136 兄として
<ティノス視点>
小さい頃から、俺はいつもティナと一緒に遊んでいた。
父さんは仕事で、母さんは家事でそれぞれ忙しそうだったから、俺がティナの遊び相手をすることが多かった。
ティナはいつも「にーちゃん、にーちゃん」と無邪気に俺の後をついてきて、それが可愛くてよく一緒に遊んでいた。
父さんからは、ティナが生まれるよりも前から、俺は将来獣人族長として獣人族の皆を守っていかなければならないのだと教えられてきた。
だからティナが生まれた時、俺は獣人族長としてだけでなく、兄としてもティナを守ってやらなければならないと感じた。
しかし、獣人族長家の決まりで、ティナはいつか金持ちの家に嫁ぐことになる。
いずれは俺では無く、別の獣人がティナを守っていくことになるのだ。
だが、それはまだ当分先のこと。
その時が来るまでは、俺がティナを守っていこう。そう思っていた。
しかし、ティナの婚約の話は上手くいかなかった。
ティナは昔からやんちゃな性格で、女にしてはかなりガサツな部類に入っていた。
そんな彼女と、比較的大人しい性格だった婚約者は相性が良くなかったようで、年月が経つにつれて婚約の話は破談へと向かっていった。
ティナを甘やかしすぎた。もっと厳しく育てて、獣人族長の娘として相応しい素行を身につけさせるべきだった。
父さんはそう嘆いていた。
この出来事をきっかけに、父さんはティナに厳しくするようになった。
獣人族長の娘として相応しい淑女となるように……またこのようなことがあって、ティナが傷付かないようにする為に。
ティナの為になるのなら、と……俺も父さんの真似をして、ティナに厳しく接するようにした。
彼女が今のような性格になったのは俺と一緒に遊んでいたからだと思い、俺は一緒に遊ばなくなり、優しくすることもやめた。
間違ったことをしたら厳しく叱り、言葉で分からないならと、時には実力行使に出ることもあった。
母さんだけは納得していない様子で、よくティナを庇っていた。
しかし父さんは、そうやってティナを甘やかすからダメなんだと、母さんを叱っていた。
そうやって過ごしていく内に、ティナが家にいる時間が減っていった。
最初は豊穣の神様が住まう祠の方に通っていたようだったが、次第に村にいる時間も減っていった。
村にいなかった時は大体人族の匂いを付着させて帰って来るので、森を出て人族の町に通っていることはすぐに分かった。
父さんは人族の町に行くなと叱ったが、ティナがそれを素直に聞き入れることは無かった。
獣人族長は全ての獣人族を守ることが使命であり、その使命を最優先に行動しなければならないのだと。
もしも犠牲が必要な場合は、最小限に留めておくべきだと。
小さい頃から、ずっとそう教わってきた。
だからこそ、ティナの身勝手な行動は目に余った。いつか獣人族に危険を脅かす可能性があると思った。
そうでなくとも、今のティナの性格では、いつかまた彼女が苦しむことになる。
悪いのは言うことを聞かない馬鹿なティナで、俺は兄としてその悪い部分を正さなければならない。
そんな気持ちから、俺はさらに厳しく接するようになった。
しかし……結果として、ティナ経由で人族の侵入を許し、獣人族は全滅の危機に立たされている。
ティナの為を思って厳しくしてきたのに、当の本人は、今にも殺されそうな状況。
……ティナに厳しく接して教育し直すべきだという父さんの考えは、間違っていたのか……?
その父さんの考えに従うことを決めた俺の選択は、誤っていたのか……?
仮にそうだったとしても、今更後悔したところで、もう遅い。
けど、もしもまだ、間に合うのなら……もう一度、あの時のように……──。
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<猪瀬こころ視点>
「まッ、待って……!」
後ずさるように足を引くティナの兄に、私は慌てて声を上げた。
しかし、リアスにその声が届くことは無く、気絶したフリをしているティナに向かって剣を振り下ろ──
──ガキィンッ!
