153 ただ不幸にしたくなくて
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夜も更け、誰もが寝静まった深夜のこと。
リートは一人、ベッドに横たわり、眠りについていた。
「はぁ……はぁ……はぁッ……」
眠りながらも、彼女は苦しそうに息をする。
友子に胸を刺された時に肺も傷付いていたのか、安静にすることで痛みは多少軽減されたものの、息苦しさは消えなかった。
今にも過呼吸になりそうな浅い呼吸を繰り返しながら、彼女は眠る。
息の苦しさ。胸に走る激痛。それが四肢末端まで行き渡るような錯覚。
不老不死の体故に死にはしないものの、むしろ自ら死を望みたくなるような苦痛が延々と全身を襲っているような状態。
そんな痛みの中で彼女が眠れているのは……これよりも酷い痛みを、過去に経験したことがあるからだ。
「はぁ……はぁッ……けほッ……はぁ……」
乾いた咳をしながらも、リートは目を覚まさない。
彼女は夢を見ていた。
夢といっても、ほとんど記憶の想起のようなもの。
全てを失った、三百年前のある日の記憶。
一度死に、禁忌である死者蘇生によって魔女として蘇った“後”のこと。
まるで素手で無理矢理心臓を引き千切られるかのような痛みと、麻縄で肺を締め上げられているかのような息苦しさ。
宮廷魔術師であるノワールの手によって、心臓を分断された時に感じた苦痛の記憶。
今感じている痛みも、あの時受けたものに近いものはあるが、比べてみるとまだマシに感じた。
自分の感じている痛みそのものの強さも勿論あるが、あの時はそれ以上に……心が痛かった。
大切な人を自分のせいで不幸にした痛みは、憎しみのこもった矛で胸を貫かれるよりも、心臓を引き裂かれるよりもずっと……──痛かった。
『その女と一緒にいると、貴方はいつか……不幸になりますよ』
記憶と共に、ノワールがこころに向けて放った言葉が脳裏を過ぎる。
そして、三百年前の記憶と痛みが、今の痛みと結び付く。
当時大切だった人が“不幸”になった瞬間の光景が、瞼の裏に蘇る。
大切だった人の姿に……こころの姿が、重なる。
『また自分のせいで、大切な人を不幸にするの?』
直後、そんな声が頭の中に直接響いてくる。
その声は、どこか聞き覚えのある声だった。
──……違う……。
頭の中に響く声に、リートは必死に否定する。
『何が違うの? 貴方はあの日からずっと復讐心に囚われて、心臓を集めてノワールに復讐しようとしているじゃない。……折角出来た大切な人を復讐に巻き込んで、不幸にしようとしているじゃない』
──……違う……。
『“あの日”誓ったでしょ? これ以上、自分のせいで罪の無い人を不幸にしない為に……もう大切な人は作らない。誰も愛さない。自分の大切な人を奪ったノワール以外は、誰も不幸にしない……って』
──……。
『あの誓いを破るの?』
頭の中に直接響く誰かの言葉に、リートは答えられない。
ドクン、ドクン……と、心臓の脈打つ音が次第に大きくなっていくような感覚がする。
脈音が大きくなる度に、比例するように胸の痛みも酷くなり、息が苦しくなっていく。
そう。リートは“あの日”誓ったのだ。
大切な人は作らない。
誰も愛さない。
誰も不幸にしない。
ただ、自分の唯一無二の大切な人を不幸にしたノワールは、この手で殺す。
その後は……──。
──……勿論。あの誓いは、忘れておらん。
──妾には……誰かを愛する権利など、無いからのぅ。
『だったら……こころに向けている感情は何なの?』
リートの返答に、脳内に響く声は間髪入れずにそう聞き返した。
その言葉に、リートはまたもや言葉に詰まる。
確かに、過去の誓いは忘れていない。
誓いを立てた“あの日”から、一瞬たりとも忘れたことなど無かった。
しかし、彼女は……こころを好きになってしまった。
ただダンジョンから脱出したくて、その為に奴隷が必要だったから命を救っただけで……ついでに、しばらくの間便利な戦力として利用するだけのつもりだったこころを、愛してしまった。
『誰も愛さないんじゃなかったの? ……不幸にしたくなかったんじゃないの?』
──……妾は……。
問い詰めるように言う声に上手く答えられずにいた時、不意に……片手に温もりを感じた。
何かに包み込まれているような……自分の痛みも、苦しみも、罪も……全てを包み込んで受け入れてくれそうな、柔らかな温もりを。
その温もりを感じた瞬間、リートは胸の奥に感じていた痛みが和らいでいくのを感じた。
掌に感じる温もりを捕まえるようにその手を強く握りしめ、彼女は続けた。
──……分かっておる。妾には……誰かを愛する権利など、無いことくらい。
──……しかし、今は……今だけは……──。
「ッ……!」
そこで、ハッと目を覚ます。
先程まで見ていた夢のせいか、胸の傷のせいか、息が荒い。
何度も浅い呼吸を繰り返しながら、リートは呆然と目の前を見つめた。
だって、そこには……こころがいたから。
