188 理沙と林檎の話②
「それじゃあ、今日の授業はここまでです。お疲れ様でした」
「はい。ありがとうございました」
今日の授業を終えて締めの挨拶をする家庭教師の女性に、私はいつも通り笑顔を浮かべながらお礼を言う。
先生は特に表情を変えないまま軽く会釈をすると、そそくさと授業に使った資料や参考書を片付けて帰り支度を済ませる。
私はそれを見て、すぐに椅子から立ち上がった。
「先生、今日もありがとうございました。お気をつけてお帰り下さい」
「……えぇ。また、次の授業でお会いしましょう」
「はい。次もまた、よろしくお願い致します」
軽く頭を下げながら続けた私の言葉に、先生はもう一度軽く会釈をして部屋の扉を開ける。
すると、丁度仕事から帰って来たばかりの父さんが部屋の前を通り掛かったところだったようで、先生を見て足を止めた。
「平井先生、もう帰るところですか?」
「はい、そうですね」
「いつもありがとうございます。先生のおかげで、理沙はクラスでも上位の成績をキープ出来ていますよ。この前のテストもクラスで一番だったらしく、妻も喜んでいました」
「いえいえ。それもこれも、理沙さんが努力した結果ですから。けど、私の授業が少しでもその手助けとなっているのであれば……──」
部屋の扉を開けたまま会話を続ける父さんと先生の声を聞き流しながら、私は授業で使った教科書やノートを片付ける。
平井先生の授業が終わった後は、今日の授業の復習をして、明日の学校の予習をして、それから……──。
「理沙。入るぞ」
思考を巡らせながら明日学校で使う教科書を纏めていた時、開けたままの部屋の扉をコンコンと軽く叩く音と共に、そんな声がした。
慌てて振り向くと、こちらまで歩いてくる父の姿があった。
「……おかえりなさい、お父さん。私に、何か用?」
「母さんから聞いたぞ。今日は家庭教師の日なのに、帰りがいつもより遅かったらしいな。何をしていたんだ?」
私の勉強机に手をつきながら問い掛けてくる父さんの言葉に、私は今日の帰り道での出来事を思い出し、頬が微かに強張るのを感じた。
……大丈夫。このような質問をされることは、容易に予測出来ていた。
教科書を持つ手に少しだけ力が込もるのを感じながら、私は顔に浮かべた笑みを崩さず口を開いた。
「実は今日、家に帰る途中で学校に忘れ物をしたことに気付いて……取りに戻ってたら、帰りが遅くなっちゃったの。ごめんなさい」
「その忘れ物は、平井先生の授業よりも重要だったのか?」
「今日の授業で使う教科書だったから……ごめんなさい。次からは気を付けます」
私の言葉に、父さんはしばしの間ジッとこちらを見下ろしていたが、やがて小さく息をついて「それなら良いが」と呟くように言った。
「本当に、次からは気を付けるんだぞ? 今日は間に合ったから良いようなものだが、くれぐれも授業に遅れるような真似はするんじゃないぞ。平井先生だって、忙しい中でわざわざ時間を作って来て下さってるんだからな」
「うん。……分かってるよ」
……家庭教師に来て欲しいなんて、頼んだ覚えは無い。
笑みを絶やさないまま父さんの言葉にそう答えるのと、頭の奥の方でそんな冷ややかな声がしたのは、ほとんど同時だった。
突然のことに内心で動揺していると、父さんはトントンと指で私の机を叩きながら「しかし、良かったよ」と続けた。
「母さんからこの話を聞いた時は、まさか理沙に悪い友達でも出来たんじゃないかと思って、ヒヤヒヤしたんだからな。ホント、安心したよ」
首を横に軽く振りながら語る父さんの言葉に、夕方の公園で出会った少女の顔が脳裏に過るのと同時に、胸の奥がざわつくような何とも言えない違和感がした。
どうして、今……あの子の顔が……?
