113 卑怯な人
「……かあ……さん……?」
掠れたような、どこか眠たげな声で言うこころに、リートは答えられない。
それに、こころはボーッとしたような表情で軽く辺りを見渡し、続けた。
「ここ……どこ……? かあさん……?」
「……寝ぼけておるのか?」
キョトンとした表情で言うこころに、リートはそう聞き返す。
すると、こころは突然ハッとしたような表情を浮かべ、体を起こそうとした。
それにリートは驚きつつも、咄嗟に彼女の肩を掴んで再度ベッドに寝かせる。
バフッと背中をベッドに預けた拍子に、額に乗せていたタオルが額から落ちる。
非力なリートがこころを止められたのは、奴隷の契約の効果もあるだろうが、それに加えて風邪でこころの力自体が大分弱まっていたからだろう。
事実、リートに押し倒された後、彼女はそのまま荒い呼吸を繰り返している。
リートはそれに小さく息をつき、汗で湿ったこころの髪をワシャッと軽く撫でた。
「あまり無理をするでない。風邪が悪化したらどうする」
「で、でも……」
「今はゆっくり寝ておれ。何か必要なことがあるなら、妾がやるから」
そう言うとリートはこころの頭から手を離し、近くに落ちていたタオルを拾う。
丁度少し温くなっていたので、彼女はすぐに氷魔法を使い、温くなったタオルを冷やしていく。
キンキンに冷えたタオルを自分の額に乗せるリートをぼんやりと見つめながら、こころはゆっくりと口を開いた。
「……かあさん、しごとは……?」
掠れた声で聞くこころに、リートは驚いた様子で彼女を見たが、すぐに小さく息をついた。
──まだ寝惚けてるのか……。
しかし、考えてみれば昨晩は眠れなかった様子だったし、まだ熱もそんなに下がってない。
まだ意識がハッキリしていなくても、仕方がない部分はある。
ひとまずリートはこころの額に乗せたタオルから手を離し、小さく息をつく。
──だからと言って、母親と見間違えるのはどうかと思うけど……。
内心でそんな風に思いつつ、ここは否定するよりも適当に話を合わせてやった方が良いと判断し、すぐに口を開く。
「そんなものどうでもいいわ。それより、今はお主の方が心配だからな」
「……ほんと……?」
「あぁ。本当じゃ」
リートの言葉に、こころは驚いた様子で額の上にあるタオルに手を当てた。
彼女はグシャリとタオルを少し握り締めると、小さく笑みを浮かべた。
「……そっか……」
「それより、何か欲しい物があれば遠慮なく言うのじゃぞ? 妾に出来る範囲なら何でもしてやるぞ」
「……なんでもしてくれるの……っ?」
上ずったような声と、どこか幼い口調で言うこころに、リートは大きく目を見開いた。
普段のこころであれば、大丈夫とでも言って流していただろう。
風邪を拗らせた今の状態でも無理をして欲しかったわけではないし、素直なことにに越したことはないが……あまりの変貌ぶりに、流石に言葉を失ってしまった。
ひとまず頷いて見せると、こころはパァッと僅かに目を輝かせた。
「じゃあっ……あたま、なでてほしい……」
「……頭……?」
「だめ……?」
掛け布団をキュッと握り締め、不安そうに聞き返すこころに、リートはすぐに「ダメな訳が無かろう?」と答えた。
それからこころの頭に手を置いて軽く撫でてやると、彼女は心地よさそうに目を細めてそれを受け入れた。
何と言うか……普段に比べて、明らかに幼い。
いつもが大人びているというわけでは無いが、今の精神年齢はかなり幼くなっている様子だった。
迷惑だとは思わないし、構わないと言えば構わないのだが……──
「んぅ……えへへ、もっと……」
こころは自分の頭を撫でるリートの手を取り、トロンと蕩けるような笑みを浮かべて言う。
迷惑では無いが……──このままでは、自分を押さえられる自信が無い。
普段は絶対に見せないようなこころの姿に、リートは空いている手を自分の口元に当て、ソッと目線を逸らす。
その顔は熱があるこころよりも赤く染まり、片手で隠せるものでは無かった。
流石に病人相手に欲情するなど不謹慎極まりない上、今のこころは熱に浮かされて意識が曖昧な状態。
──どうせ記憶にも残らないのだから、少しくらい手を出しても構わないのでは……?
