プロローグ
「きゃははははッ!」
狭い室内に、甲高い笑い声が響き渡る。
次いで、何かが水の中に何かが突っ込まれるような音がした。
「ぶはッ……やめッ……んぶぅッ!?」
抵抗するような声が一瞬するが、それはすぐに水の中へと消えていく。
水から必死に顔を出そうともがく声と、馬鹿にするような複数の嘲笑が、狭い室内で反響して混ざり合う。
その音を聴きながら、私、猪瀬 こころは……必死に息を殺して、時間が過ぎるのをただ待っていた。
ここは、西棟二階にある女子トイレの一室。
和式便所三つと、洋式便所二つからなるトイレだ。
西棟は特別教室が多く、昼休憩に寄りつく生徒はほとんどいない。
元々使う生徒も少なく、この東雲女子高等学校の中では、最も清潔なトイレだ。
だからこそ、このトイレは、私にとって絶好のぼっち飯スポットでもあった。
学校に来る時にコンビニで買ったパンをこのトイレで食い、授業が始まるまでの間、ここでスマホをつついて時間を潰すのが私の日課となっていた。
しかし……ここでイジメが始まるのは、今日が初めてだ。
音を聴いているだけでも、なんとなく現状は掴める。
まず、イジメの内容は、漫画とかでよくあるトイレの便所に顔を突っ込まれるやつ。
そして、いじめているのは、同じクラスの東雲 理沙。
イジメの主犯であり、この学校の理事長の孫でもある女だ。
理事長の孫という肩書きを使い、この学校では好き勝手している。
制服は校則での許容範囲以上に着崩し、顔には薄くではあるがメイクもしている。
背中まである長い髪は茶色で、本人は地毛だと言っているが、多分染めていると思う。
見た目以外でも、色々な面で校則違反を繰り返している。
しかし、イジメのことも含め、それらのことは全て先生達から見て見ぬふりをされている。
当然だ。もし彼女に注意でもして、彼女越しに理事長の機嫌を損ねれば、下手すればクビになる。
そしてそれは、生徒も同じこと。
退学を恐れ、ほとんどの生徒は彼女に逆らわない。
理事長の存在もあるが、彼女はスクールカーストも最上位にいるため、彼女を敵に回せば……まぁ、分かりやすい話、現在便器の水を飲まされている女子生徒のようになる。
トイレの中には、東雲の他にもう一つ笑い声が響いていた。
恐らく、これも同じクラスの葛西 林檎だろう。
彼女は……まぁ、簡単に言えば、東雲の腰巾着のような存在だった。
いつも東雲の傍にいて同調し、彼女のご機嫌取りをしている。
東雲も彼女のことを気に入っているため、個人的には、クラス内で敵に回したらいけない人物のツートップと言った印象がある。
この二人に加えて、寺島 葵という生徒がいる。
彼女は二人に比べると大人しい部類だが、どうやら二人からは気に入られているらしく、よく三人で行動している。
彼女は、基本的にイジメには直接加担はしない。
傍で見ているか、たまに少し同調するか、二人がイジメを行っている間見張りをしているかのどれかだ。
今日は……まぁ、こういう場所だし、多分見張りでもしているのだろう。
さて、そんな我らがクラスの最凶スリートップに目を付けられてしまった可哀想な被害者が、現在進行形でイジメを受けている最上 友子だ。
彼女は、まぁ……見た目からして分かる程に陰キャだ。
長い前髪で目元を隠しており、いつも一人で過ごしている。
……まぁ、後者は私もなんだけど……。
けど、彼女の場合はそれに加えて極度の人見知りらしく、話しかけられたりすると物凄く挙動不審になったりする。
その明らかにコミュ障な態度からか、東雲に目を付けられ、こうしてイジメを受けている。
……ホントに、勘弁して欲しい。
イジメの現場は見ていて気持ちの良いものでもないし、何より見つかることが怖い。
奴等がトイレに入って来た時点で私に気付かなかったのは、多分、洋式便所の扉は元から閉まっているからだと思う。
一応ドアノブの下にある小さな四角の中の色で鍵の開閉は分かるようにはなっているが、元々このトイレを使う人は少ないし、一々確認なんてしなかったのだろう。
見つかっていたら、それはそれで面倒なことになっていただろうが……それでも、今よりもマシだっただろう。
そろそろ教室に帰らないと次の授業が……と思ったところで、散々続いていた笑い声が止んだ。
「あーあ……そろそろ授業始まるし、もう戻ろっかぁ」
