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さよならを云って  作者: 久慈くじら
第四章 夏から秋
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4-8 誰もいない


 身体がめちゃくちゃに揺らされていることで僕は睡眠から覚醒した。揺れと同時にベルの声が聞こえ、そして僕の身体を揺らしているのはベルの手だということもわかった。


「起きて! ねえ起きて! 雨がやんだわ!」

「もう、そりゃやむだろ」


 やまない雨はないんだから、なんて手垢のついたことを云いそうになってあわててやめた。小説家たるもの寝ぼけているからといってそんなことを軽はずみに云ってはいけない。


 ベルがまだ身体を揺するからさすがに起きようと身体を動かしてみると、昨日はみんなで変な体勢で眠っていたからか身体がみょうに気だるく、起きるのに苦労した。


「今日のぶんの買いものは昨日のあなたが心配になってぜんぶすませちゃったのよね」

「うん。だから今日はほんとうになにもしなくていい日だよ。掃除もないし」

「昨日買ったクッキー食べたいんだけど」

「あれはもう昨日でぜんぶ食べ尽くしたじゃないか」

「え、そうだったっけ?」

「ご飯を食べたあとに、みんなにまだリビングに残っていてほしくて出してきただろう」

「あれでぜんぶなくなっちゃったんだ。儚いものね」

「生命にまつわるものはみんな儚いものさ」




 ベルは、屋敷中をぐるぐる探しまわったけど誰も見つからなかった、と云った。


「だまってどっかに行くなんて、今までなかったのに」


 僕とベルが起床したときに、ベッドにフェリシア、ヘンリーッカ、ムニラ、スズネの四人の姿が見当たらないことはよくあった。けれど、屋敷のどこを探しても彼女のうち誰かひとりでも見当たらないことはなかった。


「きっと用事があったんだろう」

「そうねえ、みんな芸術家だし、嵐のあとには血がたぎるのかもしれないわね」


 僕とベルはよくわからない不安を持っていたけれど、それがなんなのかまったくわからないまま朝食のベーコンエッグとトーストとサラダをふたりで用意した。


「こんなに静かな朝ははじめてだわ。こういうのもたまにはいいのかも」


 いつもの朝食なら、フェリシアがひっきりなしに喋って、スズネがボケ倒し、ムニラが鋭いこと云い、ヘンリーッカがうまくまわしてくれていた。


 今は、ベルがトーストを食べる音、フォークでサラダをつつく音、僕のコーヒーをすする音、それと静かな会話しかない。


「クッキー食べたいって云ってたよね、今日は暇だから一緒に作ろうか」

「いいじゃないそれ。そうやってクッキーを作ておいしい匂いをさせていれば、きっとみんなも夕方くらいにはお腹をぐーぐー鳴らして帰ってくるでしょう」




 午前はベルとふたりで町に行った。嵐が過ぎ去ったばかりだから、なにかをなおしたり片づけたり忙しそうにしているのかな、と気になったからだ。


 予想どおり町では嵐の後片づけが行われていた。ずっと放置されていた看板とか、使われていなかったゴミ箱とか、家に引っこめられなかった鉢植えなんかがフィナンシェ広場に散乱していた。


「あら。これシアが朗読するときにのっていた石鹸箱じゃない。こんな姿になってきっと悲しむわ。いや、シアのことだから詩にするかしら?」


 ベルはゴミの山のなかから見覚えのあるものを見つけだしてきた。フェリシアがのっても大丈夫なくらいの木箱だ。そんなものどうしたら壊れるのだろう。風程度で壊れるとは到底思えなかったが、実際こうやって壊れているのだから嵐の力を受けとめるしかなかった。


 嵐というものは突然やってきて町をなぎ倒し、僕たちの大切なものを奪っていく。幸い僕たちの屋敷は堅牢にできていたし、準備もしていたから被害はなにもなかった。でも物理的なものを奪っていかなかったかわりに、嵐は、フェリシアと、スズネと、ヘンリーッカと、ムニラを奪い去ってしまったのだろうか?




 屋敷に帰ってから、そういえば裏の階段に鉢植えが置いてあったことを思いだした。僕たちの鉢植えではないが、よく使っている場所だったからもし嵐の被害を受けていたら嫌だなと思って覗いてみると、やっぱりぐちゃぐちゃになっていた。この場所はダリアのお気に入りだった。この惨状を見たらきっと彼女は悲しんでしまうだろう。


 フェリシアが屋敷の窓の出っ張りで育てていたハーブについては、きちんと部屋に入れておいたのでまったく問題はなかった。そうだまだ屋敷に入れっぱなしだったから外に出しておかないといけない。


 お昼になっても誰も帰ってこなかったので、ハーブを出っ張りに置いてから、チーズたっぷりのカルボナーラを作った。僕とベルしかいないので、すこし贅沢をしようと思ったのだ。


「うーん最高」

「ベルが入れてくれたチーズも最高においしいよ」

「なにそれ皮肉かしら?」

「じっさいカルボナーラなんてふたりでやるような料理じゃないからね」

「胡椒くらい振らせてほしかったわ」

「いや、あれ力がいるんだよ」

「ほんとに?」

「ほんとほんと」


 というのは嘘で、この前フェリシアが食べていた夜霧のパスタのようにされてしまわないか不安だったからベルに任せるのをやめたのだった。


 お昼を食べたあと、僕たちはクッキー作りにとりかかった。クッキーは粉を使うので、ぜったいにエプロンをしたほうがいい。キッチンの抽斗から、スズネがよく使っている赤色のチェックのエプロンをベルにつけてあげた。


「よく似合ってるよ」

「えへへ」


 ベルとふたりきりでお菓子を作るのははじめてだった。お菓子をよく作るのはヘンリーッカとスズネのふたりだ。ムニラはたまに意味不明のものを作り(なぜか食べられる)、フェリシアは気分で作る。料理というものは個性が出るものだ。


 僕とベルのコンビはなかなかうまくいった。あれ取ってこれ取ってが通じるというのは、どちらも同じ目標を持ち、どちらも同じ手順を共有しており、どちらも同じくらいそのお菓子づくりを理解しているからだ。


 そうやって僕たちはていねいに時間をかけてクッキーを作った。


 時間がたっぷりあるから、いくらでも時間がかけられる。そして、ていねいに作られたお菓子というのは、ほんとうにおいしいものだ。


「屋敷中にバターのいい匂いが広がっていってるわ」

「みんな帰ってくるかな」

「そりゃあこれだけいい匂いですもの。千里先にいたって嗅ぎつけて帰ってくるでしょう」

「ムニラなら帰ってきそうだ」

「たしかに」とベルは笑った。

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