114 夢でも良いから
<猪瀬こころ視点>
「……はい……申し訳ございません……はい……はい……失礼します……」
どこからか聴こえる声に、私はゆっくりと目を覚ました。
頭が熱く、まるで熱湯で茹でられているかのような熱気が体を包んでいる。
先程飲んだ薬の効果だろうか。頭がボーッとして、意識が朦朧とする。
このまま眠るべきなのだろうかと考えていた時、電話を切るような音がした。
「この後は学校に連絡して……病院に連れて行って、それから……あぁもうッ、やることが多いッ……」
「……かあ、さん……?」
「この忙しい時に熱なんて出してッ……ホント、産まなければ良かったッ……」
独り言のように言う母に、私は自分の胸が締め付けられるような感覚がした。
どうやら私は……熱を出すだけでも、母さんに迷惑を掛けてしまうらしい。
でも、私だって好きでこうなったわけじゃない。
これからも、熱を全く引かないようにすることなんて出来ない。
だったら……病気になっても、平気なフリをしよう。
今は少し怠いけど、一日休めば元気になるはずだ。
明日からは普通に学校に行こう。
これからは病気になっても、極力母さんに負担を掛けないようにしよう。
よっぽど酷くない限りは学校に行って、病院は近所の所に自分で行けばいい。
酷い時は、自分で学校に休む連絡をしよう。
自分のことは、出来る限り自分でしよう。
母さんに負担を掛けたくない。
これ以上負担を掛けたら……いらない子だからと、捨てられてしまう。
産んで良かったと言われるように……自分の子供として認めてもらえる日が来るまでは、とにかく負担を掛けないように努めよう。
……大丈夫。こんな生活がずっと続くわけがない。
私が良い子でいれば、きっとすぐに優しかった頃の母さんに戻ってくれるはずだ。
それまでは迷惑を掛けない、我儘も言わない、手のかからない良い子で徹しよう。
熱が下がったら今まで以上に勉強を頑張って、良い点数を取って、良い成績を取って……そうしたら、きっと母さんも認めてくれるはず。
一人そう心に決めた時、誰かがベッドの横に立ったのが分かった。
「起きなさい。病院に行くわよ」
「……うん」
頭が痛くて、まだ体もしんどかったけど、そんなことは言ってられない。
私は何とか体を起こし、すぐ傍に立つ母さんに、そう笑って見せた。
すると、一瞬目の前が真っ暗になり……重たい瞼が、ゆっくりと開く。
そこには、見覚えのない部屋が広がっていた。
……ここは……どこ……?
咄嗟に体を起こそうとするが、未だに芯から燃え上がるような熱気が体を包み、熱湯でグツグツと茹でられているような感覚がした。
意識もハッキリしない。この状態で体を起こすのは、中々に難しそうだった。
「こころ……目を、覚ましたのか……?」
すると、誰かがそう聞きながら、私の顔を覗き込んで来た。
眠気のせいか、熱のせいか……視界が霞んでよく見えない。
何度か瞬きをしてみるも、やはり視界は晴れず、上手く見えない。
けど、私には寝込んだ時に看病に来る友人などいないし、今ここにいるとしたら……──
「──……かあ……さん……?」
小さくそう呟くと、視界が明瞭になり、目の前にこちらの顔を覗き込む母の姿が見えた。
母さんが、私の看病をしている……?
寝込まないようにしよう、って……母さんに迷惑を掛けないようにしようって、決めたばかりなのに……。
さっき一瞬意識が途絶えたのも、熱のせいか……?
でも、それなら周りの部屋に見覚えがないのはどうしてだろう……?
熱のせいで頭が変になっているのかな?
「ここ……どこ……? かあさん……?」
「……────?」
尋ねる私に、母さんはどこか不思議そうな表情で何かを聞き返してくる。
なんだか上手く頭に入ってこない……というか、頭がボーッとして彼女の言っていることが理解出来ない。
しかし、そこで私はすぐにハッとした。
いやいや、ぼんやりしている場合じゃない……!
私が寝込んだら、母さんに迷惑を掛けてしまう……!
