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さよならを云って  作者: 久慈くじら
第三章 春から夏
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3-5 夜霧のパスタ


 朝、ポストにヘンリーッカからのすてきな招待状が届いていた。招待状は白くてなめらかな一枚の紙で、右下に花の形をした凹凸の模様がある。まんなかに「第二講堂で仲間と一緒に音楽をします。一時からです。ぜひいらしてください」と書いてあった。顔を近づけて嗅いでみるとヘンリーッカの手の匂いが幽かにするような気がした。


 ポストには同じ招待状が五枚入っていて、ヘンリーッカ以外の名前がそれぞれ書いてあった。僕はそれを食堂のテーブルに置いておいた。


 しばらくして起きてきたフェリシアが招待状に気づいて、目玉焼きを焼いている僕の傍まで駆けよってきた。


「いい招待状ね」

「うん。とってもいい。たぶんミケッティさんところの紙だと思うんだけど」


 それから体操を終えたスズネと起床したムニラがリビングにやってきたので、朝食の準備をフェリシアに引き継ぎ、僕はベル宛の招待状を手にとって彼女を起こしに寝室まで行った。ベルは僕たち全員が一緒に眠れるサイズのベッドのまんなかで眠っていた。


 僕が起きたときは彼女は右端で眠っていたはずなので、みんながベッドから出ていったあと、まんなかに移動して二度寝しているのだろう。


「ベル。招待状が来てるよ」


 僕がそう云って起こそうとしてもベルは標本のようにまったく健やかに寝ている。でもこれはいつものことだった。ベルはいったん夢の世界へ旅立つと戻ってくるのに時間がかかった。それは眠っているときも起きているときもそうだった。


 だから僕はいつものようにカーテンを開けて、ベルの身体を執拗に揺らした。すると彼女はうめき声をあげて覚醒するのだ。


「おはよう」


 でもなぜかベルの寝起きの一声はすごくはきはきとしている。そしてそのあと僕の名前を眠たそうに呼んで、もう一度ベッドに潜り込もうとする。いつもならここからが大変だった。でも今日は招待状という切り札があるのだ。


「ベル。招待状がきてるよ」

「なに?」

「招待状。ヘンリーッカから。ピアノのコンサートだって」

「起きるわ」


 ベルは机から落ちた一枚の紙のようにすみやかにベッドを飛びだして僕の手から招待状をひったくり、光に透かしてうっとりと眺めた。


「いい招待状」

「そうだね」


「開演、一時からじゃない」それからベルは、起きて損した、というような言葉をぐっと飲み込んだような表情をしてから「おめかしに時間かけられるわね」と云った。ポジティヴに考えることにしたようだ。


「ヘンリーッカはもう出かけたみたいだよ。僕たちが起きた頃にはもういなかった」

「なるほど。さいきん朝が早かったのはコンサートのためだったのね」

「みたいだね」


 まだ招待状をうっとりと眺めるベル背中を押して階下に連れていく。フェリシアの手によって目玉焼きができている頃だろう。早くいかないと不機嫌になるかもしれない。


 一階に到着してもベルは招待状を光に翳して見ることしかしなかったので、ダイニングまで背中を押して入った。三人は着席していて、僕たちの姿をみつけると苦笑いをしてから僕たちに早く坐るよう云った。




 この町には車が三台ある。町長さんのものと科学者さんのものと車屋さんのものだ。


 車屋さんはひとを車に乗せるのが仕事だ。

 海に行きたい、と云うと海に連れていってくれる。山に行きたい、と云うと山に連れていってくれる。世界の果てに行きたい、と云うと世界の果てに連れていってくれる。


 でも世界の果てとはいったいどういう場所なのか、僕は知らない。車で世界の果てに行ったひとは、世界の果てに行ったきり戻ってこなくなってしまった。車屋さんはちゃんと戻ってきているので、戻ってこなかったお客さんは世界の果てが気に入って居着いたのだろう。


