1-1 ハチミツ漬けの春
その日、僕たちはフィナンシェの広場に遊びに来ていた。年頃の少女が主役を張る映画の色彩のように、世界全体がクリーム色に霞んでいる春のはじまりの日だ。
あまりにもあたたかく気持ちのいい朝だったので、ベルティーユ――きみのことだね――の一声で屋敷を飛びだしてみたのはいいけど、みんなやりたいことはこれといってなかった。たんぽぽの咲く小道を広場までまったりと歩いているあいだにも、いいアイディアはまったく浮かばなかったのだった。
それでもベルティーユはフェリシアに三つ編みにしてもらったブラウンの髪を振り回しながら、ぐいぐいと先頭を歩いてひっきりなしに喋った。たとえば、フェリシアの詩のこと、ムニラの絵のこと、ヘンリーッカの音楽のこと、スズネのダンスのこと、僕の小説のこと。
僕たちはベルティーユになにかやりたいことはないの? と訊いたことが一度だけある。
「やりたいこと? うーんそうねえ、詩だって書きたいし、絵だって描きたいし、楽器だって演奏してみたいし、ダンスも踊ってみたい」
「小説はどうなの?」と僕はたずねる。
「小説はたいへんだからイヤ」
僕は肩をすくめた。
それから僕たちはベルにやりたいことを訊くことはしなかった。
よくよく考えてみれば僕たちはこれがやりたいんだ、と決意してやりはじめたわけではなくて、なんだか知らないうちにやっていて、知らないうちに好きになっていて、だからこそそれが自分の人生の仕事だと思うようになったのだった。
「ベルだっていつかはやりたいことがみつかるでしょう」
フェリシアは僕に耳打ちしてくれた。僕は頷いた。
フェリシアのやりたいことは詩だった。詩人というのは不思議な人種で、どのようなことをやったり云ったりしても、それが深遠な意味を含んでいるように思える。
フェリシアは好奇心が旺盛なきれいな赤色の髪を持った少女だ。僕をのぞけば彼女が一番歳上だったけど、彼女の気性だけは一番歳下のように思えるほどのものだった。
フェリシアは移り気で天邪鬼でめんどくさがりで、そして好奇心が旺盛だった。
めんどくさがりと好奇心が同居している性格が非常にめんどくさいものだってことは彼女と一緒に暮らしてよくわからされた。
「明日は絶対に映画を観に行きましょう。あたしはこのドレスを着て、あなたはこの紳士的な帽子をかむって、映画に行きましょう」
夜ご飯のあとにソファで雑誌を読んでいたフェリシアがそう提案したことがあった。
だから僕はいつもより早起きをして朝ご飯の準備をしながらそれを食べて、帽子にブラシをかけお出かけの準備も万全にした。フェリシアを待った。フェリシアは起きてこなかった。
僕たちの寝室でまだ夢をみているフェリシアに「今日は映画に行くって云っただろう」と云って起こすと、彼女は、
「昨日は遅くまで詩を書いたから今日は眠る日なの、そして夢のなかで昨日書いた詩がばらばらになってもう一度くっついて、そしてすばらしい詩になって完成するの、だから起こさないで」と云った。
フェリシアは万事このような調子だ。しかも、けっきょくは夢のなかではその詩は完成しなかった。
「夢で書いたものより昨日書いたやつのほうがいいわね」とフェリシアは云った。
フェリシアの言動を思いだすとすこしだけ頭が痛くなってくる。でもこれを嫌だと思うことはない。どうしてだろう。
そうやって彼女たちのことを考えながら、僕は彼女たちとフィナンシェの広場のお店をぐるっと見て回った。
どの知り合いたちも春の陽気でトリップしているのか、いつもよりも賑やかだった。
パン屋のおばさんは道行く知り合いすべてに声をかけ、天気のこと、育てているチューリップが冬をちゃんと越したこと、飼い犬のマーリーのことなど、この世界にあった出来事のなにもかもを喋くり倒しているようだった。
つかまるのは面倒だったので、僕たちはパン屋の前を通りがかるのはやめた。
「ふぅむ」とベルは歳に似合わない吐息をもらした。「ココアでも飲みたい気分ね」
「じゃあいつものとこにしようか」とフェリシアが答える。
いつものとことは、僕たちが贔屓にしているバルだ。
フェリシアは広場で詩を朗読したあと、かならずこのバルで一息つく。そうして詩を一篇書き(しばしば二篇書き)、いつものエスプレッソを飲んでから帰宅する。
だからフェリシアが町に繰りだしていったときは、だいたいはこのバルにいることになるから、必然的に僕たちの行きつけにもなる。僕たちは詩を書いているフェリシアを眺めていたい。
バルは広場で一番いい陽射しを浴びているところに立地している。
