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さよならを云って  作者: 久慈くじら
第二章 春
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Interlude 2

 ベッドに寝ているベルは僕が朗読し終わった姿を見てなにかを云おうとしたけど、ためらったあと言葉を飲み込んだ。僕は彼女その表情を見て次に書くべきことを決めた。


 言葉は発声するか文字にするかしないと言葉にはならない。


 ベルがなんと云おうと思ったのかわからなくもない。たぶん、私のために書いてるんでしょ、だと思う。


 でもこれが合っているかどうかはベルに訊いてみないとわからないし、そして僕は訊く気がない。だからこのことは永遠の謎になるだろう。

 発せられなかった言葉は心理の迷宮でさまよったあと、どこかの片隅で風化し、塵となって心理世界に広がっていくだろう。


 言葉の死骸の塵で世界をいっぱいにしてはならない。世界は開かれていて自由であるほうがいい。歩きにくい足元ばかりに気を取られていると歩みは遅くなるし、がらんと広がっている世界を見渡すことができない。


 もしここで僕がベルに、私のために書いてるんでしょ、って云おうとした? と訊いて彼女の手助けをしたとしよう。僕はそれが彼女のためになるとは思えない。

 心理世界は自分ひとりでのみ歩くことができるからだ。


 外部からの助けを待つのは、名峰の頂上に辿りついた登山家が降りるのがめんどくさいとヘリコプターが偶然現れるのを待っているようなものだ。


 だから僕は彼女の心を推し量って手助けするようなことはしない。僕は、ベルが自分から手を伸ばすためのきっかけを作ることしかしない。


 そのために小説を書いている。


 持っていた数十枚の原稿用紙をふとももに打ちつけて揃える。

 僕は本来はパソコンで小説を書く人間だ。現代の人間はだいたいがそうだろう。もしかしてスマートフォンやタブレットで書くひともいるかもしれない。


 だからそうやって電子の言葉でできた小説は印刷ということをしなくては物理的な重さに変わることがない。


 さらには活字が印刷された紙の束は、手書きの文字で埋め尽くされた紙よりも与える印象が軽い。

 手書きの文字を見たとき、それを書いている光景を思い浮かべることが簡単だからかもしれない。


反対に活字の場合は、どのように書かれたのかを思い浮かべるのが難しい。思いが遠いところにあるような気がするのだ。


 僕は原稿用紙を革の鞄に仕舞って、坐っていたスツールを元の場所に戻すため窓際に行った。

 東向きの窓からはこの街で一番高い山が見えた。夏の青空に大きな入道雲が浮かんでいる。


 この風景を見るたびに僕は切なくなる。僕の少年時代が再び訪れることがないと思わせるからだった。


「なにかいいものでも見える?」


 ベッドに寝転がっているベルが興味なさそうな声色でそんなことを云った。


「いいもの……? うん、そうだねいいものだったよ。昔はべつにいいものだとは思っていなかったけど、こうやって大人になってみるといいものだったって思うよ。今の僕にはもう存在しないものさ」


「どういうこと? それって物じゃないんでしょう」


「昔は持っていたのに、大人になったら気づかないうちにどこかに落としてしまっていたものだよ」


「どうしてそう具体的なことを云ってくれないの?」


「具体的に云ってしまったら、大人たちがよく云うことと同じになってしまうからあまり云いたくないんだよ」


 素直に云うとベルは頬を膨らまして不機嫌になってしまった。僕もそういう大人のひとりであると思われてしまった。

 でも、僕がそうだとわかって不機嫌になるということは、少なからず僕に心を許しはじめていたということでもあった。


 僕はもう今日の役目を終えたので帰らなくてはならなかったが、ベルを不機嫌なままにしておくわけにはいかなかった。

 窓際に戻したスツールを掴んで再びベッドサイドに置いて坐った。

 それからベルの機嫌を回復させるために喋りかける。


 しばらく会話をしているとベルに小説を書いているところを見せてほしいとせがまれた。


「小説ってほんとうにただ書いてるだけで生まれるものなの?」


「うーん、たしかに見た目だけでいえば書いてるだけだろうけど」


「はっきりしない云いかたね」


「そりゃね。実感としては書いてるだけっていう感じはしないし……」


「それじゃあ書いてるところを見せてくれない? そしたらなにかわかるかもしれないし」


「わかったよ。それじゃあテーブルを持ってくるね」


 幸い鞄には白紙の原稿とボールペンを入れていたので書くことはできる。どこまで書けるかはわからないけど、小説を書くということに幻滅されないようにしたい。

 でもそのためにどうすればいいのかはわからないから、いつも通りに書くことしかできないだろう。

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