 だから僕たちはこの町が好きなので、車屋さんには変な場所を告げないようにしている。


「第二講堂に行きたいの」


 今回はフェリシアが車屋さんに告げると車屋さんは運転席から降り、黒く輝く車のドアを開けてくれた。僕たちは洞窟に誘われる蝙蝠のように車に乗り込んだ。


 ここは田舎だから歩く人間が優先だ。だから車はゆっくりと走ったように思えた。でも車に乗っていた時間は思った以上に短く、すぐに第二講堂についてしまった。ふかふかのシートが名残惜しかったが、僕たちはお腹がすいていた。黒くてピカピカの長い車は僕たちを降ろすとすぐに去っていった。エレガントな後ろ姿だった。


 よそ行きのドレスを着たお嬢さまたちを連れて、僕は第二講堂の前にある町で一番のレストランに入った。


 僕はスパゲティグラタン、ベルは豚のミルク煮、スズネは鮎の焼いたやつ、ムニラは米粉の麺が入ったスープ、フェリシアは「夜霧のパスタ」を注文した。


「夜霧のパスタ?」と僕は訊いた。

「夜霧のパスタよ」とフェリシアは答えた。

「なによそれ」とベルが云うと、フェリシアはふふふと笑っただけだった。


 僕たちは釈然としないながらも(ムニラはなにも聞いていなかったようでいつもの表情だったが)注文の品が揃うまで待った。


 店員が「夜霧のパスタ」です、と云って持ってきたのは、黒胡椒がたくさんかかってるせいで真っ黒になっているカルボナーラだった。


「うえ」と云ったのはムニラだ。

「おいしいのよ?」


 フェリシアはそう云って「夜霧のパスタ」を混ぜてから食べはじめた。混ぜると黒胡椒のいい香りが漂ってきた。たしかにおいしそうだった。


「で、なんでそれが《夜霧のパスタ》なんだい?」

「ばかね、夜霧みたいだからじゃないの」とベルは僕の言葉に返答する。

「それもあるけど、この店は《夜霧》って店だから」


 フェリシアはそう云って、壁にかけてあるそこまで大きくない絵を指した。ただの真っ黒の絵だ。


「ああ、あれ」


 ムニラは黙々と自分のスープを食べていたのをやめてそう云った。


「あれがどうしたの? ただの真っ黒にしか見えないけど」


 ベルがそう云ったので僕もうなずいた。ただの真っ黒だ。


「ううん、よく見て」


 ずっと僕たちのやりとりを微笑ましそうに見ていたスズネがそう云った。


「よく見たけど、黒いだけよ?」ベルが云う。

「あれは油絵の具で描いてあるよ」スズネが云う。

「ああ」と僕は納得した。「じっと見ちゃだめだ。動かないと」

「ほんとだ、すごい」とベルは顔を左右に動かしながらそう云った。


 絵には黒色の絵の具しか乗っていないが、油絵の具なので凹凸がある。その凹凸で僕たちが住む町が描かれているのだ。だから光の加減で見えたり見えなかったりする。これはすごい。これ以上に夜霧の町を描く方法なんてないと思えるほどだ。


「ね」とフェリシアは得意げな顔をしている。

「でも、オレンジ一色のやつとかあるわよね」


 ベルが黒い絵の反対に飾ってある絵を見て云う。たしかに僕もそれは気になっていた。


「え?」フェリシアが戸惑ったような表情で云った。「ほんとだ。あたし、夜霧の絵の秘密に気づいた興奮で他の絵があることに気がついてなかったみたい」


「ねえムニラ、あの絵のことなにか知ってる?」


 スズネはすべてわかってますよ、というような表情でムニラに訊ねる。


「あれは《夕景》」

「それって、絵のタイトル?」とフェリシアは訊く。

「そう。このシリーズの絵は八枚あって、お店のいたるところに掛けてある」

「もしかしてこれ、ムニラの作品なの?」


 フェリシアの問いかけを聞いたムニラは、壁に掛かっている絵をつぎつぎに指さしてタイトルを呟いていった。あれは《朝霜》、あれは《春風》、あれは《氷柱》、あれは《滝波》、あれは《雨雲》、あれは《薄明》。


