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さよならを云って  作者: 久慈くじら
第四章 夏から秋
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4-4 光る鹿

 夏の暑い日は、フェリシアはいっそうなにかをするのが億劫になるようで、彼女がソファに寝転んでいるところを見ない日はなかった。


 彼女は夕方になると外出先から帰ってきて、ソファの上で本を読んでいることが多い。そしてリビングのテーブルでなにか書きものをする姿をよく見かける。


 紅茶の入ったグラスを持ってリビングに行くと、案の定フェリシアがソファに寝転んでいた。彼女は僕が紅茶を持ってきたことをみとめると身体を起こし、僕の手からグラスを受けとり、こんな話をはじめた。


「光る鹿がいたのよ」

「光る? なんのために」

「なんのため? さあ、なんのためなのでしょうね」フェリシアが苦笑しながらそう云った。僕の返答が予想外だったのだろう。「その鹿はね、夜になるとあらわれるの。ゆっくりと霧をまとってね」


「どこにあらわれるの?」

「森よ」

「奥まで行ってないだろうね」


「もちろん。さすがに危ないことぐらいはわかってるわよ」それでね、とフェリシアは続ける。「暗くなってきたから帰ろうと思ったのよ。すると、落ち葉を踏みしめる音がして、リスかなと思って辺りを見回していたらきゅうに霧が出てきて、こんな時期に霧なんて出るはずがない、もしかして幽霊か、それとも妖精かと思ってね、それでしばらくじっとしていたら、光る鹿が茂みの奥から出てきたの」


「それでそれで」

「行くわよ」

「え?」

「そろそろ夜になるわ」


 フェリシアに外出の準備をしろと云われたがなにを準備すれいいのかわからなかった。とりあえずタオルと双眼鏡を引っぱりだしてきた。すると彼女は、タオルだけはありがたく持っていかせてもらうわ、双眼鏡はただの重いアクセサリーになるだけね、と云った。


 夏の夜をフェリシアと散歩する。もしかして僕と散歩がしたいからあんな話を作ったのかもしれないとか考えた。フェリシアの性格からするとそういうことはないとは云えるが、しかしないとも云いきれなかった。天邪鬼というのか、とらえどころがないというか、そのような神秘性を色濃く見せてくれるのがフェリシアだった。けれど、女の子とはそういうものだろう。


「鹿は一匹だったの。けれど、角はなかった。まるくて綺麗な身体だった。牝鹿だったのね。噂では牡鹿もいるらしいのよ」

「ここら辺で光る鹿を見たことがあるってひとがいるってこと?」


「もちろん。でも見たひとはとても少ないわ。しかも、みんなあたしたちと同じくらいの年齢の子たちなの」

「それは純粋な子供にしか見えない、妖精のようなものかもしれないね」

「そうなの。だから君を連れて行くのよ」

「どうして?」

「どうしてでしょう?」とフェリシアは悪戯っぽく笑った。


「僕が純粋じゃないから?」

「さあ?」

「僕が純粋だから?」

「さあ?」

「僕が大人だから?」

「さあ?」

「たのむよ」と情けなさそうな声色を作って云う。

「ふふふ」と笑われた。「そのうちわかるわよ」




「ミランダとジェフが湖で見かけたのよ」


 森をすこしだけ入っていくと小さな湖がある。ここの住人は、夏になると泳いだり休みに行ったりする湖だ。それ以外のときは釣りをするひとがよく使っている。


 ムニラは実は魚釣りが趣味で、小柄な身体をうまく使って竿を操りすばらしい鱒を釣る。僕はそのときはじめて鱒を見たのだけど、鱒という魚がこんなに美しいとは知らなかった。僕の好きな小説家は神秘的な鱒の小説を書いたが、それに違わず鱒とはすばらしい魅力をたずさえた魚だった。


 僕たちはそんな鱒が釣れる湖のほとりの茂みに身を隠している。


「静かに」とフェリシアが云った。


 わかってるよ、と小声で云って、僕たちは鹿を待った。


 森はとても暗かったが、踏みしめられて作られた道があったし、懐中電灯で十分に事足りていて、湖までの道はまったく問題がなかった。


「森の音が聞こえるわね」


 耳を澄ましてみる。たくさんの音が聞こえるが、それがいったいなんの音なのか知らなかった。想像することはできる。木の葉の音、鳥の囀り、枝の折れる音、虫の動く音、風の吹く音、川の流れる音。しかし、ほんとうにそれだけが森の音なのだろうか。僕の知らない音がもっとたくさんあるだろうし、そもそも名前のついてない音だってたくさんあるような気がする。


