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さよならを云って  作者: 久慈くじら
第一章 プロローグ
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1-3 いつもの夜

 僕たちは夜の時間が好きだけど、暗闇はたしかに怖い。

 屋敷の二階の廊下の大きな窓から表を眺めてみると、昼間だとはっきりと見えるちょっとした芝生さえまったく見えないし、先にある他の家だってぽつぽつと灯る火がなくなってしまえば、そのおぼろげな輪郭すら暗闇に融けてしまう。


 そのような暗闇を眺めているとあるはずのないものが潜んでいるのではないかと想像してしまう。屋敷の周りには黒い怪物がいて、家から出てきた子供を襲って食べる。だから僕たちは家から出ることはない。


 でも家にいる限りは安全だ。ここには灯りがあるし、自分以外の人間の気配もある。

 この安心感は、なぜか昼間にみんなで屋敷にいるときでは感じられないものだ。夜だからこそ僕たちは家に安心感を覚えるのだ。

 だから夜になると僕たちはなんだか落ちついた気分になって自分たちの仕事や、お喋りや、新しいことなどにとりかかる。


 夜ご飯を食べたあとのヘンリーッカのやることはいつも決まっていた。お腹が満ちているという陶酔感のまま階段下までゆき、チェンバロの前に置かれたスツールに腰掛ける。一曲演奏する。


 この一曲は手癖だけで演奏される。だからところどころ間違ったりもするし、テンポだって速かったり遅かったりする。

 でもこの演奏はヘンリーッカの演奏のなかでも格別の魅力を持っている。


 そして僕たちはこの演奏を聞きながら食後のお茶の用意をしたり、自室に行って読書をしたり、ソファに寝転んだりする。この演奏が僕たちの夜のはじまりの合図となっていた。


 この春のはじまりの日はみんなどこか穏やかだった。気怠げだと云ってもいいのかもしれない。

 だからか、いつもは騒がしいベルは僕のシャツをくいくいと引き「カモミールティーを淹れてもらえない?」と、しとやかに頼んできた。


 ベルはハーブティーは特別好きなほうではなく積極的には飲まない。彼女が好んで飲むのは紅茶やココアなんかだけど、それらを夜に飲んでしまうと眠れなくなってしまうから僕に禁止されていた。

 だから夜はハーブティーだけが許されていて、ベルは他の子がきまぐれに飲むときにご相伴にあずかるという形くらいでしか口にすることはなかった。


「カモミールティー、そんなに好きじゃなかったよね?」

「ええ、でもこういう夜ならおいしく飲めそうな気がするの」

「それは正しいよ」

「正しい?」


 僕の返答に困惑した声をもらすベルに苦笑で返答し、すぐに淹れてくるよとキッチンに向かった。

 キッチンに行くとフェリシアとムニラがなにやら戸棚を漁っていたので声をかける。どうせビスケットかなにかを探しているのだろう。


「蓄えてあったものはぜんぶ君たちが食べちゃったろう」

「あら、あたしたちは別に食べ物を探しているわけじゃないわよ」とフェリシアは云った。


 その隣のムニラは一番下段の棚の奥のほうを探すために四つん這いになっていて所作はよく見えないのだが、フェリシアの言葉にうんうんと頷いたのはわかった。


「じゃあなにを探してるの?」

「あたしたちの幸せだった過去、かしらね」

「今日買ってきたクッキーはまだ買い物バッグに入ったままだと思うよ」

「行くわよムニラ!」


 僕の言葉を聞いたふたりは勢いよくキッチンを飛びだしていった。

 買い物バッグはいつものようにキッチンに備えつけてあるちいさなテーブルの下に置いてあるんだけどなあ。彼女たちは本当に幸せだった過去を探しに行ったのかもしれない。


 カモミールティーを淹れる準備をしたあとに買い物バッグからクッキーを取りだす。ムニラが拾ってきた複雑な青い紋様が描かれた平皿に個数は数えずに適当に盛った。


 食器はなぜか住宅街に落ちている。二、三回は拾ってください、と但し書きがしてある古い食器を見かけたことはある。でもそれらはあまりにもボロボロで、持って帰ろうとは思わないものしかなかった。

 ムニラはそんな混沌から、うつくしいものを見つけるのが得意だった。僕たちとは違うものが見えているとしか思えない。絵描きだから目が特別なのは当たり前かもしれない。


 でも、これは念を押しておきたいことだけど、目が特別だったから絵描きになったのではないと僕は思っている。絵描きをやっているから特別な目になった。人間のすべてはそのようになっているはずだ。

 才能があったからやった、ではなく、やったから才能があった。


 カモミールティーが入ったポットとカップを人数分トレイに乗せリビングに向かった。途中でキッチンに向かってくるスズネと出くわした。


「まだ持ってくるものはありますか?」

「クッキーが乗ってるお皿があるからそれを持ってきてくれるかい」


 はい! と元気よく返事をしたスズネはキッチンへとぱたぱた走って行った。スズネの走る姿はブレがないためうつくしい。きっとお皿を持ってくるときでさえ手にお皿が吸いついたように安定した姿を見せてくれるだろう。


 ダンサーは、自分の手の届く範囲すべてを自分の肉体にする。それはすごいことだと思う。でもスズネはほかの芸術と較べて非常に狭いんですよ、と云う。


 音楽は音が聞こえる範囲だから、とんでもなく範囲が広い芸術だ。ダンスはそれよりもはるかに狭い。

 でもダンスの場合は、ダンサーの手の届く範囲はすべてダンサー自身の思うままになる。

 とても強い意志だ。


 ダンサーは、その意志の膜をまとっているように表すことができる。僕は自分の身体の動きで、他人に強い思いを伝えられたことがない。多くのひともそうだろうと思う。だから僕はスズネを尊敬している。


 リビングのソファにはベルとヘンリーッカがいて会話をしていた。


「カモミールティー持ってきたよ」

「今日クッキー買わなかったっけ?」とヘンリーッカが訊いてくる。

「僕に腕が四本あれば持ってくるんだけど」

「それじゃあ一生クッキーを食べられるときはこないね」


 とヘンリーッカは冗談を云って無邪気に笑った。

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