「ッ……!」
牢屋の中に響き渡る鈍い金属音に、私はすぐに動きを止めた。
リアスの振り下ろした氷の剣はティナにぶつかること無く、空中で動きを止めていた。
そして、ティナと氷の剣の間には……氷の剣を受け止めるように鉈を構えた、ティナの兄の姿があった。
「……にいちゃん……?」
剣を受け止めた兄の姿に、ティナが驚いた様子で呟いた。
それに、彼はハッとした表情でティナを見ると、すぐに氷の剣をいなしてそのまま鉈を投げ捨てた。
地面に捨て置かれた鉈を気にすることも無く、彼はすぐにティナの元に駆け寄り、彼女の肩を掴んだ。
「ティナッ! 気が付いたニャ!? 怪我は痛くないニャン!?」
「兄ちゃ……ニャッ、ニャんで、ウチのこと、守って……」
「……それは……」
驚いた様子で言うティナに、彼女の兄は口ごもりながら顔を背けた。
彼は掴んでいたティナの肩からゆっくりと手を離し、続けた。
「……家族、ニャんだから……当たり前、ニャン……」
少しして、彼は掻き消えそうなか細い声で、そう呟いた。
彼の言葉に、私は動きを止めたまま、その場に立ち尽くした。
……リアスの言う通り……本当に、ティナの兄は……ティナのことを、大切に思っていたのか……。
そんな風に考えながらリアスに視線を向けると、丁度彼女もこちらを見ていた。
「ッ……!」
まさかこっちを見ているなんて思っていなかった為、私はビクリと肩を震わせて硬直してしまった。
すると、リアスは僅かに口角を上げるだけの笑みを浮かべ、視線をティナ達の方に向けた。
リートの幻魔法でこちらの姿は見えないようにしているはずなのに……偶然か……?
「……お主は本当に鈍感じゃなぁ」
すると、リートが呆れたような口調で溜息交じりにそう呟いた。
その言葉に、私は「え?」と聞き返しながら、彼女に視線を向けた。
私の反応を見たリートは再度溜息をつき、リアス達の方を見て続けた。
「この牢屋に入って来た時から、あの男はティナのことしか見ておらんかったではないか。……まぁ、たまに辺りを見渡して、状況を確認しているような素振りはあったが……」
「で、でも……リアスがティナのことを殺そうとした時、後ずさったから……てっきり、逃げるものだと……」
「……妾にはリアス程の読心術は無いから、ハッキリとは分からんが……そういう選択肢も考えておったのかもしれんな。ここでティナを見捨てて助けを呼べば、獣人族が助かる可能性はあったわけだし……」
まぁ、元々獣人族を滅ぼすつもりなどないが、と……彼女は続けた。
……でも、ティナの兄は……ティナを助けることを選んだ、か……。
そんな風に考えていた時だった。
「何をしているニャン!?」
そんな怒声と共に、誰かが牢屋の中に入り口に立っていた。
視線を向けてみると、そこにはティナ達の父である獣人族長が立っていた。
どうしてあの人がここに……!? と思って視線を向けてみると、他にも獣人族が二人くらい立っているのが見えた。
……この騒ぎに気付かれて、獣人族長を呼ばれたのか……!?
言葉を失っていると、フレアが「おいおい」と呟きながら手に纏わせていた炎を消し、ずっと抑えていた見張りの犬獣人から手を放す。
すると、彼は情けない悲鳴を上げながら、その場に腰を抜かした。
しかし、フレアは特に気にする素振りを見せずにリアスの元に駆け寄った。
「おい、どうすんだ……! 獣人族長は後で呼び出す予定だよな……!?」
「……元々ここに来る予定ではあったんだから、予定が早まっただけよ。そんなに動揺しないで」
「何をコソコソしているニャン!? こちらの質問に答えるニャンッ!」
獣人族長の言葉に、リアスは小さく息をつき、ティナの首筋に氷の剣を突き立てて続けた。
「さっきも説明したから、単刀直入に言うわ」
「何を……ッ!」
「私達は貴方達が崇めている豊穣の神の御神体とやらを頂きに来たの。私達の邪魔をするなら、獣人族は皆殺しにする。……穏便に済ませたいなら、大人しく豊穣の神を明け渡しなさい。断るなら……少なくとも、この子達の命は無いわ」
リアスの言葉に、獣人族長はグッと口を噤んだ。
それと同時に、ティナの兄が、ティナを守るように氷の剣の前に体を滑り込ませたのが分かった。
「突然何を言うかと思えば……貴方達が獣人族を皆殺しにするニャんて、ハッタリにも程が……」
リアスの発言を馬鹿にするような獣人族長の言葉は、彼の顔の横を光速で通り過ぎた何かによって遮られた。
数瞬後、それは彼の背後にあった石造りの壁にぶつかり、バジュッと乾いた音を立てて壁を焦がした。
誰がやったのかと思って視線を向けると、そこには手を構えた状態でフレアが立っていた。
