2-4 フィナンシェのオブジェ
最近は夏が近づいてると感じる日もあった。朝から暖かくずっと外に出ていたいような天気の日は、誰かをつれてどこかにでかけるようにしていた。
気の早い少年が川で水遊びをし、やっぱりまだ冷たいや、と云って家に駆けていくような春の終わり頃だった。その日はベルをつれて町に遊びに行った。いつものようにまずはフィナンシェの広場までやって来ていた。
フィナンシェ広場にはフィナンシェのオブジェがある。このオブジェはいつどこでどのようにして作られたのか僕たちは知らなかった。ベルと手をつなぎながら、フィナンシェのオブジェの周りを歩く。
「ほんとこれ、なんなのかしらね」
広場のまんなかに鎮座するそのブロンズ色の分厚い板をベルはぺたぺたと触った。
「ひんやりするよね」
「金属ってやつなんでしょう」
ベルはぴょんぴょん飛んでオブジェの上面に手をかけようとしているが、まったく届いていなかった。僕が背伸びをしても届かないところにあるのだから、ベルのジャンプは無謀な挑戦としか云いようがなかった。
「手伝ってよ」
「えー」
それは肩車をしろという意味だった。けれど肩車をしたって決して届く高さじゃなかった。
「届かないことはわかってるわよ。けれどやるの」
「しかたないですね、お嬢さま。よっと」かけ声をかけ僕はベルを肩の上にのせた。「軽いね」
「レディーですから」
そのままぐるっと回ってくださる? という注文をうけたので、僕はオブジェの周りをゆっくりと歩いた。
「どう?」
「とっても高いわ。それに遠くがみえる」
「なにがみえる?」
「山、森、丘、あ、ヒツジかヤギがいるわ。牛もね。それと……家は見えるかしら」
「それはたぶんあそこらへんだよ。見えにくいけどあの坂のあたりのべったりとたくさん家がはりついているところ」
「うーん、よくわからないわ。あ、ムニラが歩いてる」
「ほんと?」
「ほんとほんと。たぶんスケッチかなにかに行くのね、あ、見えなくなった。この広場、町のまんなかにあるから建物がありすぎなのよ」
「そうだね。オブジェはどう?」
「まあ、高いところから見ようがオブジェはオブジェね」
僕はベルを降ろしていつもの白いカフェに入った。コーヒーとココアを買ってテラスで休憩をしていると、先に坐っていたよく見かけるお爺さんが話しかけてきた。
「あのオブジェ気になるかの」
もごもごという口の動かしかたにしては、とても明瞭で聞きやすい声だ。
「ええ、とっても。だって誰もなにも知らないんだもの」
「ふむ」と白いひげをしごきながらお爺さんは考えた。「そんなにおもしろい話ではないが、よかったらどうかな」
「なにかあるのね! ぜひお願いしたいわ!」
お爺さんはベルの反応に微笑み、黒色のビールを一口飲んでから語りはじめた。
◇ ◇ ◇
私の祖父が子供だったころ、あのオブジェはまだ広場にはなかった。広場は今と同じような石畳で、ただオブジェがないだけだったらしい。
祖父の家は果物農家で町の外れにいくつか大きな果樹園を持っていた。
果樹園は森を切り開いたところにあって、果樹園の奥には立ち入ってはいけないと祖父は母親に口を酸っぱくして云われていた。ずっとずっと深い森が続いていて危ないのだ。
もちろん子供というのはタブーを破る生き物なので、森に入って迷うというのは誰もが一度は経験することだった。
その日、祖父は自分の父の仕事を手伝って果物を収穫していた。最近はずっと収穫ばかりで相当に疲れていた。だから父にばれないようにサボりたくて、目につかないところに徐々に移動していった。
そうして果樹園の奥の、まさに森と果樹園の境に来たとき、祖父はひとりの男性が倒れているのを発見した。
もとはベージュ色だったのだろうが泥で汚れてカーキ色になっている大きなリュックと、それには不釣り合いなふつうの格好をした男性だ。
葉っぱが身体のあちこちについていたし、腕や頬には枝でついた傷があったので、森からやってきたのだろうと思われた。
祖父はすぐに父を呼び、倒れている男を見た父は男の状態を確認してから、まあ死んではいないと云って祖父を安心させてから、祖父にほかの大人を呼びに行かせた。
男は父と大人たちによって祖父の家に運びこまれ、次の日の昼に目を覚ました。
男は自分がどうしてここにいるのかわからないと話した。そして自分の名前もわからないとも。
リュックには着替えと大工で使うような道具と食料が入っていた。どこから来たのかを示すものはひとつもなかった。
男が行くあてはなかった。そのまま祖父の家に住み込むことになった。