そう考えた私は咄嗟にベッドに手をつき、体を起こそうとした。
直後、肩を掴まれ、私は再びベッドに横になる。
頭に乗っていたであろうタオルがその拍子に跳ね上がり、私の頬に当たってベッドに落ちる。
先程のちょっとしたやり取りのみでも大分体力が持って行かれたようで、私は呆然と虚空を見つめたまま、荒い呼吸を繰り返す。
すると、母さんは呆れたように小さく息をつき、私の頭に手を置いて軽く撫でた。
「あまり無理をする……な……。風邪……悪化したらどうする」
「で、でも……」
「今は……寝ておれ。何か必要な……があるなら、わ……がやるから」
母さんはそう言うと私の頭から手を離し、顔の横に落ちていたタオルを拾い、すぐに私の額の上に戻した。
すると、タオルはなぜか冷たくなっており、突き刺すような痛みが一瞬走る。
しかし、その痛みもすぐに和らぎ、火照った頭が冷めていくような心地よい感覚がした。
「……かあさん、しごとは……?」
そう尋ねた声は、自分でも驚くくらい掠れていた。
どれくらい寝込んでしまっていたのかは定かではないが、どちらにせよ、そろそろ仕事に行かないといけないのではないだろうか。
そんな風に考えていると、頭に乗せたタオルの上に、ソッと優しく手を置かれる。
「そんな……のどうでもいい……より、今はこころ……が心配だから……」
「……ほんと……?」
「あぁ。本当じゃ」
母さんの言葉に、私は額の上に乗ったタオルに手を当てた。
タオルを握り締めると、ひんやりと冷たい感触が伝わってくる。
先程タオルが乗せられた感触とか、今とか……やけにリアルな感覚。
でも……これはきっと、夢だ。
だって、母さんの口調も少し変だし……何より、母さんがこんなこと、私に言ってくれるはずがない。
でも、そこまで分かっているのに……少し嬉しく思ってしまうのは、どうしてだろう。
無意識に頬が緩むのを感じながら、私は「そっか」と小さく呟いた。
「それより、何か欲しい物があ……ば遠慮なく言う……ぞ? わら……に出来る……なら何でも……やるぞ」
すると、母さんは続けてそう言った。
それに、私は僅かに目を見開いた。
「……なんでもしてくれるの……っ?」
咄嗟に、そう聞き返す。
夢だと分かっていても、母さんが私に優しくしてくれたことなどもうずっと前のことだったので、少し嬉しいと感じてしまったから。
もしかしたら、本当は今すぐこの夢を終わらせるべきなのかもしれないけど……こんな時くらい、少しは甘えてみても良いのかもしれない。
どうせ目が覚めたら、私に優しくしてくれる人などいないのだから……。
私の問いに、母さんが頷いた。
それを見て、私は自分の顔が無意識に綻ぶのを感じる。
しかし、いざ何でもすると言われると、何をして貰おうか迷ってしまう。
母さんにして欲しいこと? そんな急に言われても……。
「じゃあっ……あたま、なでてほしい……」
考えるより先に、口が自然と動いていた。
どうして? と一瞬思ったけど、夢なんて割とそんなものだと思い直す。
他にして欲しいことも思いつかなかったし、訂正するのも億劫だったので、私はそのままにしておくことにした。
「……頭……?」
「だめ……?」
キョトンとした表情で聞き返す母さんに、私はつい聞き返した。
すると、彼女はすぐに小さく息をつき、私の顔を見て笑みを浮かべた。
「ダメな訳が無かろう?」
その言葉と同時に、フワッと頭を撫でられる感触がした。
あぁ、何だろう……凄く、気持ちが良い……。
ただ頭を撫でられているだけなのに、頭痛とか熱がスーッと引いていくような感覚がして、凄く気持ちよかった。
「んぅ……えへへ、もっと……」
私はそう言いながら、自分の頭を撫でる手を取り、頬を緩めた。
手を握ってみると、母さんの手が記憶よりもかなり小さいことに気付いた。
あれ……? 母さんの手、こんなに小さかったっけ……?
最後に母さんの手を握った記憶では、私よりもずっと大きかった記憶がある。
しかし、今私の掌の中にある手は、むしろ私よりずっと小さく感じた。
……夢なんて、そんなのものなのかな……?
でも、思っていたのと違うな……。
「……」
私は自分の頭から手を取り、自分の頬に当てた。
熱のせいか、頬に当たる手はひんやりと冷たく感じた。
その冷たさのおかげか、こうしていると熱が和らぐような感覚がして、一種の安心感があった。
「こころ……?」
「……こうしてると、あんしんする……ずっとこうしていたいなぁ……」
キョトンとした表情で聞き返す母さんに、私はそう答えながら、彼女の手を握る。
確かに安心するけど……やっぱり、何かが違う。
よく分からないけど……この手は母さんのものではないと、根拠のない確信のようなものがあった。
口調も変だし……夢の中とはいえ、こんなに母さんが優しくしてくれたこと、今まで無かった。
疑問に思いながら母さんの顔を見上げると、気付けばそこにいたのは、母さんでは無かった。
黒い長髪に青い目をした少女が、どこか赤らんだような顔でこちらを見ている。
彼女の顔を見た瞬間、胸が熱くなり、甘い鼓動が高鳴り始める。
「ね……ずっと一緒にいよう……?」
その言葉は、ほとんど無意識に口をついて出た。
すると、握った手がピクリと僅かに強張ったのが分かった。
