4-9 フィクションってなに?
しかしどれだけ経ってもみんなは帰ってこなかった。
おやつ時をすぎてしまってから、僕たちはサンルームでお茶をした。誰か帰ってくるかなと思って待っていたのだ。けれど、おやつの時間をすぎても、誰も戻ってくる気配はなかったし、僕たちが住んでいるこの住宅街のどこにも人気がないくらいひっそりとしていた。
「さすがにお茶のときはみんな帰ってくるかと思ったのだけれど」
「おかしいね」
僕はどうしようもない不安を抱いた。これから先、あの子たちが一生帰ってくることはないという思いが根拠のない確信とともにやってきた。
ベルもとても不安そうだった。自分で作ったおいしいクッキーだっていうのに、ぜんぜん手をつけていないし、おいしいという言葉も云っていなかった。
「これを食べたら町に探しに行こう」
「うん」
いつもなら、ええ、という返事のはずだ。けれど、不安のせいかすこしだけ幼い答えかたになってしまっていた。
いや、この口調こそが、ベル本来の口調のはずだ。
まずは屋敷前からの芝生からだった。しかし、そんなのは一瞥しただけで誰かがいるのかいないのかはわかる。
「いないわ」ベルは首をふった。
「ダリアもいないね」
大雨が降ったあとのせいで芝生はどろどろのぐちゃぐちゃだ。きっとスズネは今日は朝の体操はしなかったのだろう。では、いったいどこでしたのだろう。
次は丘のほうだ。
小さな礼拝堂のあるところまで行って、丘全体をぐるりと見回してみるけど、羊と羊飼いくらいしかいなかった。
「なかにいたりして」
ベルはヘンリーッカがたまに礼拝堂で歌っていることを思いだして礼拝堂を覗いてみた。しかし、そこには誰もいない。
「なんだか楽しくなってきたわ。かくれんぼよ、これは」
そう云うベルの声は震えていて、楽しさのかけらもなさそうだった。その声色には不安しかなかった。
僕はベルの左手をぎゅっと握ることくらいしか安心させてやる術を持たなかった。こういうとき言葉は無力だった。フェリシアならなんて云っただろうか?
次は町までやってきた。フェリシアがよく朗読をしているフィナンシェ広場に行ってみる。
「ひとは多いけれど、知っているひとは誰もいないわ。知ってるのはリンゴくらい」
ベルがフィナンシェのオブジェをぺたぺたと触って云った。
「ねえリンゴ、みんなの場所、知らない?」
ベルはオブジェに語りかける。けれど、あたりまえのことだけれど、オブジェはなにも云わない。なにも云わないからオブジェだ。
次は路地裏だ。路地裏についてベルは詳しくないようだった。
僕も古い本を買ったりすることくらいでしか訪れない場所だったので、ベルと同じくらいの馴染みしかなかった。
「変なお店ばっかり。どうして路地裏ってこうなのかしら」
「きっと路地裏でお店をやったほうが雰囲気が出るからだよ」
「ああ、たしかに」
けれど、ここにムニラはいなかった。どこかで絵でも描いているのだろうか。
次は森のほうまで足を伸ばしてみた。
「そういえばここで泳いだことなかったわね」
「なぜか機会がなかったよなあ」
僕たちは森の湖のところまできた。
「そういえばここ、出るんだって?」
「出るって?」
「幽霊、じゃないの? シアが云ってたわよ、出るって」
「ああ! そのことか!」
僕は次の目的地まで光る鹿についての話をしながら歩いた。
「へえ、そんなことがあったの」
光る鹿について最後まで語り終えると、ベルがじっとりとした目で僕を見て、つないでいる手にとてつもなく力を入れてきた。
「なんだよ」
ベルの力では痛くもなんともなかったけど(いや、ちょっとだけ痛かった)、この反応を見るかぎり、ベルはフェリシアがなぜ僕を森に誘って一緒に光る鹿と会おうとしたのかわかったらしい。
「シア、かわいいことするじゃない」
ベルはふふふと笑いながら云った。僕はベルの言葉で、ようやくフェリシアが僕を森に誘った理由がわかった。相手はフェリシアではなくてベルなのに、僕は恥ずかしくてなにも返答することができなかった。
次は鐘楼までやってきた。
「鐘楼守さん、こんにちは」
鐘楼守さんはお喋りなのでヘンリーッカたちの行方を知っているのではないかと思っていたのだが、鐘楼守さんはまったく知らないと云った。
「すこし高いところから見てみましょう」
ベルが云った。僕たちは鐘楼の南側に腰掛けて山を眺めた。
「ここは僕が子供のころよく坐ってた場所なんだ」
「私くらいのころ?」
「そうだね、それくらいだったと思う。なにも考えずにぼーっとね」
「山はまったく変化しないですものね」
「うん。考えることなんてなにもなかった。あったのは感じたことだけだ」
そうやってみんなを探していると日が暮れてしまった。僕たちはなんの成果も得られないままとぼとぼと帰宅した。
夕ご飯のときになれば自然に帰ってくるでしょう、と飼猫に云うようなことをベルは云って、僕たちは夕ご飯の準備をした。
