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さよならを云って  作者: 久慈くじら
第四章 夏から秋
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4-1 涙が出る夢

「ひとにはかならず死が訪れる、ならば死ぬときに後悔しないように生きなさい、ってこと、よく云われるわよね」


 僕がキッチンで冷たい紅茶を用意しているときフェリシアがきゅうに現れ、僕の背中に向けてそう云った。


「うん。間違ってないんじゃないかな」

「君は他人と言葉を切り離して考えられるからいいわよね」

「言葉は言葉だろう」

「ええ、あたしもそう思うわ。けれど、そう単純にはいかないのが人間なのよねー」

「やっぱり誰が云ったかが重要になってしまうこともある?」

「そうねー」


 冷やした紅茶をトレイに乗せてリビングに行く。フェリシアはリビングに到着するとすぐにソファに寝転がった。あー、とか、にゃー、とか意味もない音を天井に投げかけた。


「天井はいいわー、あたしが云ったことを理解しようがないんだもの」

「それは天井を馬鹿にしすぎなんじゃないかな」

「にゃー」


 暑さのせいか、それとも文学的な悩みでもあるのか、僕が紅茶をすすめてもしばらく放っておいて、としか云わなかった。


 フェリシアがソファを占領するから、その抗議にきたらしいダリアが彼女のお腹の上に乗って蹲ったり歩いたりしても、フェリシアは外界にたいしてなんの反応も見せなかった。


 ダリアはむしろそれが楽しいようで、フェリシアの腕を甘噛したり、足の先を舐めたりして、ひととおりやりたいことをやると満足してどこかへ去っていった。


 それがあまりにも長いこと続いたので、僕はフェリシアのぶんの紅茶にも手をつけ始めた。するとフェリシアは勢いよくソファから起きあがって、僕の手のなかにある冷えた紅茶の入ったグラスをひったくり喉を鳴らしながら一気に半分くらい飲んでしまった。


「ちょっと聞いてくれない? いつものようにフィナンシェ広場で朗読したときの話なの」


 グラスを手に持ったままフェリシアは語りはじめた。


 


 新作を片手に持って今日も朗読しにやってきた。昨日書いたのは十篇ほどで、一篇だけとても手応えのあるものができた。


 その一篇は、最近朗読を聞きに来てくれているあるひとのことを考えながら作った詩だった。


 そのひとは山高帽をかむった紳士だったわ。顔はぜんぜんよくないのだけれどね。鼻が右に曲がっていて、出っ歯ですきっ歯だった。目は窪んでいるのだけれど、子供のように輝いていて、そこだけがチャーミングだった。


 そのひとを考えて書いた詩は「部屋のなかの子供のなかの大人」というタイトルだった。


 こんな詩よ。



   部屋のなかの子供のなかの大人


 おもちゃ箱が閉じられて

 兵隊の目は暗闇を映し

 閉塞的な街並みが

 思いだされることはない


 子供部屋が閉じられて

 早く眠りなさいと母が言い

 早馬が脳裏に駆けてきて

 鼓動だけが親友となる


 夜は世界中にあって

 寄る辺のない感情が

 浅ましくも文学になれる


 朝露が消えるまでの数瞬

 特別なこの私を

 とくとご覧あそばせ



 ナイーブな詩よ。けれど、この詩はあたしのことじゃない。あの山高帽の紳士のことなのよ。


 けれど、あたしの朗読を聞いていたひとたちは、とても感嘆してこう云った。


「大人には書けない率直な詩だ」


 君はどう思う? 大人には書けない率直な詩かしら?


 そして、山高帽の紳士だけはぽかんとしていた。ぽかん、よ。周りがこの詩を褒めているのがまったくわからないって顔をしていたわ。


 そして山高帽の紳士はフィナンシェ広場から去って行った。あたしはそれを追いかけた。


 あのひとのことを考えながら詩を書いたのに、あのひとには届かなかったのかしら。もちろんそういうことはたくさんあるだろうけど、でもあたしには手応えがあったのよ。


 山高帽は町外れの川に向かっていた。あたしは彼よりも遅れて川に到着すると、彼は石を川に向かって投げていた。


 投げられた石は川面をすべって跳ね狂っていた。


 山高帽の紳士は、石を思い切り投げるたびに頭にのっけている山高帽を落とした。石を投げ終えて帽子を拾って頭にのせる。石を投げる。落とす。拾う。頭にのせる。石を投げる。落とす。拾う。頭にのせる。その繰り返し。


 でもその行動は頭のおかしい人間がやるものには思えなかった。その行為すべてに意味があるかのようななめらかさだったから。


「活動のようだろ?」


 山高帽は背後にあたしが来たのを足音か、それとも第六感かなにかで知り、石を投げながらそう云った。


「活動?」

「活動写真さ。今は映画って云うんだっけか」

「活動って云ったのはもうずいぶん前の話よ。きっとあなたの生まれる前くらいね」

「そうだったかなあ」


 それがあたしたちのはじめての会話だった。




「ビールやるかね?」と山高帽は云った。

「見てわからない? あたし子供よ」

「で?」と山高帽は云った。「詩人はビールをやるものだろ」

「はあ」とあたしはため息をついた。「しょうがないわね」


 あたしは山高帽の紳士からビール瓶を受けとってひとくち飲んだ。それはリンゴジュースの味がした。


「ふん」とあたしは瓶を返した。

「うまいな」と山高帽はビールを煽った。


「あたしの詩だめだった?」

「あの詩? みんなが褒めてたやつ?」

「そうよ」

「ふつうだった」

「ふつう?」

「知ってたことばかりだった」

「ああ」


 あたしは納得して、石を川に放り投げた。石はそのまま沈んだ。


「下手っぴが」

「石は飛ぶようにはできてないもの」

「違いない。だが」と彼は石を投げた。石は向こう岸まで跳ねた。「おれたちが力を与えてやるんだぜ。どうとでもなるさ」


「あなたはなにをしているひとなの?」

「なんでもしてるぜ。サーフィン、花屋、酒屋、山小屋、物乞い、船員、大統領、道、巫女、暗闇」

「なんでもないのね」

「そうとも!」彼はビール瓶を川に放った。瓶は大きな水しぶきをあげて川とひとつになった。「なにもかもそうだろ? お嬢ちゃんだってそうさ」

「そうね!」あたしはもう一度だけ石を投げた。石は三度跳ねた。

「やるじゃないか」

「あたしは詩人」

「おれもだ」


 そして彼は、あたしとの会話に興味を失った様子で川上のほうへ去っていった。子供はそっちに行ってはいけないから、山高帽を追うのは断念してそのまま町へと帰った。




「あら、紅茶がなくなったわね」


 フェリシアはこれで話は終わりといった感じで立ちあがった。


「淹れてくるよ」

「いっしょにやりましょう」


 僕たちはキッチンに向かった。


「ぜんぶ金言だったね」


 僕はケトルでお湯を沸かしながらそう云った。


「なにが?」

「彼の言葉だよ」


 フェリシアは僕の言葉を聞いてからその日はずっと黙ったままだった。なにか気に障ることでも云ったのかと考えてみたが、僕には検討がつかなかった。


 その日の眠るときになってフェリシアはベッドの上で唐突にこう云った。


「言葉はなにかが語るものなのね。人間じゃなくてもね、書物が語ったりもするのね」

「そうさ。言葉がそこにぽつんとあることなんてないのさ」

「そうね」フェリシアは眠りながら云った。「そうね」


 フェリシアは夢を見ている。それは涙が出る夢だ。

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