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さよならを云って  作者: 久慈くじら
第三章 春から夏
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3-6 コンサート

 時間が近づいてきたのでオーナーさんに見送られながらレストランを出て第二講堂に向かった。第二講堂は綺麗に切りそろえられている石がたくさん積みあがってできている建築物だ。僕たちの町そのものが小さいから講堂もそこまで大きいものではない。でも講堂の正面はたくさん彫刻や装飾が施されており、荘厳な雰囲気で僕たちを迎えてくれる。


 講堂は、オペラ、ダンス、音楽のコンサート、なんらかの集会など人々がたくさんが集うときに使われる。だから講堂は外見も特別だし、そこで行われることも特別だった。


 僕たちは第二講堂の前に立ったときからすこし緊張していた。だって、今からはじまることは特別で、ぜったいに記憶に残るものになるからだ。そのことを想像するだけで僕たちの気分は神さまの前に立たされたみたいにシャキッとする。


 コンサートがはじまる前というのは独特の匂いがあった。講堂に足を踏み入れたときから僕たちはその独特の匂いのせいで、どこか違う世界に連れてこられたような気分になっていた。


 閉め切られた講堂に満ちる空気の匂い、楽器の木の匂い、ライトが埃を焼く匂い、観客の香水の匂い、幽かな緊張の匂い。それが講堂全体に充満している。それが、今回のコンサートの匂いだった。


 半円形のステージを見渡せるように椅子がすり鉢状に並んでいる。僕たちはそこに坐ったり立ったりしている。今はライトがステージも客席も照らしているけど、開演の時間になると客席のライトは消え、ステージだけがぼうっと浮かびあがるようになるはずだ。


 ステージの左にはグランドピアノが置いてある。右にはドラムセットが、まんなかには椅子が一脚。そんなに大きくないステージを僕たちは珍しいものでも見るかのように眺めている。今からなにがはじまるんだろう、どんなすごいことがはじまるんだろう、そういう目線だ。けれど僕たちは音楽がはじまろうとしていることを知らないわけではない。でも、それがどういうものなのかまったく想像ができないから、こうやって興奮しているのだ。


 音楽とは、はじまってみなくてはどんなものなのかわからないものだ。頭のなかで音楽を流すことはできる。けれど、楽器が空気を振動させるというのは、僕たちの身体も一緒に振動させるということだ。それは唯一無二の体験だ。同じ振動が二度と訪れることはないのだ。


 だからこそ僕たちは特別なものがはじまるような気持ちでいる。はじめて音楽というものを体験する少年のような心持ちで、僕たちはヘンリーッカたちが舞台袖から現れるのを待っていた。


「見たことあるひと、たくさんいるわね」


 ベルがきょろきょろと客席を見ながら云ったので、つられて僕も客席をきょろきょろ見た。


「パン屋のおじさまも、広場でよく歌っているひともいるね」


 スズネはステージをじっと見たまま云った。客席をじろじろ見ていないのに、誰が来ているかわかるらしい。


「みんなヘンリーッカの音を聞きに来てるのかな」とムニラ。

「どうかな。ドラムのひとの友人とかもいるだろうし」

「じゃあ、ヘンリーッカは今日でみんな友達にしちゃうね」


 ムニラはヘンリーッカの音楽の力に確信を持っている。でも僕もヘンリーッカの音楽は大好きだった。僕もムニラと同じように、彼女の音楽を聞いたひとは、みんな彼女のことが好きになるだろうと思っている。


「そうだね」


 僕が相槌を打つとムニラ以外の女の子たちもこくんとうなずいた。


 みんなヘンリーッカの音楽が好きだった。ときおり聞こえてくる朝のチェンバロも、午後の練習も、涼やかな夜の調べも、ぜんぶ大好きなヘンリーッカの音楽だ。


 そして今回のコンサートは、僕たちが知らないヘンリーッカの姿で、だからこそ僕たちはそわそわとしている。


 僕たちが知らないヘンリーッカの姿をこんなにたくさんのひとたちと一緒に知ることになるなんて変な気がする。言葉にできない気持ちが湧きあがってくる。


「嫉妬かな?」と僕は誰にも聞こえない大きさで呟いたつもりだった。

「ええ、たぶんそうだと思うわ」


 僕の隣にいたフェリシアがそう答えたのでびっくりした。


「意味わかってる?」

「もちろん。でもヘンリーッカの音楽をあたしたちだけのものにしておくのはもったいないと思うの。だって音楽は大気を震わすものなんだもの。どこまでも届かせたいじゃない?」

