2-5 祈りと芸術
お爺さんは語り終えた。
「エマさんはそのあとどうしたの?」
「お菓子屋さんをしたよ。とても繁盛した。エマさんのお菓子を食べたひとは、みんないい芸術家になったんだよ」
「魔法みたいね」
「きっと祝福なのだろうね」
この町が芸術で栄えるようになった話だった。
「こんなに重要な話なのにどうしてみんな知らないんですか」
「この広場がフィナンシェ広場と呼ばれているのは知っているだろうね」
「ええ、もちろんよ」僕のかわりにベルが答える。
「そういうものなのさ。名前だけが残って物語は消える」
「それじゃあ意味がないじゃないですか」
「物語には意味があると? この話を知っても君たちの暮らしは変わらないだろう」
「そうかもしれないですね。ええ、きっと変わらないと思います。けれど暮らしっていうのは、なにも物理的なものだけじゃありません」
「そうさ。君はなんの芸術をしているのか教えてもらってもいいかな」
「小説を書いています」
「ははは、それなら私の語りはお粗末だったかな」
「いいえ、とてもいい語りでした。とても」
「でもこのひと、まだ小説を発表できていないのよ。小説家っていうにはおこがましいわ」
「ならまだ私のほうが物語にたずさわるキャリアとしては長いかな」
「もちろんそうでしょう」
「けれど、私に力がなかったばかりに、この物語は誰の記憶にも残らないものになってしまったのさ」
「じゃあ僕たちが伝えますよ」
「わかってるさ。そう云ってくれるという確信があったから、私は語ったのさ」
お爺さんはそう云ってからカフェを去った。僕とベルは広場とオブジェを眺めた。このオブジェをリンゴが作ったのだ。
それからしばらくぼうっとしていると、突然椅子から立ちあがったベルがオブジェのほうへと駆けだした。
「あったわ!」
ベルがオブジェのそばにしゃがみこんでなにかを見つけたようだった。彼女が指し示すところには果物のリンゴの絵が彫ってあった。
エマの器用さが出ているのか、硬いものに彫ったとは到底思えないほどうつくしい形をしたリンゴだった。
「あのお爺さんのお爺さんが子供のころっていうことは、いったいどれくらい前になるのかしら。想像できないわ」
「そうだね」
「でも、こうやって残ってるってことは、たしかにあったっていうことなのよね」
「うん、芸術ってすごいよね」
「それじゃあ、残らなかったら意味はないのかしら」
「それは違うと思うな」
「どうして? リンゴは芸術のすばらしさを伝えるためにこのオブジェを作ったんでしょ?」
「ベル、それは重要なことを見落としてるよ。たしかにリンゴは芸術のすばらしさを伝えるためにこのオブジェを作った。でも、なぜ芸術のすばらしさを伝えようと思ったかっていうと、それはエマに感謝の思いを伝えるためだったからさ」
「でもそれじゃあこの話を忘れてしまってるこの町は、リンゴのエマへの思いをなかったことにしてるみたいじゃない」
「ベルは難しく考えすぎだよ。たしかに僕たちはそんな話があるなんて知らなかった。リンゴの思いを知らなかった。だから僕たちが知る以前の僕たちの世界にはリンゴとエマは存在しなかったし、その愛ももちろんなかった。でもそれは僕たちが知らなかったというだけで、リンゴもエマも愛し合っていたということはたしかだ。それは何者も覆すことはできない」
「それは……そうだろうけど……。でも、それじゃあこのオブジェがかわいそうじゃない。その愛の証としてここに残っているというのに、私たちはそれを知らないでいた。かわいそうだし、申し訳ないわよ」
「そうだね。それはそうかもしれない。でもリンゴはこれのオブジェを見たひと全員に自分の愛を知ってほしいと思って作ったわけじゃないと思う。リンゴはフィナンシェのオブジェを作ってエマに見せたときに目的を完璧に達成したと思うよ。もしそのあとすぐにオブジェが取り壊されたとしても、リンゴは愛が永遠に失われたとは思わなかっただろう。オブジェがいくらかの時間残り、意味を纏い続けるのはおまけみたいなものだろうね。もしくは祈りとも云えるかもしれないね」
「じゃああなたが小説を書くのもそうなの?」
「うん」
「いったい誰のために書くの?」
オブジェの側にしゃがんでリンゴの絵を見ていたベルが傍らに立っている僕を見上げてそう云った。
僕の背後に太陽があるからか、ベルは眩しそうに目を細めていて表情はよくわからなかった。
僕は返答するのをためらった。きっとこのベルに云っても仕方がないことだからだ。だから僕は曖昧に微笑んでこう云った。
「それを云ったら僕が書いている小説は力を失ってしまうかもしれない」
◇ ◇ ◇
家に帰る前の買い出しの最中、僕はベルにぶーぶー文句を云われっぱなしだった。
神秘的な作家を演出しようとしている、とか、まだ一作も完成してないくせに、とか、そんな程度で力を失うなら最初から力なんてないわよ、とか。
でも散々に罵倒されても頑としてはぐらかした。でもベルに対してはこれだけは云っておかなくてはならなかった。
「そのうちわかるよ。いや、そのうちわかるように書いてる。そうじゃないと意味がない。だから云わなくても大丈夫」
その言葉は僕にとってはとても大事な意味があったけど、僕の態度に不満を覚えていたベルはまたまたはぐらかしていると思ったらしく、拗ねた表情になってしまった。
「もういい。今日はおいしいものいっぱい作ってくれなきゃ怒るから」
「わかったよ」
僕はもっと拗ねられるのを覚悟していたから、ベルのその言葉がかわいくて仕方がなかった。
とびきりおいしいものを作ろうと、ベルの好物のなかでも最近食べていないものはなんだったっけと考えつつ食材を選んだ。