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さよならを云って  作者: 久慈くじら
第五章 ベルティーユ
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 僕は京大農学部前でバスを降り、冬の刺すような冷たさを頬に感じた。市バスの暖房が効きすぎていたせいで気持ち悪かったということにバスを降りてから気がついた。バスの生温い車内よりも、冬のこの寒さのほうが好きだ。僕はそう思いつつ白川疎水沿いに北上した。百歩しないうちに暖房が恋しくなった。自分の移り気に苦笑した。まるでフェリシアみたいだ。ベルの家はまだまだ先である。

 白川疎水沿いに散歩するのがベルの家に行くときの常だった。ここら辺一体は北白川と呼ばれている。この土地はけっこうな豪邸があったり、歴史のある建物がいくつかある。たとえば京都大学人文科学研究所というスパニッシュ様式の建築なんかはかなりかっこいい。

 ほかにも駒井家住宅という京都帝国大学の教授をしていた駒井卓博士の住居もある。これもスパニッシュ様式の建築で(入館料が五〇〇円なので入ったことはないが)、屋敷の参考にした部分もたくさんある。というより、このふたつの建物が印象に残っていたのでおのずと書いてしまったとでも云うべきなのかもしれない。

 白川疎水は街中にあるとは思えないほどの清流で、桜なども植林されており雰囲気のある道だ。春になると満開の桜が観られるが、桜の植わっている白河疎水の左右の道は広いわけでも土というわけでもない。ふつうに車が通るアスファルト舗装の道なので花見をするひとはいなかったと思う。歩いているうちに藤棚があるところにベンチがいくつかあるのが見えたのでそこで花見をするひとはいるのかもしれないと思った。

 ほんとうに春は来るのだろうか。この冬に終わりはないように思える。それくらい寒かった。一昨日は大雪で、道の端には雪が融け残っていた。住宅のあいだから時折見える北の山々には美しく雪がかかっている。晴天と澄んだ空気のおかげなのか山は透明な青さで、雪とのコントラストがすばらしい。

 それはあまりにも涼やかな光景だったが、寒いわけではなかった。すがすがしさというものは寒ささえも超克してしまうものなのだと思えた。

 まだ朝の九時くらいだったが、思ったよりひとを見かけた。いや、九時だからこそと云ったほうがいいのかもしれない。九時を超えているので大学に遅刻して行くのであろう学生や、犬の散歩をしている主婦や老人、自分の散歩をする老人。そんなひとたちと出くわした。この時間帯は人間のバリエーションがすくない。だから、いくらかのひとに見覚えがあった。それだけ僕はこの道を通ったみたいだった。でも、ぜんぜんそのような気がしない。書いて朗読し書いて朗読する。それは楽しいことだったし、なにより忙しなかった。

 僕が小説を書きはじめたのは去年の五月のことだ。つまり半年以上もベルのために小説を書いていたことになる。その時間というものは、物理的には紙の束として、そして精神的にはこのような記憶として残った。

 今日がほんとうの終わりとなるだろう。


 聞き慣れたインターホンの音のあと、聞き慣れたベルの母親の声がした。

「私です」といつもの返答をする。

 白色の木製風の扉についているざらざらとしたガラスの小窓にいつもの姿がうつって、真鍮のノブが向こう側からひねられた。扉が開くとベルの母親があらわれて、僕は家に招き入れられた。革鞄を玄関に置いてから上がり框に坐り靴を脱いだ。スリッパは出されない。僕が初日にいらないと云ってからずっとそうだ。

 僕はベルの母と二言三言話してから、二階にあるベルの部屋に向かった。

 ベルの部屋は階段をのぼった先の一番近い部屋だ。そして一番見晴らしのいい部屋でもある。

 簡素な扉を開けるといつものように部屋は薄暗く、暖房が気持ち悪いくらいに効いていた。

「おはよう、ベル。調子はどう?」

「おはよう。ええ、今日はとっても気分が悪いわ。あなたが来るのを心待ちにしてたの」

 ベルはいつものようにベッドに寝臥しながら、悪戯そうな表情で僕をねめつけた。

「穏やかじゃないね」

「あたりまえよ」

 その言葉に僕は苦笑しながら、飴色の革鞄から紙の束を取りだした。サイドテーブルには紅茶のカップが置かれていたので横にどけてから紙の束をゆっくりと置いた。半年分の重みだ。