その日、ダリア以外誰も帰ってはこなかった。ダリアは嵐に奪われたのではなく、いつものように散歩していただけみたいだった。
次の日の朝。今日はとても冷える日だった。嵐のあと、僕たちの町には冬が訪れる。こう寒いとさすがに帰ってくるはずだ。そう思っていたが、その期待は裏切られた。
僕たちは朝食もそこそこにすぐに町にでかけた。今日は知っている場所から知らない場所まで隅々まで探索する予定だった。
僕は急いていた。不安の塊が胸焼けのようにずっと溜まっている。じっとしたり、なにかものを考えたりしたら発狂しそうな焦燥感だった。
「痛い! 痛いわ!」ベルは僕とつないでいた手を思い切り離して叫んだ。「お願い。もっとゆっくり歩いて」
「ごめん。焦ってた」
「私も焦ってるわよ。けど、どこにもいないんだもん」
どこを探してもいないわよ。ベルは泣きそうな、ちいさな声でそう云った。もうこうなったら、世界の果てにいるのよ、それしか考えられないわ。
僕もそれには同感だった。
「あれ? 世界の果て?」
いや、同感という程度ではなかった。僕はその言葉でやっと腑に落ちた気がした。
僕は、フェリシア、スズネ、ヘンリーッカ、ムニラがこういう方法でいなくなることは知らなかった。でも、物語の最後になったら登場人物というものはいなくなってしまうものなのだということは知っている。
小説家だからだ。
「ベル、フェリシアたちは、車屋さんに頼んで世界の果てに連れていってもらったんだよ。もう物語が終わるから」
「どういうこと? 私たちのこの生活はまだまだ続くんじゃないの?」
「そうしてもよかった。そうしていつまでもいつまでも楽しく幸せに暮らしましたとさ、ちゃんちゃん。そうやって終わってもよかった。でもそれじゃあ、ベルはずっとこのままだ。僕は、ベルがずっとこのままになってしまうのは耐えられそうにない」
「どうして? 私はちゃんと会話ができるみんなとすごしているほうがよかった。辛いことはなにもないし、このまま生活していれば、私もなにか自分にできることが見つかりそうな気がしてた」
もしかしたらこのままでも見つかっていたのかもしれない。でも、それはとても長い時間がかかるだろう。小説みたいに、数年後、ベルは自分にとって得難いものを見つけ、都会へと出ていった。そして自分の納得できる仕事をし、恋人を見つけ、辛いこともありながら、でもそれは、自分が選んだ道を行く上では不可避なものだったから納得し、乗り越え、そして人生の仕事をやりとげた。そうしてベルは、辛く厳しい子供時代を克服し、幸せな人生を生きたのだ。と書くことはできない。
だって、ベルの人生はフィクションではないからだ。
「人間は、自分の人生を生きることしかできない。他人の人生を生きることはできない」
「いいえ、それは違うわ。あなた小説家でしょう? 小説は、他人の人生や、違う世界を生きるために読むんじゃないの? そうやって逃げ場所を用意してくれるのが、小説なんじゃないの?」
「そうだね。小説にはそういう役割もある。でもそれは小説や、映画や、音楽や、絵画や、ダンスもそうだけど、そういうフィクションの役割の一部でしかない。僕は、ベルとすごしていてそれがよくわかった」
そこまで読むと、ベルはベッドから身を起こした。
「それじゃあ、フィクションは、いったいなんのためにあるの?」
「フィクションは、自分の人生の支えにするためにある。フィクションを自分のなかに抱えて、そうやって生きていく。僕は、そうやって生きてきた。たとえばフェリシアが云ったことも、どこかで読んだことのあるもののはずだ。スズネの踊りも、ムニラの絵も、ヘンリーッカの音楽もそうだ。それらすべてが自分のものになっている。それらを強く意識することで、僕は現実で出くわす辛いことを乗りこえてきた」
「それは、強い人間じゃないとできないわ。現実は非情で、どうしようもならないことが多い。自分の考えかたを変えたくらいでは、辛いことは辛いことのままよ」
「いいや、考えかたを変えるんじゃない。自分を変える必要はないし、そんなことは不可能だ。僕たちは遺伝子によって自分というものが決まっている。だからどうしようもない部分は、ほんとうにどうしようもない。だからフィクションはそのようなどうしようもなさを武器にするために使うんだ」
「お説教はやめて」
「そうだね。僕もこんなことは云いたくなかった。これは、僕が小説を書くのが下手くそだったからだ。だからこんなお説教になってしまった。恥ずべきことだ。小説家として失格だ。だから僕はベルにこう訊くよ。ベルは、この小説を読んでどう思った?」
ベルは、ベッドサイドに置いたスツールに坐っている僕の顔をちらりと見たあと、僕の手にある小説の原稿をじっと見つめた。僕はなにも云わずにベルが話しだすのを待った。でも、二時間待っても、ベルはなにも話してくれなかった。
「また、来て。そのときには、きっとなにかを云えるはずだから」