「だから僕は、それを僕たちのために演奏してくれるのが好きだったのかもしれない」

「愛に飢えているのね」

「そういうことでいいのかな?」


 さあ? とフェリシアは小憎たらしげに肩をすくめてから僕の腰を叩き、ステージを指さした。客席のライトが消えていて、観客がだんだんと静かになっていった。


 ぱっとスポットライトが三つ点いて、ピアノ、椅子、ドラムが照らされる。


 まずウッドベースを抱えた紫色のドレスを着た女性が上手から現れ、椅子の前で一礼した。そのあと、ドラムスティックを持ったグレーのスーツを着た大柄な男性が現れ、その後に続いて白いドレスを着たヘンリーッカが登場した。


 三人はそれぞれの場所に坐り微動だにせず、なにかを待った。僕たちは息を呑んで彼女たちを見つめていた。


 ふと、ベースが一音鳴った。第二講堂が震え、スネアドラムのスナッピーが共振し、びりびりびり、という音が鳴った。ああ、これだ。これが屋敷にいただけでは聞くことができなかった音だ。


 そうして気がついたときにはピアノが鳴っていた。自然にフェードインしてきて、三つの音が混じり合っていく。不思議な音だった。今までまったく聞いたことのない音だ。


 観客全員が今この瞬間に鳴っているたったひとつの音楽を聞いている。意識を飛ばしているひともいるかもしれないと思えるほど、僕たちは没入していた。


 しばらく気がつかなかったけど、ヘンリーッカが弾くメロディは聞いたことのあるものだった。彼女はよく家のチェンバロでそのメロディを鳴らしていた。そのときは間抜けなメロディだと思っていたけど、それは間違いだった。この曲は、チェンバロではなくピアノで、それもこうやって三人で演奏するためのものだったのだ。


 自分があまりにも音楽にのめり込んでいたことにふと気がついた。すると、女の子たちがどんな表情をしているのか気になってきた。僕はこっそりバレないように彼女たちの顔を盗み見た。


 ムニラはぽかんと口を開けてヘンリーッカたちの演奏に魅入っている。


 スズネは絶え間なく身体を揺らして音楽に身を任せている。


 フェリシアは満面の笑みを浮かべている。


 隣にいるベルに顔を向けると、ベルは僕の視線に気づいたようで、ステージに向けていた顔を僕の方に向けた。


 ベルがおどけた表情で首をかしげた。「なに?」というベルの声が聞こえた気がしたので「どう?」と大きく口を開いて訊いた。


 ベルは目を閉じて苦笑し、ムニラとスズネとフェリシアをちらっと見てからステージに視線を戻した。しばらくしているとどうもベルはずっとそのままの様子だったのでもう一度呼ぼうと思っているとベルが僕に聞こえるくらい大きな声でこう云った。


「わかるでしょ」


 僕は自分にたいして苦笑した。こんなにもいい音楽だ。ベルが楽しそうにしているのは聞かずともわかるはずだった。




 コンサートはクライマックスに向かいつつあった。もう終わりなのだろうか? 音楽を聞いていると時間の感覚がわからなくなる。それは、音楽が時間の芸術だからかもしれない。時間を操る芸術。


 ヘンリーッカは歌いながらピアノを叩くように弾いて、ベースは弦がちぎれそうなくらい音を鳴らし、ドラムは軽やかで激しく叩く。


 それは音の洪水だった。僕はその一音一音がわかった。聞き分けられるわけではないが、すべての音があるからこそこの音楽になっているとわかるのだ。


「リッカ!」


 ベルの声が聞こえたのか、ヘンリーッカは僕たちの方向を見た。それから汗を滴らしながら笑って、いっそう激しくピアノを弾いた。そして、ヘンリーッカたちの音楽は終わりを迎えた。


