192 理沙と林檎の話⑥
「……ただいま……」
ゆっくりと玄関の扉を開けて家の中へと足を踏み入れながら、私は小さな声で帰宅を告げる。
するとリビングの方からバタバタと慌ただしい音がして、すぐに母さんが息を切らして飛び出してきた。
「ちょっと、理沙! どこに行ってたのよ!?」
「ご、ごめんなさい、お母さん。今日は──」
「話は良いから、早く手を洗ってきなさい! 平井先生が待ってるわよ!?」
公園からの帰り道で予め考えておいた遅刻の理由を答えようとした私の言葉はあっさりと遮られ、母さんに急かされるままに靴を脱いで洗面所へと向かわされる。
すると、リビングで私の帰りを待っていたであろう平井先生がやって来て、慌てる母さんを「そんな、お気になさらないでください」と宥める。
「理沙さんはいつも頑張っておられますし、今日の範囲はそこまで難しくないので、これくらいの遅刻であれば今後の学習に支障をきたすことは無いですよ」
「そう言う訳にはいきませんよ! 平井先生はいつもお忙しい中でわざわざ時間を作って来て下さっているのに……後でしっかり言っておきますから」
母さんと平井先生のやり取りを聞きながら、私は水道水で手を洗う。
手洗いうがいが終わると、先生と共に自室へと向かっていつも通り授業を開始した。
先生にも色々と事情があり、開始時間が遅れたからと言って終了時間を延長する訳にもいかないらしく、授業を終える時間はいつもと変わらなかった。
とは言え、先生も言っていた通り今日の範囲はそこまで難しくなく、いつもより短い時間の中でも何とかギリギリ終えることが出来た。
……授業は、どうにか何事も無く終えることは出来たのだが……。
「自分が何をしたのか分かっているのか?」
「……本当にごめんなさい、お父さん」
授業が終わって、平井先生が帰宅した後。
リビングにて、仕事から帰ってきたばかりの父さんと向かい合う形で座った私は、喉から振り絞った声で何とか謝りながら頭を下げる。
そんな私の言葉に、父さんは一度大きく溜息をつくと、トントンと指でテーブルを叩きながら続けた。
「今までずっと言ってきただろう? 平井先生の授業にだけは遅れるな、って。今までこんなこと無かったのに……どうして今日は、帰りが遅かったんだ?」
「今日は……宿題が、たくさん出て……学校の図書館で、少し進めてから、帰ろうと思って……そしたら、集中しちゃって……気付いたら……」
低い声で問い詰めてくる父さんに、私は喉が詰まって上手く声が出せなくなるかのような感覚を抱きながらも、何とか事前に準備しておいた口実を答える。
……息が苦しい。
少しでも気を抜けば、すぐに過呼吸になってしまいそうな息苦しさが、私の胸や喉を締め付ける。
そんな中で俯いたまま答えた私の言葉に、父さんは数秒程の間を置いた後、一度大きく溜息をついてから「そうか」と呟いた。
「理由は分かったが、いつもは学校の課題も家でしているのに、どうして今日に限って学校でやったんだ? 家に帰ってからじゃダメだったのか?」
「それは……く、クラスの友達から……たまには勉強する場所をか、変えると、捗るって、聞いたから……」
何とかつっかえつっかえ話す私の言葉を、父さんは相変わらず人差し指で一定のリズムを刻むようにテーブルを叩きながら聞いている。
トントンと乾いた音が鼓膜を震わす度に体が強張るのを感じながらも、私は自分の服の裾をギュッと強く握りしめ、父さんの次の言葉を待つ。
そんな私の様子に、父さんはもう一度溜息をつくと指を止め、「そうか」と小さく呟いた。
「大体の理由は分かった。ひとまず、平井先生も今日のことは気にしていない様子だったし、お前も十分反省しているようだからな。これ以上は何も言わないでおこう」
「は、はい……」
「しかし、お前が真面目に勉強に取り組んでるのは良いことだが……くれぐれも、今日みたいな真似は二度とするんじゃないぞ」
声のトーンを落として念を押すように言う父の言葉に、私は拳を強く握りしめながら、「はい、お父さん」と掠れた声で答える。
リビングを出た私は自室へと戻り、勉強机の椅子に腰かけて、胸に溜まった重たい気持ちを吐き出すように大きく溜息をついた。