目の前にいる少女は、それ以上答えない。
けど、その手の感触から……彼女の答えは分かった。
夢の中なのだから、少しくらい希望を見させてくれても良いのに……こんな時まで、現実をつきつけてこなくても良いじゃないか。
どうせ目が覚めたら、こんな風に私に触れてくれる人すらいないと言うのに……。
私の熱が移ったのか、少し温くなった手をキュッと強く握りながら、続けた。
「……わかってるんだぁ……これがゆめだってこと……」
「……?」
「かあさんがこんなこと、してくれるわけないもん……」
私はそう呟きながら、頬に当てた手を握る力を強くした。
分かってるさ、そんなこと……。
目を覚ませば、目の前にいる少女もいなければ……優しくしてくれる母さんもいない。
分かってる……分かってるから、こんな時くらい、淡い夢に縋っても良いじゃないか。
夢でも良い……夢でも良いから……──。
「かぁ……さん……」
そう呟きながら顔を上げると、不思議そうな表情でこちらを見る誰かの顔があった。
視界が霞んで、目の前にいるのが誰なのかも、よく分からない。
ただ、一つだけ……母さんに、聞きたいことがあるんだ。
どうせ夢なのだから……目の前にいるのが誰か、なんて細かいことは気にしない。
「なんで……わたしを、うんだの……?」
私の言葉に、彼女の顔から表情が失せる。
そんな顔をするくらいなら……産まなければ良かったなんて言うくらいなら、どうして私を産んだんだ。
やっぱり、こんな夢、さっさと終わらせてしまえば良かった。
叶えられない夢を見ても、虚しくなるだけだ。
私は手を握る力を緩め、静かに瞼を閉じた。
すると、すぐに意識は闇に沈んで……──。
~~~~~
カチッ……カチッ……と、時計の針が時を刻む音が、室内に鳴り響く。
私はそれに、ゆっくりと重たい瞼を開いた。
辺りを見渡すと、そこは見覚えのない部屋だった。
あれ……? 確か、私は……朝起きたら喉が痛くて、段々熱っぽくなって、皆に心配されて……そこからの記憶が曖昧だ。
ただ、少なくともここは、私達が野宿をしていた部屋では無いようだ。
見た所、どこかの部屋のようだが……。
そんな風に考えていると、額に何かが乗っているのが分かった。
鉛のように重く感じる腕を動かして触れてみると、それは綺麗に畳まれたタオルだった。
何かで湿っているようで、触れているところからじんわりと温もったような湿気が伝わってくる。
ひとまず私はタオルを額から外し、ゆっくりと体を起こす。
体中に倦怠感が充満し、鉛のように重たかったが、何とか起き上がった。
「ッ……」
すると、私の体のすぐ横に、ベッドに突っ伏しているリートの姿があった。
何をしているのかと思って顔を近づけてみると、一定のリズムを刻む呼吸音が聴こえた。
……眠っているのか……? どうしてこんな所で……? と思って辺りを見渡してみると、よく見るとそこはどこかの宿屋の一室のようだった。
そこで、右手に握ったタオルから、じんわりとした温もりが伝わってくるのが分かった。
……まさか……リートが、看病してくれていたのか……?
「……」
私はタオルを握り締め、小さく息をついた。
あのリートが、わざわざ私を看病してくれる、なんて……正直、想像出来ない。
けど、この状況は、そう捉えることしか出来ないだろう。
まさか、夢でも見ているのではないか? と思い、頬を軽く抓ってみる。
すると、鈍い痛みが頬に走った。
……夢ではない、か……。
「……夢みたいだけどなぁ……」
ポツリと呟くように、私は言った。
その呟きに、リートは答えない。
私の看病で疲れたのか、今はグッスリと眠っている。
彼女の様子に私は苦笑し、彼女の頭に手を伸ばし、起こさない程度に優しく撫でた。
「……ありがとう、リート」
私の言葉に、やはりリートは答えない。
指の隙間で黒い綺麗な長髪が擦れるのを見つめながら、私は小さく笑った。
誰かに看病されるなんて、いつぶりの経験だろう。
もうほとんど思い出せない、母さんが優しかった頃の記憶。
母に疎まれるようになってから、迷惑を掛けたくなくて、病気になっても隠して平気なフリをして……気付けば、そうすることが癖になっていた。
友達すらまともにいなかったのに、好きな人に看病して貰える日が来るなんて、日本にいた頃は考えたことも無かったな……。
「……大好きだよ」
そう呟いた声は、静寂の中に溶けていく。
理由は特に無かった。ただ、なんとなく……言いたくなっただけ。
つい最近自覚したばかりの、まだまだ未熟な初恋だけど……それでも好きだ。
恋人になりたいかとか、どういう関係になりたいかとか、そんなことはまだ分からない。
ただ……リートと一緒にいたいとは、思うんだ。
上手く言えないけど、私はリートが好きで……リートのことを、守りたい。
難しいことなんて、私なんかに分かるわけがない。
だから、今はこれで良い。
リートの過去のことは、正直言えば凄く気になるけど……彼女を傷つけるような真似はしたくない。
いつか、彼女が私に心を開いてくれて……私も、過去を打ち明けられる勇気が出る、その日までは……奴隷と主人という関係で居続けよう。
それ以上のことは……その時考えれば良い。
リートの頭を撫でながら、私は静かに、そう心に決めた。