「何度も言ってるから分かっているとは思うが、お前は将来、この家の跡を継いで学校の先生になるんだからな。将来のことを考えて、自分のレベルに合った友達と付き合うんだぞ?」
「ちゃんとわかってるから、大丈夫だよ。でも……心配してくれてありがとう、お父さん」
胸中を埋め尽くすモヤモヤした感情を押し殺し、私は小さく笑みを浮かべながら答えた。
父さんはそれに小さく一度頷くと、踵を返して部屋から出て行く。
バタンと音を立てて扉が閉まったのを確認した瞬間、私は強張っていた体から力が抜けていくのを感じ、椅子の背凭れに体重を預けた。
「……疲れた……」
その言葉は、ほとんど無意識のうちに、口から零れ落ちる。
……どうして?
小さい頃から、ずっと続けてきた生活なのに……どうして今更、疲れたなんて思ってしまうんだろう?
いや……それを言ったら、ここのところずっと変だ。
どうして急に、この生活が嫌になってしまったんだろう?
どうして今更、ここでは無いどこかに逃げ出してしまいたいなんて、願ってしまったんだろう?
どうしてこんなに……息が苦しくなるんだろう……?
「……明日の、準備……しなくちゃ……」
頭の中が疑問符で埋め尽くされるような感覚の中、私は無意識のうちに口から零れ出た言葉に従うように体を起こし、机の上に乗った通学鞄に手を伸ばす。
しかし、鞄を掴もうとしたその手に上手く力が入れることが出来ず、ファスナーが開いたままだった鞄は中に入っていた教科書やノートをぶちまけながら床に落ちた。
「しまっ……」
小さく声を漏らしながら椅子から立ち上がった私は、とにかく散乱した物を片付けようと、すぐさまその場にしゃがみ込む。
そこで、近くに見覚えの無い小袋が落ちていることに気付いた。
「……これは……」
掠れた声で呟きながら、私はその小袋を指で摘まんで自分の手元に持ってくる。
薄い黄色の背景に赤いリンゴが描かれており、中に何やら固い球体のような物が入っている、掌に収まる程度の小さな袋。
これは、リンゴの飴……? こんなもの、一体どこで……──。
『だから、それ……あげるっ!』
見慣れないチープな飴の袋を見て、思わず疑念を抱いた私の思考に応えるように、脳内に夕方の公園での出来事が蘇る。
あぁ、あの……変な子に、押し付けられたんだったっけ……。
色素の薄い髪を頭の低い位置でツインテールにした、近くの公立校に通ってる女の子。
大方、私の制服を見て家の財力に目をつけ、学校の同級生の子達と同じように取り入ろうとしてる子。
『何があったのかは分かんないけど、辛い時は甘い物を食べると良いって、お母さんが言ってたの!』
「……くだらない」
夕方の公園で満面の笑みと共に放たれた言葉を思い出した私は、小さく息を吐くように笑ってそう呟きつつ、勉強机の椅子に座り直した。
それから指に摘まんだ小袋を開封し、中に入っていた飴玉を取り出して口に含む。
今まで、甘味と言えば母さんが栄養を考えて作ったお菓子か、父さんがどこかのお店で買ってきたスイーツしか食べて来なかった私は、見るからに安価な飴玉の形容し難い味に思わず目を見開いた。
何だこれ……上手く言えないけど、色々な意味で初めて食べた味だ。
リンゴそのものの味というよりも、砂糖や人工甘味料で出来た人工的な甘さが強くて……でも、果実の優しい味わいを仄かに感じるような、素朴な味。
「……」
口の中で飴玉を転がしながら、私は小さく息をついて飴の袋を机に置く。
別に……食べずに捨てるのも勿体ないから、仕方なく食べただけの話。
それ以上でも、以下でも無い。
大体、あくまで彼女とは、あの公園でたまたま会っただけの関係性。
奇跡でも無い限り、今後一切関わることも無いであろう相手についてとやかく考えたところで、これ以上何がある訳でも無い。
『どうしたの? どっか痛いところある?』
ただ……今まで誰かに、あんな風に心配されたことなんて無かったから、少し驚いただけだ。
……そろそろ、勉強しないと……。
小さく息をついて気を取り直した私は、床に散乱したままだった教科書やノートを纏めて、鞄と共に机の上に置いた。
まずはさっさと明日の準備を済ませて、それから今日の復習と、明日の授業の予習をしないといけない。
少し前まで鉛のように重たかった体が、まるで嘘のように自分の言うことを聞いてくれる感覚を不思議に思いながらも、私は明日の授業の準備を開始した。