疲れたが……こうなることが分かっていたから、今までは絶対に、家庭教師の授業にだけは遅れないようにしていたんだっけ。
でも、不思議と……今日あの公園に行ったことは、後悔してない。
昨日林檎と約束した時は、もしかしたらそういう気持ちが湧くかもしれないと思っていたのだが……。
確かに、授業に遅れて先生に迷惑を掛けたのは申し訳ないと思っているし、父さんの説教を聞くのは辛い部分もあったが……林檎に会いに行かなければ良かった、という考えは全く無かった。
「……そういえば」
そこでふと、林檎から貰っていた物があったことを思い出し、私は小さく声を漏らす。
すぐさま通学鞄に手を伸ばし、中に仕舞っていた二枚の紙を取り出す。
何も書かれていない紙と、鉛筆で書かれた大きな文字が躍る紙を交互に見た私は、フッと息を吐くように笑みを零した。
「何これ。……汚い字」
小さく呟きながら、私は椅子の背凭れに背中を預けて林檎が書いたプロフィールとやらを見つめる。
最初の方には林檎の名前や住所、誕生日や血液型等の個人的な情報が書かれていた。
その下には、自分の趣味や特技等の、趣味嗜好に関することが書かれている。
横長の紙の右側に視線を向けてみれば、好きな食べ物や色等の、自分の好きなものに関する項目についての解答が書いてあった。
「……っ」
林檎の好きな物についての情報を上から一つずつ見ていた私の目は、一番下に書いてあった『好きな人』という項目を見て、思わず止まってしまう。
「……好きな人……か……」
目の前の文字を思わず読み上げながら、私はもう片方の手に持った白紙のプロフィールに視線を向ける。
……私は今から、同じ質問に答えないといけないんだよな……?
他の質問はなんとなく答えられそうだが……好きな人、か。
一応、林檎のプロフィールには『お母さん』と書いてあるが……と悩む私の脳裏に、今日の夕方、家庭教師の授業に遅れた私を急かす母さんの姿が蘇る。
それと同時に胸の奥が曇るような感覚がして、私は思わず口を噤んだ。
母さんは違うな、と心の中で否定すると、今度は父さんの顔が脳裏に過ぎる。
……父さんも、好き、では……無いよなぁ……。
他にも、同級生や学校の教師、家庭教師の先生等の顔が浮かんでくるが、どれもいまいちピンと来ない。
というか、そもそも特定の誰かに対して好意を向けた経験が無いような気がする。
……ひとまず、裏もあるみたいだし、先にそちらを確認するか……。
私は一度椅子に座り直し、裏側を確認する。
裏の内容は、『もしも魔法が使えたら?』や『もしも百万円あったら?』等のお題について想像して答えるような質問だったり、このプロフィールの持ち主についての印象や気持ち等に関する質問が書いてある。
ちなみに、林檎はこのプロフィールの持ち主だからか、私への印象や気持ちが書かれているようだ。
あとは左上の方には『LOVEコーナー』という名目で恋愛系の質問が幾つか載っているが、これは林檎も空欄なので、私も答える必要は無いだろう。
あとは、右下の方に『メッセージ』というタイトルで、自由に色々書ける大きめの空欄がある。
『こまってることがあったらなんでも言ってね!
わたしが力になるよ! げん気出して!』
そこには鉛筆で書かれた文章と共に、何やら人の顔のような物が二つ描いてある。
これ……もしかして、私と林檎のつもり?
似てないなと思いつつ、彼女の純粋な気持ちが真っ直ぐ伝わってくるような文章に、私はまたもや笑みを零してしまう。
しかし、他の項目も何とか埋められそうではあるが、問題は……──。
「……」
私は自分の首をポリポリと軽く掻きつつ、ひとまず先に他の項目から埋めていこうと考え、椅子に座り直して勉強机に向かう。
平井先生の授業で使って出しっぱなしにしていた鉛筆を持ち、白紙のプロフィールを埋めるべく、丸くなった先端を走らせた。
この話を書く際、参考資料として文房具でプロフィール帳を買いました
プロフィールの項目の中に心理テストという物があったのですが、心理テストの答えがどこにも載っていませんでした
訳が分からないです




