。その瞳は深い紺色をしていて、いつかどこかの哲学者が深淵と呼んだもののように思えた。


 その瞳がなにを見ているのかを知れる日は一生訪れない。誰だってそうだ。きみだって自分以外の誰かがなにをどのように見ているのかを知ることはない。

 でも僕たちには幸いにも脳みそと、ある程度自由に動く手足と、複雑な音を出すことができる喉を持っていて、それを動かしたり言葉にしたりなにかを作ったりすることで、誰かにたいして自分はこういうふうに世界を見ているんだぜ、と伝えられる。


 そして他人がどういうふうに世界を見ているのかを知ったとき、僕たちは他人に親しみを覚える。もちろん反感を抱くことだってあるだろう。でも反感を抱くということは、自分と相手の世界の見方の差異をよく理解しているからではないだろうか。


 相手についてなにも知らないままでいるときは、あいつはよくわからん、なに考えてやがんだよ、人間じゃねえんじゃねえか? というような気分になる。それこそ「なにも見えない」ままだ。


 でも、ちゃんと知ることができたら?


 もし自分にとってあいつが嫌なやつだったとしても、嫌な理由がわかる。

 にんじんが嫌いだったとして、嫌いな理由がわからないとずっと嫌いなままだろう。でも匂いが嫌だと知ったとしたら、にんじんの匂いを抑えた料理だったらもしかしておいしく食べられるかもしれない、と工夫できる。もしそれでもだめだったなら、にんじんの匂いはきつすぎるんだな、と諦められる。そして他人にもそうやって説明することができる。


 僕はにんじんの匂いがどうしてもだめなんだよ。どういう調理をしても一緒だった。きみはにんじんの匂いはいける口なのかい?


 なにが好きか、なにが嫌いか、というのが僕たちを作っているのではない。好きなものがどうして好きなのか、嫌いなものがどうして嫌いなのか。その「どうして」の積み重ねが僕たちを作っている。

 その「どうして」が僕たちのそれぞれの細やかな性格の違いなのだ。


 だから好きなものが一緒だったとしてもどこかしらすれ違うことはあるし、好きなものが違ったとしても、「どうして」好きなのかが一緒だとぴったりくる。

 僕が彼女たちと一緒にいるのは、その「どうして」がぴったりだから一緒にいるのだろう、と思う。


「ん、やっぱりこういう夜に飲むのは正解だったかも。とてもいい気分だわ。冬眠から遅く目覚めた子熊の目の前にお花畑が広がっていて、べつにお花は食べられないから好きではないんだけど、なぜかとても健やかな気持ちになってるって感じ」


 カモミールティーをひとくち飲んだベルは気持ちよさそうに目を細めてそう云った。彼女のその姿を見ながら飲むカモミールティーは、いつもよりさらにおいしかった。


「へえ、ちょっと長すぎるけどいい比喩じゃない」


 夕食が終わったあとどこかに姿を消していたフェリシアがリビングにひょっこり現れてそう云った。もうパジャマに着替えて髪も濡れているのでお風呂に入っていたのだろう。


「ほんと? 詩人に褒められるとうれしいわね」


 それからベルは頬の緩みが抑えられずによによと笑いっぱなしのままカモミールティーを飲みクッキーを食べた。カモミールティーはいつにも増していい香りだった。


 ふと、夜という恐ろしい暗闇であっても、昼間の空気と同じように春の花の香りをめいっぱい蓄えているのか気になった。

 誰にも気づかれないようにリビングから一番近い窓までゆき、音を立てないように開けた。するとすこしだけひんやりとした風がゆったりと入ってきた。ちゃんと香った。夜風はさまざまな色の花の香りを乗せて夜の町をゆっくりと覆っているようだった。

 どことなく夜が優しいもののように思えた。


 窓を開けたままソファに戻ってみんなとお喋りをした。そのうち僕たちの屋敷にも春の夜風の香りが満ちていった。

 最初に気がついたのはヘンリーッカだった。


「なにか、懐かしい匂いがしない?」

「ほんとね、どこかで嗅いだことのあるような」とベルは首をひねって考えている。

「どこかでというより今日の昼間に嗅いだ香りよね。たぶんこれは春の香り。きっとあたしたちのあまりにも春めいたお茶会に嫉妬して遊びにきたのよ」


 フェリシアはそう云い、僕の顔を数瞬見ながらにっこりと微笑んだ。

 僕のいたずらはシアにだけはばれているのかもしれない。でもこれが僕の些細ないたずらであろうと、春が屋敷にやってきたのは間違いのないことだった。


 家は外と内とを隔てる。だからずっと家にいると外の変化を知ることはない。時が止まったように。なにもかもが永遠ではないこの世界において、家は人間に永遠を見せてくれるものなのかもしれない。だからこそ聖域であって、安心する場所なのだ。


 しかし僕たちは文明の生き物だとしても、やっぱり自然の生き物でもあって、春や、陽射しや、澄んだ空気になんの理由もなく惹かれるし、冬や、暗闇や、夜になんの理由もなく恐怖心を抱く。

 もしそれに自覚的になって、そしてそれを今日みたいに楽しむことができれば、僕たちはいつまでも楽しく生きていけるのかもしれない。

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