 それらは《夜霧》と同じ手法で描かれており、それぞれ単色が塗ってあるようにしか見えなかったが角度によって凹凸が光り、なにが描かれているのかわかった。


「すごいじゃない! これみんなムニラが描いたの?」とベルが訊く。

「頼まれたから」


 じつは頼まれたというのはすこし語弊がある、と詳しい経緯を知っているスズネが鮎の塩焼きを食べながらこう説明してくれた。


 第二講堂の前で絵を描いていたムニラをみつけたレストランのオーナーさんはこの芸術の町において芸術的な料理を提供してきたが、それ以外の芸術を提供することはできなかった。それは自分が料理しか能がなく、どんな絵を飾ればいいのかわからなかったからだ。


 でもムニラの絵を見て、これが芸術としてどのような意味を持つのかはわからなかったけどとてもいい絵だと感じた。この絵なら自信を持って自分のレストランに飾ることができそうだった。ということでムニラにレストランに飾るための絵を依頼したらしい。


 そうしてムニラはこの町を題材とした連作を描いたのだ。


「なるほどね。それじゃあ《夜霧》がこのレストランの名前じゃないんだ。あれ? じゃあこのお店の名前ってなんなの?」


 夜霧のパスタを食べ終えたフェリシアがコーヒーを飲みながらレストランの名前のヒントを探して店中を眺めわたした。するとなにかを見つけたのか指を指して、あれはなんて絵? とムニラに訊ねた。


 フェリシアが指し示した先にあった絵は、ムニラの絵にしては珍しく具象的な絵だった。どこか見覚えのあるダイニングに何人かの少女とひとりの男が坐っており食事をしている光景だ。


「あれは《わたしたちの食卓》」

「もしかして、あたしたちが描かれてる?」


 そう、と答えるムニラの声を聞きながら僕はその絵を眺めた。その絵には僕たちはいつもの僕たちがそのまま描いてあるようだった。でもこうやってあらためて見てみると幸せそうに見えるのだった。


 その絵の僕たちが食べているのは、きっとこのレストランで食べるような特別なものではくふだんの何気ない料理だ。でも、それでも僕たちは幸せだった。好きなひとたちと一緒にあれこれ云いながら食事をするからだろう。


 このような絵がレストランに飾ってあってもいいのだろうか。そう思っているとスズネがこう云った。


「あの絵はムニラが無理を云って飾らせてもらったんだよね?」

「わたしにとってご飯を食べるイメージってこれが強かったし、この感じが好きだから、このレストランもそういうところになればいいなって」


 ムニラは口下手だから自分からこういうことを喋ったりはしない。けれど、こうやって作品で自分の思いをたくさんを表現しているのだ。それが、そんなムニラが、僕たちが自分たちの家で食事をしている絵をこのレストランに自分から飾りたいと云ったことはとてつもないことだ。


 それだけムニラは、僕たちと一緒にいるということが特別だと思ってくれているのだ。


 それから僕たちはお昼ご飯を食べ終えた。ヘンリーッカの演奏がはじまる時間まで食後のお茶をしながらムニラの絵を見たりお喋りをしていると、オーナーさんがレストランの奥からやって来てムニラに挨拶をした。


 オーナーさんは背が高くて身体つきのしっかりとした年頃の男性だった。


「ムニラさん、絵、ありがとう。この絵いいねって云ってくれるお客さんがたくさんいてね、そのこといつか知らせないとと思ってたところなんだよ。うちに来てくれたの丁度よかった」

「うん。こちらこそ。料理おいしかったよ」

「ねえ、オーナーさん、ムニラが描いたあの絵のことはどう思ってるの?」


 ベルが《わたしたちの食卓》を指さしながら好奇心のままに聞いた。隣に坐っていたフェリシアがベルの肘のあたりをつまみながら小声で、ちょっと、と嗜めるが、もう質問はされたあとだ。撤回することはできない。


「ああ、あれかい? 最初は他の絵から浮いてるから不思議な感じがしてたんだけど、たまにあの絵が目に入ったとき、うちのレストランもあの絵みたいに食事をしてるお客さんばっかりだってことがわかって幸せな気分になるんだなあ。じつはあの素朴な絵が僕の一番のお気に入りかもしれない」

「そう」


 オーナーさんの感想を聞いたムニラは無表情で返答した。でも僕には彼女が照れているとわかった。そしてわかったのは僕だけではなくベルたちもそうだったようで、すこし面映そうに笑ってオーナーさんにお礼を云った。


「そう云ってくれてうれしい。ありがとう」

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