大工の道具があったので男に大工仕事をさせてみたが、道具の使い方はうまいものの、木の扱いはなっていなかった。大工が使う道具に似ているが違うものだ、たぶん彫刻だろう、と町の大工は云った。
当時の町には彫刻家などいなかったし、ほかの芸術家もいなかった。
その男がほんとうに彫刻家なのかたしかめる術がなかった。
そうして男はこの町に住みついた。名前がないのが不便だったので、誰かにつけてもらうことになった。
最初にみつけた祖父がつけることになった。
男をみつけたとき収穫していた果物がリンゴだったので、彼はリンゴという名前になった。
リンゴは安直なネーミングに怒るわけではなく、むしろ笑って「いい名前だ。大物になりそうだね」と云った。
そうしてリンゴは果樹園で数年働き、エマという恋人もできた。
エマは靴職人のひとり娘で、手先が器用だった。
リンゴもエマも貧乏だったが幸せだった。エマは器用さを活かしてよくお菓子を作ってあげた。
祖父はリンゴからたまにお菓子をわけてもらうことがあったが、それは祖父の家の果物を使ったパイだったからで、それ以外のお菓子をもらったことはなかった。
リンゴが一番好きなお菓子はフィナンシェだったが、あまりにもシンプルすぎるお菓子だからエマは腕の振るいどころがないと云っていたが、リンゴはシンプルだからこそ実力が出るんだと云って幸せそうに笑った。
しかしリンゴはひとつもエマに返せるものがなかった。だからリンゴはエマとの結婚の話が出ても、ずっと居心地が悪そうにしており、まだその時期じゃないなどと理由をつけてはぐらかしていた。
あるときからリンゴは休日にエマと会うことが少なくなっていった。
エマは疑い、問い詰めたり、遠回しに聞きだそうとした。しかしリンゴはなにも云わなかった。
ただ、散歩している、森に行っている。それだけしか云わなかった。
周囲もリンゴの行動を不審に思った。けれども誰もリンゴが休日になにをしているのかわからなかった。森に入っていく後をつけてみても、かならず見失った。
エマの不信が高まっていたある日のことだ。
広場のまんなかにとつぜんブロンズ色の板が出現したのだ。それは町を騒がせた。
すべての住人がそれを見て、これはいったいなんだ、なんの意味があるのか、誰が運んだのか、誰が作ったのか、と口々に云った。
そして騒ぎを聞きつけたエマも広場のその板を目にした。そしてエマはこう云った。
これはフィナンシェよ。
たしかにそれはよくみてみれば、ただの平べったい板ではなく、片面がすこしだけ盛りあがった形をしていた。それはエマが作るフィナンシェにそっくりなのだ。
そしてこのようなものを作れる人物はひとりしかいなかった。エマの恋人のリンゴだ。
住人がリンゴを探しに駆けだそうとしたとき、彼はとつぜん広場に現れた。
エマは駆けよって彼に抱きついた。リンゴはエマを強く抱きしめたあと、住人に向けてこう云った。
僕はエマのおかげで自分が何者なのかを思いだした。
僕は芸術の神だったのだ。
だからエマと結ばれることはない。それが人間と神というものなのだから。
僕は辛かった。どうエマに云えばいいのかわからなかった。けれど、エマにお礼がしたかった。僕が僕であることを思いださせてくれたのはエマだ。エマの強い愛によって、僕は自分がやらなければならないことを思いだしたんだ。
リンゴは自分が彫刻家なのかもしれないという可能性に賭けたのだ。
エマへの贈りものは自分が作った彫刻しかない。そしてリンゴは誰にも目につかない場所で彫刻を試した。
そしてリンゴは思いだしたのだ。
自分は芸術の神なのだと。
そして人間に芸術を教えにやってきたのだと。
そしてリンゴはこう云った。
このフィナンシェのオブジェをこの広場に置かせてもらえないだろうか。この広場はよくエマとデートした場所なんだ。そしてこれを見て芸術というものがどんなに素晴らしいものなのか知ってほしいんだ。
嫌だと云う住人はひとりもいなかった。
リンゴはその様子を見るとエマの腕のなかでだんだんと空気中に溶けてゆき、最後には痕跡すらなくなってしまった。エマは中空を抱きしめた。
エマは何日も泣き通した。そしてある日、ノミとハンマーを持って家を出て広場に向かった。そしてフィナンシェのオブジェにノミを突きたてハンマーで叩いた。
フィナンシェのオブジェには果物のリンゴの絵が描かれた。
それを見ていたいたずら小僧がエマの真似をしてフィナンシェになにかを彫ろうとしても、いっさい傷はつかなかった。
そのオブジェはエマにだけ許されているのだ。