2-1 チェンバロ
春の中頃こと。
今日もいつものように屋敷の掃除をしていた。窓を拭いていると、お掃除妖精さんが手すりを拭きながら階段を下っていった。そのあとを追うように花瓶や手すりも拭いてゆこうと思っていると、階段の下のチェンバロの音が幽かに聞こえてきた。
スズネがチェンバロの鍵盤も掃除しているのかもしれないと一瞬思ったが、無意味な音列ではなく音楽的なものが聞こえてきたのでヘンリーッカが演奏しているのだろう。
階段を降りてみると、やはりチェンバロの前にヘンリーッカが坐って、軽やかな手つきで黒と白の部分をなぞっているのがわかった。
ヘンリーッカの白くて細い指が鍵盤の上をたおやかに踊ると同時にチェンバロの弦を弾く音が次々に聞こえてくる。
彼女に近づき後ろから覗き込むようにして見ていると、彼女は演奏をやめ、振り向いてこう云った。
「やってみる?」
「僕には無理だと思うな」
彼女は首を横に振って、椅子から立ちあがり僕に坐るように促した。
ああ、とか、うう、とかうめき声を出しながら坐ってみると、椅子からヘンリーッカのお尻のあったかさが感じられた。なんだか彼女から力をもらえるような気がするので、うまく弾けるかもしれないと思った。
でもやはり鍵盤に触れてみようとしたとき、どうすればいいのかわからず、身体が固まってしまった。チャンバロは普通のピアノとは鍵盤の色が逆なのだ。ドレミが黒色で、シャープやフラットの部分が白色だ。
「これ、ピアノとはまったく違う楽器じゃないか。黒と白が逆だ」
「音階はピアノとまったく一緒だよ」
苦笑しながらヘンリーッカは答えてくれた。
なるほど、色の配置がピアノと逆なのはおしゃれなのだろう。
おそるおそる鍵盤を押そうと思ったが、なんだかそれは癪なので思い切って鍵盤に人差し指を叩きつけた。
ぺえん、という間抜けな音が鳴った。
「ふふふ」とヘンリーッカが笑った。
僕はむしゃくしゃに鍵盤を叩いた。単音では間抜けだったそいつは、いくつもの音が重なるとべつのものに変わった。
すくなからずヘンリーッカが奏でた音のようにも聞こえたが、しかし明らかになにかが違った。
「うまいね。楽しい?」
「楽しいは楽しいけど、でもヘンリーッカが弾いてるのを見るほうが好きだな」
僕は独奏をやめた。
鍵盤から指を離し、背後に佇むヘンリーッカの顔を伺い見た。彼女の幽かな笑みを見ていると妙に鍵盤が恋しくなった。
もう一度弾こうかどうか両手をふらふら迷わせていると、背後からヘンリーッカの白い手が伸びてきた。
ヘンリーッカの身体が僕の背中にぴったりとくっついた。彼女の白い手は、僕の両手にからむようにして鍵盤を叩きはじめた。彼女の吐息が首筋に感じられる。
目をつむる。あたかも僕がチェンバロを弾いているみたいだ。背中から伝わる暖かさがよくわかる。
ヘンリーッカの口からもれる呼吸が、だんだんとチェンバロのリズムと同じになってくる。首筋がぞくぞくとしてヘンリーッカの匂いが麻薬のように身体じゅうにまわって陶然とする。
僕はいまヘンリーッカだけを感じている。ヘンリーッカの身体は甘い匂いと少女の薄い柔らかさと白い肌とチェンバロの音でできていて、それは僕の身体を取り巻き、真っ白な世界を蜜のような祝福で満たしていっている。
それからどれほどの時間が経ったのか僕にはわからなかった。音楽にはそういう力がある。
「楽しいね」
「ああ、音楽だ」