「ハッタリじゃねーよ。俺達には、本当に獣人族を滅ぼす力がある」
「……何を……馬鹿なことを……」
「疑うなら今すぐここに腕に覚えがある奴を全員連れて来いよ。証明してやるから」
フレアはそう言いながら、両手の指をパキパキと鳴らした。
すると、腰を抜かした見張りの獣人が慌てて立ち上がり、すぐに獣人族長の傍に駆け寄った。
「ぞ、族長様! 奴等の言っていることは本当ワン! 奴等には、本当に獣人族を滅ぼせる力があるワン!」
「……ニャんだと……?」
「そ、そうニャン……! 獣人族を守る為にも、ここは奴等の提案を呑んだ方が良いニャン!」
犬の獣人に賛同するように、ティナの兄がそう続けた。
それに、獣人族長はしばらく考え込む素振りをした後で、ゆっくりと口を開いた。
「……しかし、獣人族は長きに渡り、豊穣の神様の恩恵を受け取ってきたニャン。今更その恩恵無しで生きていくのは、厳しいものが……」
「それなら問題無いわ。そこのティナちゃんが人族の町まで出てきていたでしょう? だったら、人族の農業の方法も知っているはず。……豊穣の神がいなくても、充分に生きていけるはずよ」
リアスの言葉に、牢屋の中にいた獣人族達の視線がティナに集まる。
突然注目されたせいか、彼女はビクリと僅かに肩を震わせた。
しかし、すぐに獣人族長がティナに詰め寄った。
「ティナ! それは本当ニャン!?」
「ニャッ……ちゃ、ちゃんと出来るかは、分からないニャン。……でも、やり方だけなら、知ってるニャン……」
恐る恐ると言った様子で答えるティナに、獣人族長とティナの兄は顔を見合わせた。
すると、リアスが氷の剣で軽く床を突き、口を開いた。
「私達だって、別に獣人族に悪意があって全滅させたいと思っているわけじゃないの。……豊穣の神を渡してくれれば、何もしないわ」
「……そもそも、どうして豊穣の神様が欲しいニャン? せめて、どうするつもりなのかを教えてもらわないと、こちらも納得できないニャン」
獣人族長の言葉に、リアスは「ッ……」と口を噤んだ。
……どうする? 真実を話すべきか?
いや、ティナに正直に話した時、彼女は全くと言って良い程に信じていなかった。今でも全部信じているかは分からない。
それなのに、獣人族長達に話して信じて貰えるか?
向こうにとっては自分達の崇拝する神を明け渡す行為に当たるわけだし、下手したらふざけていると思われるのでは……?
「……詳しくは説明出来ないけど……このベスティアの町に眠る、貴方達が豊穣の神様だと崇めている存在は、三百年前に私達人族が誤って生み出してしまったとある物を封印したものなの。貴方達は恩恵だと言っているけど、アレはその封印されたものから溢れ出した魔力が、この辺り一帯の地面に影響を及ぼした結果なのよ。だから、回収しに来たの」
しばしの間を置いた後で、リアスはそう説明した。
……まぁ、嘘は言ってない。
むしろ、リートの心臓の一部だと言うよりも納得のいく説明だろう。
実際、本当の説明をされたティナですら、どこか納得したような表情を浮かべていた。
獣人族長はしばし吟味するような素振りをした後で、小さく溜息をつき、口を開いた。
「……しかし、豊穣の神様が我々に恩恵を与えてくれているのは事実ニャン。害を及ぼしている訳では無いのですから、わざわざ回収する必要は無いと思うニャン」
「確かに、今は恵まれているかもしれない。……でも、遠い未来、この恩恵が害と化す可能性があるわ。そうならない為にも、まだ“恩恵”である内に、回収しておきたいの」
リアスの説明に、獣人族長は考え込むような間を置いた。
……恩恵が害と化す、か……。
正直、私にはあまりピンとこなかった。
しかし、例えばリートの心臓の魔力が今後何らかの形で暴走したりしたら……植物の過剰成長とか、突然全ての植物が枯れ果てたりとか、するのかもしれない。
あくまで、かもしれないの話、だけど……可能性がゼロというわけでは無い。
「……分かりましたニャン。豊穣の神様を明け渡すニャン」
しばしの間を置き、獣人族長が、重々しく言った。
彼の言葉に、ティナの兄が「父さん……」と掠れた声で呟いた。
すると、獣人族長はティナの兄に視線を向け、口を開いた。
「ここまで言われたら、断る理由も無いニャン。……獣人族を危険に晒す可能性は族長として避けるべきだと教えたニャン?」
獣人族長の言葉に、ティナの兄は重々しく頷いた。
それを見て獣人族長は小さく笑みを浮かべ、リアスと向き合った。
「それでは、今から豊穣の神様の祠に案内しますニャン。私についてきてくださいニャン」