 講堂中がしんとした。それから万雷の拍手。僕はどうすれば大きい音で拍手ができるか試行錯誤しながら手を叩いた。舞台の上ではヘンリーッカたちが何度も礼をしている。ヘンリーッカを除いたふたりがすこし経ってから舞台から捌けていったが、ヘンリーッカは名残惜しそうに舞台に残って観客の拍手を聞いていた。


 そうしてヘンリーッカも舞台袖に去っていった。ステージの上にはピアノとドラムと椅子だけが残された。今それらは淡いライトで照らされているだけだった。その光景を見ていると切ない気分になった。コンサートは終わってしまったのだ。


 興奮はずっと残っていた。興奮と切なさがない混ぜになっていて、僕は自分のこの感情をどうせればいいのかわからなくなってあたりを見回した。ベル、フェリシア、ムニラ、スズネの顔を見る。みんな汗をかいている。


「最高?」と僕は聞いた。


 四人はもちろんこう答えた。


「最高!」




 第二講堂から出ようとする観客の一員となって僕たちは外までやって来た。もうすっかり夜になって、すこしだけ冷ややかな初夏の風が僕たちの興奮を迎えいれてくれた。けれど僕たちの熱はそんなことでは冷やされなかった。外に出ても、まだ身体中が振動している気がしている。頭のなかでも音楽がずっと鳴っている。夜空が覆うこの町がひとつの講堂のようで、そこに音楽が鳴り響いているような気がした。


 僕は第二講堂の前でヘンリーッカが出てくるのを待ちながら今日のコンサートのことを喋り合おうと思った。けれどなにを話せばいいのかわからなかった。


 でも彼女たちも僕と同じようになにを話せばいいのかわからなかったみたいで、僕たち五人はそわそわとしながらヘンリーッカが現れるのを待った。


 しばらくすると片づけを終えたヘンリーッカが第二講堂からひとりで出てきた。


「ヘンリーッカ!」


 スズネが一番に駆けだしてヘンリーッカに抱きついた。


「わわ!」


 ヘンリーッカは疲れているからかスズネをあまりうまく抱きとめられなかったみたいでよろめいてしまった。スズネはヘンリーッカがよろめいたのを感じて咄嗟に抱きしめたヘンリーッカごと半回転することで体勢を立て直した。


 傍からだと、スズネがすごい勢いで抱きつき、その勢いのままヘンリーッカを持ちあげて半回転したように見えただろう。


「んー! すごかった! すごかったですよヘンリーッカ!」

「私も抱きつきたいのに! スズネ速すぎ!」


 ベルがスズネとヘンリーッカを巻き込むように横から抱きついた。


 ムニラが左側から無言で抱きついて、フェリシアが僕に「君はいいの?」と云ってから、ヘンリーッカたちの後ろから包み込むように抱きついた。


 僕はそんな彼女たちを見ているほうが満足だった。年頃の女の子がきゃいきゃいする声が聞こえる。ベルがひょこひょこ跳ねて、スズネが真似をして跳ねる。フェリシアが苦笑しながらそれを眺めて、ヘンリーッカが恥ずかしそうにする。ムニラがヘンリーッカの手をとって揉んでいたわる。そう、あの小さな手があんなにも観客の心を奪い去る音楽を生みだしたのは驚くべきことだ。


 この五人の光景はずっと僕のなかに残るだろう。どんなときでも僕が目を閉じるとすぐに思い浮かぶ。ヘンリーッカ、ベル、スズネ、フェリシア、ムニラの声がすぐそばで聞こえ、僕は幸せな気持ちになるだろう。


「みんな、帰ろうか。実はごちそうの用意があるんだ」

「ほんとに!?」


 彼女たちは声を揃えて云った。ごちそうはヘンリーッカの好きなチキンだ。下処理と味つけは終わっていて、あとは焼くだけで完成する。それを食べながら僕たちは今日の音楽についての話をするのだ。


 そしてきっとヘンリーッカは面映そうに、「やめてよ、照れるよ」と云うだろう。

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