「いったいなんの音があるから僕たちはこの音を森の音だと思うのだろうね」

「それは難しい問いね」と云ってフェリシアは唸った。「きっとこの音とこの音があるから森の音というわけではなくて、森があってそこに音があるから森の音だってあたしたちは思うのでしょうね」


「僕たちは名前がついていることではじめてそれがなんなのか認識できるのかな」

「それはそうかもしれないわ。詩だって詩と云わないと詩にならないものもたくさんあるし、反対に詩ではないものでも詩と云えば詩になるから」


「言葉で作られているこの世界って、どこにも拠り所がないね」

「この考えを拠り所にするのよ」


 そうして小声で話しながら鹿を待っていたが、鹿はいっこうに僕たちの前に姿を現れさなかった。


「もう夜も遅い。帰ろうか」

「そうしましょうか」


 もうすこし待とうと云われるかと思ったが、彼女はあっさりと帰宅を決めた。あまりのフェリシアらしさにおもわず僕は苦笑いしてしまった。


 踏みしめられた道を懐中電灯で照らしながら歩く。もうすっかり夜だった。しかし、日が暮れようとしていた往路よりも、こうやって帰ろうとしている復路のほうがすこし明るいのはどういうことだろう。


「今日って満月だっけ」

「いいえ。……すこしだけ霧が出てきたわね」


 僕たちは夜空を見あげた。星がたくさん出ていて、月はなかった。森の奥も白い霧によって見えなくなりつつあった。


「どうしてこんなに明るいんだろう」


 すると、きょろきょろとしていたフェリシアがなにかに気づいた様子できゅうに前を向き硬い表情になった。


「よく聞いて」

「なに」

「驚かないで、そしてまだ動かないで。うしろに光る鹿がいるわ。あたしたちのあとをついてきてる」

「すぐそこにいるの?」

「いるわ。だから、見るにしても彼女を驚かさないように慎重に見て」

「どうしたらいい」

「手鏡があるわ」ポケットから取りだした柄を僕に握らせる。「ゆっくりね」


 僕はそろそろと手鏡を自分の顔の高さまで持ってきてうしろを覗いた。ほんとうは真っ暗な森が広がっているはずなのに、僕の背後は薄ぼんやりと明るくて、森の木々の形がわかった。そしてその中心には光る牝鹿がいて、僕たちの背中を黒いビー玉みたいな眼で見つめていた。


「ほんとだ。光ってる。牝鹿だね」

「たぶんあたしが見た子だと思う」

「ほんとにいたんだ」

「疑ってたの?」


 そう怒るフェリシアに平謝りしながら手鏡を返した。


 僕たちが歩く音に合わせて幽かに鹿が歩く音がする。とても体重が軽そうな音だ。まるで葉っぱが落ちるくらいの音だった。


「どうしてついてきているのだろう」

「わからない。もしかしてあたしたちを送ってくれているのかもしれない」

「ああ、その想像はいいね。森の守護者っぽい」


 僕たちはどうすることもできずにそのまま歩き続けた。けれど、光る鹿を見つけるという目標を達成したからこれ以上なにもないのはあたりまえだった。


「けっきょく牡鹿は見られなかったね」

「いえ、これでいいのよ」

「どういうこと?」

「森の出口。牡鹿はきっとそこにいるわ」


 フェリシアはそのままずんずん歩いていった。すると、森の出口に光るものがあった。それは鹿の角で、そして鹿の身体だった。


 僕は目を見開いて立ち止まろうとしたが、フェリシアが僕の手を握って引っぱり歩かせた。


 フェリシアの手は汗ばんでいた。緊張していることが見てとれたので、僕は冷静にならなくてはならなかった。


 僕とフェリシアはそれまでと同じスピードで歩き、牡鹿に近づいていく。すると、後ろの足音が早くなってきて、僕たちの足元がさっきよりも明るくなっていく。


 そして牝鹿は僕たちの横を通りすぎて牡鹿のもとへと駆けよっていった。すれ違った牝鹿からはとても濃い森の匂いがした。この匂いの香水があればきっととても売れただろうと思うほどいい匂いだった。


 牝鹿は牡鹿の首に頭をこすりつけた。二頭の光は交じりあい、もはや見ていられないほど明るくなった。


 フェリシアがついに足を止めたので、僕たちは鹿の光をじっと眺めた。


 光はだんだんと弱くなっていって、その中心にあったはずの二匹の輪郭は光が弱くなるままに宙に溶けてしまった。


「きれい」


 フェリシアはうっとりとつぶやいた。




「どうして牡鹿が出口にいるってわかったの?」

「ミランダとジェフが云っていたのよ。今みたいに帰り道で二頭に出会ったって」

「そういえばミランダとジェフって」

「恋人よ」

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