「いや……そういう問題では無いであろう……」
頭の奥から響く欲望の声に、リートは必死に抗う。
すると、こころの頭から手が離れたのが感触で分かった。
見ると、彼女はリートの手を自分の頬に当て、少し頬擦りをした。
「……こころ……?」
「……こうしてると、あんしんする……ずっとこうしてたいなぁ……」
ふにゃっと柔らかい笑みを浮かべながら言うこころに、リートは息を呑むように言葉を詰まらせた。
同時に、心臓が激しく脈を打ち始めるのを感じる。
顔に血が昇るような感覚にクラッと眩暈がしそうになるのを感じていると、こころは続ける。
「ね……ずっと一緒にいよう……?」
懇願するように言うこころに、リートは言葉を詰まらせた。
……答えられなかった。
寝惚けている病人を相手にしているとはいえ、そんな……叶えられる保証のない約束をするのは、無責任だと思ったからだ。
答えないリートに、こころは小さく息をつき、続けた。
「……わかってるんだぁ……これがゆめだってこと……」
「……?」
「かあさんがこんなこと、してくれるわけないもん……」
彼女はそう言いながら、リートの手を握る力を強めた。
それに、リートは答えられない。
しかし、こころはそれを気にする素振りを見せずに続けた。
「でもね……いいの……ゆめでも……いいから……」
「こころ……?」
「かぁ……さん……」
こころはそう言いながら、リートの手を握る力をさらに強くする。
彼女は潤んだ目をリートの方に向けると、その目を柔らかく緩め、続けた。
「なんで……わたしを、うんだの……?」
……絶句。
思いもよらぬ一言に、リートは目を見開いて固まった。
答えないリートに、こころはどこか安堵したような笑みを浮かべると、すぐに瞼を瞑った。
「こころ……?」
「……」
名前を呼ぶリートに、こころは答えない。
返答の代わりと言わんばかりに、安らかな寝息が聴こえてきた。
それにリートは小さく息をつき、握られていた手をソッと離し、その手でこころの頬を撫でた。
熱がある為か、少し熱くなった頬を撫でると、こころは眠りながらも「んぅ……」と小さく呻く。
『極端に言えば、今まで恋人も友達もロクにいなくて……両親にも、愛情を向けられたことが無かった……とか……』
その時、いつだったか、リアスが言った言葉が脳裏を過る。
──……母親に愛されていなかった、か……。
どうして自分を産んだのかを問うてしまう程に……──。
リートには幸運にもそういった経験が無く、こころの気持ちを推し測ることは難しい。
しかし……こころが異様に鈍い所や、普段自分の意見を言いたがらない消極的な態度である理由は、なんとなく分かったような気がした。
「……ずっと一緒に……か……」
小さく呟きながら、リートはこころの顔に掛かっていた髪を掻き上げ、耳に掛けさせてやる。
相変わらず安らかに眠ったままの寝顔に、彼女は小さく息を吐くように笑み、ソッと手を離した。
「……本当に……卑怯な奴じゃな、お主は……」
小さく呟くように言いながら、彼女はこころの頭を優しく撫でた。
先程の幼い態度のこともあり、子供のようにあどけなく見える寝顔に小さく笑い、彼女は続けた。
「そんなこと言われて……こんな姿を見せられたら……もっと好きになってしまうに決まっておるではないか……」
掻き消えそうな声で言いながら、彼女は自分の目元を手で覆った。
自分は本当に厄介な相手を好きになってしまったと、心から思う。
ソッと顔を上げてこころに視線を戻すと、彼女は自分の気など知ったこっちゃないと云わんばかりに、グッスリと眠っていた。
リートは小さく息を吐くように笑い、こころの頭から手を離し、その手で彼女のを優しく握った。
ずっと一緒にいたい? 自分だって、叶うならずっと一緒にいたい。
──いつもは自分の意見など言わないくせに、こんな時ばかり……本当に、卑怯だ……。
「……ずっと一緒には、いられないというのになぁ……」
ポツリと、リートは呟く。
その声に反応する人は、誰もいなかった。
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