店先にはいくつかの白い木製のテーブルと椅子が置かれていて、大きな白いパラソルが快適な影を投げかけている。店の壁も真っ白。店名もどこかの国の言葉で「白」という意味だ。
ベルは真っ先にカウンターに行ってココアを注文していた。僕たちは追いかけ、僕は自分とフェリシアの分のエスプレッソ、スズネは煎茶、ムニラとヘンリーッカは紅茶を注文した。ムニラはそれとは別に大量の砂糖も注文している。
ココアは驚くほどはやくサーブされた。ふちの厚い白いマグカップを受け取ったベルはこぼしてしまわないように注意しながらテラス席へと飛んでいった。白い椅子に腰をかけて、足を組んで春の風景画の一部となってしまった。
僕たちは苦笑いで見送って自分たちの飲み物を待った。
「お嬢さん、様になっているね」
「あら、皮肉かしら」ベルが悪戯っぽい笑みを浮かべながら僕をみつめた。
ベルはコーヒーが苦手なためココアや紅茶ばかり飲む。何度か思いだしたようにコーヒーに挑戦するものの、やはり苦いのはダメなのかいつも残りをぜんぶ僕に押しつけてくる。
「子供舌っていうのは誇るべきことなんだよ。大人はどんどん味覚が鈍くなっていって、だから苦さとかそういうのが平気になっていくんだ」
「そうなの?」ベルの悪戯な表情はぽかんとした年相応のものに変わった。
「そう。だから今のその苦さはかけがえのない苦さなのさ」
「年寄り臭いこと云ってるわねえ」とエスプレッソを持つフェリシアがからかうように云った。
「君たちより一回りは年上だからね」
僕の面白みのない返事にふうんと云ってから、フェリシアはベルに椅子を近づけてくっつくようにして坐った。そして自分の鞄から雑誌を一冊取りだしベルの前に広げた。
「この服どう?」とフェリシアはベルに覆い被さるようにして訊く。
「どうって、私の? シアの? ってちょちょ、ココアこぼれるって!」とベルは云う。
あああ! と僕は彼女たちの飲み物を退避させた。彼女たちはそれを気にせず雑誌を見ながらわいわい云っている。
ムニラが紅茶を慎重に運んで来るのが見えたので、彼女のために椅子を引いておく。スズネがその後ろからムニラを見守るようについてきていた。
ヘンリーッカは店のひとに請われてピアノの前の椅子に坐って演奏の準備をしていた。これはいつものことだ。
このバルの肥えた女店主はヘンリーッカの演奏が好きで、紅茶と引き換えに何曲か演奏を頼んでいるのだ。また週に一度、夜の営業のときにもヘンリーッカは呼ばれ、ディナーを彼女で音楽で満たしている。
ピアノに備えつけられた椅子に坐るヘンリーッカの背中は、ピアノと比べるととてもちいさく思えた。
屋敷にあるのはチェンバロで、バルのピアノよりもよっぽどちいさい。その光景を見慣れているからピアノを弾こうとするヘンリーッカを見るといつも不思議な気分になる。
はたしてあんなにちいさい身体なのに大きなピアノなんて弾けるのかな?
でもそれはまったくの杞憂だ。
ヘンリーッカのちいさな手は鍵盤の上をたおやかに踊り、すばらしい音楽を奏でる。まるでヘンリーッカ自身からその音が出ているように思えてしまう。でもそれは錯覚だ。
ヘンリーッカの指が鍵盤を押し、その鍵盤とつながったハンマーがピンと張ったピアノ線を叩くことでピアノ線が振動し、その振動がピアノの木材を震わし、その震えが空気に伝わることで音になる。
いい音楽はそんな迂遠な手続きが行われているようにまったく思えないものだ。
楽器が演奏者の身体の一部になっていて、思うままにまったく自然に音が奏でられているように思える。それがすばらしい音楽だ。
そのような音楽を聞くたびに、僕は身体が震えてしまう。人間はこんなことができるのだ、と。
そうやって僕たちはテラス席でヘンリーッカの演奏を聞きながら春のひとときをすごした。
花の匂いを含んだあたたかい風が僕たちを撫でるように吹き去っていく。瞼がすこし重くなって眠たいような甘い感覚になる。
僕は気づかないうちにゆっくりと身体を揺らしていたようだ。
僕の向かいに坐るスズネの手や脚も音に合わせて動いていた。彼女はダンサーだからすべての所作が綺麗だった。こうやって思わず身体が動いてしまったというときでも、即興の作品のようだった。
しばらくスズネの、その春の風の流れのような動き――この日はなにもかもが春だった――を眺めていると、僕の視線に気がついたスズネはすこし面映そうに笑ってこう云った。
「春の陽気にトリップしちゃいました」
スズネの云うように僕たちは春に包まれていた。
すべてがハチミツ漬けになっているようなそんな日。
だから僕たちはこれ以上やるべきことが思いつかなかった。春だった。それだけで充分。
各々の飲み物を飲み干した僕たちは、夕飯の食材を買ってそのまま帰宅した。