 ベルはそれを複雑な表情で流し見た。しばらくしてその原稿をおずおずと持ち、ぱらぱらとめくりはじめた。そういえば、ベルはこの小説を朗読でしか知らない。僕の字をとおして小説を知るのは、今日がはじめてだった。

「ほんとうに終わりなの?」

 原稿をざっと最後まで読んだベルは、感情をあまり出さないように気を遣った平坦な口調でそう云った。

「ああ」

 僕も感情を出さないように云った。一週間前のベルが思い起こされる。また、来て。そのときには、きっとなにかを云えるはずだから。

 僕はあの日からの一週間、ずっと後悔していた。ベルにそのようなことを云わせてしまったこと、自分の実力の至らなさ、そしてする気もなかった説教をしてしまったこと。

 僕は、世のなかにいるありがちな大人になりたくなかった。もちろんありがちな大人なんて存在しないはずだ。それぞれきちんとした個性を持っていて、自分の考えがあって、自分の人生を生きている大人だ。

 でも大人は、自分の役割というものを持っている。そして、その役割におうじた言葉しか使えないのだ。それが、ありがちな大人というものを生みだしてしまっている。

 だから僕は、自分で自分に役割を設定するような大人になりたくなかった。だから僕は小説を書いている。いろんな人間の人生を想像できるから。

「あなたは、この小説がこんな終わりでいいと、本気で思ってる?」

「いいや。云ったとおり、僕は下手だった。でもこの小説は、下手くそな終わりかたにしかならない小説だった」

「もしうまく書けていたらどうなっていたと思う?」

「それはありえないことだよ。この小説はそもそも小説を書こうとして生まれたものではなくて、ベルのことを考えていたら自然に生まれていた物語だ。だから、綺麗に終わることはなかった。なにかしらのテーマというものもなかった」

「それはつまり失敗作ということ?」

「そうだね。小説として見ればそうだと思う」

「じゃあ小説じゃなかったとしたら?」

「それはこれから決まることだよ」

 ベルは下唇を噛んで思案しはじめた。僕の云っている意味が理解できたのだろう。つまり、ベルのために書いた物語だから、ベルにとっていい物語になれば、それで成功だ。そして、ベルが駄目だった、と云えば、この物語は失敗作となる。

「責任重大ね」

「僕にたいしての責任?」

「ええ。この作品がいいか悪いかを決めるのは私。あなたがいい小説家かどうかを決めるのも私。私はあなたにいい小説家であってほしいと思うから……」

「そう云ってくれるのはうれしいよ。ベルのなかで僕というものがそれだけ大きいものになったってことだから。でもね、僕が書いたのは小説だ。僕という人間は関係ない。僕の思いも関係ない。ただベルが、この物語についてどう思ったのか、それだけが重要なんだ。だって、僕は思いを伝えるために物語を作ったんじゃない。もし思いを伝えるためなんだったら、こんな遠回りなことはしない。僕は、僕の力だけでは伝えられないことをどうにかして形にするために、この小説を書いた。小説とは、そういうものなんだよ。誰かひとりの思いではない。もっともっと広いものだ。こう云えるかもしれない。世界からの思いがつまっているのが、小説だって」

「世界……」

 ベルが目をまん丸くして僕の言葉を受けとめた。あまりにも突拍子もないことを云いすぎたかもしれない。

「でも、僕がそう思って書いたのは事実だよ。だから、僕がどうのこうのは考えなくていい」

 僕の言葉を聞いたベルはしばらく考えこんだ。僕はあまりじっと見つめては思考を妨げてしまうかもしれないと思って、ベルの半身が入っているベッドの上掛けをじっと眺めてベルが話しだすのを待った。

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