自分の片手を包み込むように両手で握り、今にも死んでしまいそうな青ざめた表情でこちらを見つめている……最愛の人が。
数秒程お互いに見つめ合っていたが、こころはハッと我に返った様子でリートの手を握る力を強め、顔を近付けた。
「り、リート、大丈夫……ッ? 凄く辛そうだったけど……誰か呼んできた方が……」
「……良い……」
心配そうに言うこころの言葉に、リートは息が苦しい中で何とかそう答える。
しかし、まともに呼吸すら出来ない現状ではその声は掠れ、自らの吐息に掻き消されてしまう。
こころにも上手く伝わらなかった様子で、キョトンとした表情を浮かべてしまう。
「えっと……ごめん、今、何て……」
「……誰も……呼ばんで、良い……呼んだ、ところで……どうしようも、無い……」
申し訳なさそうに聞き返すこころに、リートは途切れ途切れに答えながら胸を押さえていた手を緩める。
その手をゆっくりと前に伸ばし、自分の手を握っているこころの手に重ね、握り返す。
痛みのせいで上手く力が入らない手で、強く……握り締める。
離さないよう……逃がさないよう……縋るように……。
「だから……どこにも、行くな……ずっと……妾の傍に、いろ……」
口をついて出たその言葉は、まるで零れ落ちるかのようだった。
それに釣られるように、目に涙が滲む。
霞む視界の中で、こころが驚いたような反応を示し、すぐに緩く笑みを浮かべたのが分かった。
「もちろん。私は、ずっと一緒にいるよ。……奴隷には、拒否権なんて無いからね」
こころは優しい口調で言うと、リートの手を握り返した。
彼女の言葉と、痛くならないようにと力を加減して握ってくれている温かい手に、リートは胸の痛みが安らいでいくのを感じた。
──……やっぱり……こころのこと、好きだな……。
目の前にあるこころの顔を見つめながら、彼女は心の中で呟く。
『誰も愛さないんじゃなかったの? ……不幸にしたくなかったんじゃないの?』
そしてすぐに、あの声が脳裏を過ぎる。
リートはその声から逃げるように、静かに目を瞑った。
──そんなこと……誰よりも分かっておる。あの誓いを忘れたことなど、一度も無いのだから。
──こころのことは、絶対に不幸になんてしない。
──しかし、今は……今だけは……──夢を見させて欲しい。
──少しくらい……幸せな夢を見たって良いではないか。
──どうせ妾には、幸せになる権利すら無いのだから。
誰かに許しを請うような言葉を心の中で浮かべながら、リートは静かに眠りにつく。
そこで、ふと……気付いたことがあった。
夢の中で聴こえてきたあの声が、自分の声であることに。
自分に語り掛けてきたのは、誓いを立てた“あの日”に殺した……過去の自分であることに。
***
「……」
ドッドッドッドッと激しく暴れる心臓の音を聴きながら、同室に泊まっていたミルノは、口元に手を当てて必死に息を殺す。
胸の痛みに苦しむリートにこころが声を掛けていた時、実は、ミルノは密かに目を覚ましていたのだ。
リートの容態が悪化したのかと心配してすぐに起きようとしたが、その後に続いた二人のやり取りを聞いてそういうわけではないことに気付き、こうして寝たふりを続けていたのだ。
──どうしよう……これ、盗み聞き……だよね……?
──でも……割り込めるような空気でも無かったし……。
思いもよらぬ事故とは言え、二人のやり取りをコッソリ聞いてしまった罪悪感から、彼女は胸元の服をキュッと軽く握り締めた。
──でも……そっか……。
──こころさんとリートさん……両想い、なんだ……。
こころとリートのやり取りを聞いて、ミルノは二人の関係性をなんとなく察した。
アランからは、こころは訳あってリートの奴隷になっていると聞いているので、両想いではあっても恋人同士というわけでは無さそうだ。
と言っても、恐らくこの二人の関係性は俗に言う両片思い。
今は違うとしても、二人が恋人関係になるのは時間の問題と考えても良いだろう。
最初に気付いた時は驚いたが、日中での二人のやり取りを思い返してみると、衝撃の真実と言うほどでは無かった。
二人が他の人には向けていない感情を互いに向けているのは明らかだったし、恋愛感情ではなくとも、奴隷と主人という主従関係を超えた特別な何かがあるのはなんとなく感じていた。
むしろ、二人のやり取りを聞くことでその“何か”が分かり、納得するほどだ。
──……じゃあ……この痛みは、何なのかな……。
少し落ち着いた鼓動の音が響く度に、それに呼応するかのように、胸がズキズキと痛くなっていく。
二人のやり取りを盗み聞きしてしまったことへの罪悪感……では、無いと思う。
確かに悪いことをしたとは思うが、悪気があったわけでも無ければ、別に二人だけの秘密の話を聞いたわけでも無い。
──なんでこんなに……胸が痛いんだろう……。
胸元の服を強く握りしめながら、ミルノは静かに瞼を閉じた。
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