「あははッ……そうだねぇ。最上さんも、そんなところで座ってないで、早く教室行った方が良いよ~?」
気怠そうな口調で言う東雲の言葉に、葛西は同調しつつ、馬鹿にするような口調で言った。
それに、最上さんは答えない。
多分、ずっと水の中に顔を突っ込まれていたせいで、呼吸すらままならないのだろう。
荒い呼吸のみを繰り返す彼女に、二人は少しの間暴言を吐いていたが、すぐにトイレを出て行った。
外にいたであろう寺島と少し会話をしてから、三人は教室に戻っていく。
話し声が遠退いて行くのを聞いて、私は口に当てていた手を外し、大きく深呼吸を繰り返した。
ようやくまともに息が出来る。
何度か大きく呼吸を繰り返すと、すぐに私は立ち上がった。
昼休憩の時間を潰す為に来ていた私の手荷物は、スマホと昼食の菓子パンの袋くらいしかない。
制服がブレザーなので、スマホはスカートのポケットに入れて、菓子パンのゴミは上着のポケットに入れた。
それから個室を出て、慌てて教室に向かおうとしていたところで……もう一つの個室の前でへたり込む最上さんと目が合った。
「……あっ……」
「ッ……」
小さく声を上げる彼女の反応に、私はその場で足を止める。
私と彼女の関係は……別に、良くも悪くもない。
ただ、他のクラスメイトに比べれば、多少は親しい方だと思う。
と言うのも、私には全く友達がいない上にクラスの人数は偶数なので、授業等でペアを組む時は必然的に最上さんと組むことになる。
イジメのことがある手前、親しくはしないものの、良くペアを組むということでそれなりに面識はある方だ。
私だって、別に最上さんが嫌いなわけではない。
確かに話しかけると挙動不審になったりはするが、それでも何度か話していると、普通に話してくれるようになった。
話す時の態度以外はごく普通の子だし、性格自体はむしろ良い方だと思う。
彼女自身には特に悪い感情も抱いてない分、ここで無視していくのは、何だか気が引けた。
「……」
私は一度耳を澄まし、近くに東雲達がいないことを察知する。
奴等の話し声はうるさいので、近くにいればすぐに分かる。
しかし、数秒程耳を澄ましても、それらしき声は聞こえてこなかった。
……よし。少なくとも、この近くにはいないみたいだ。
「……これ」
小さく呟きながら、私は制服の胸ポケットから、ハンカチを取り出して最上さんに差し出した。
白い無地の、百均で買った安いハンカチだ。
でも……何も無いよりはマシだろう。
「……えっ……」
「使いなよ。ビショビショだし……何もしないよりはマシでしょ?」
そう言いながら、私はハンカチを彼女に向かってズイッと突き出す。
タオルのようなものは無いし、濡れているのは髪と顔と肩だけなので、ハンカチがあれば充分だと思った。
最上さんはしばらくの間長い前髪越しにハンカチを凝視していたが、やがて、オズオズと両手でハンカチを受け取った。
「……あっ、あり、がとう……」
オドオドした口調で言われたその言葉に、私はホッと安堵しつつ、女子トイレを出た。
もう、授業が始まるまでの時間は少ない。
私は気持ち早足で教室に向かい、なんとか始業のチャイムが鳴る前に席につくことが出来た。
「ふぅー……」
席についた私は、大きく息をつく。
少しして、次の授業である古文の先生が入ってくるので、学級委員長の山吹 柚子の号令に合わせて礼をする。
それから席につき、古文の授業が始まった。
授業自体は退屈なもので、昼食後すぐであることもあり、中々にしんどいものがあった。
私の席は一番後ろにある為、生徒達の様子は教室を見渡せば一目瞭然だった。
このクラスの生徒は全四十人。
その内、授業が始まって五分も経っていないにも関わらず、すでに何人かこっくりこっくりと船を漕ぎ始めている。
私は先程危機的状況を脱してきたばかりなので、とりあえず、今はまだ眠くは無かった。
とはいえ授業を真剣に受ける気にもなれなかったので、机の下でスマホを操作し、読みかけのネット小説を開いた。
今読んでいるのは、近年流行っている、異世界転生モノの小説だ。
内容はよくあるもので、日本で死んだ主人公が剣と魔法のファンタジーな異世界に転生し、特殊能力を使ってチートをしてハーレムを作るというものだ。
ありきたりでよくあるストーリー。もう何度似たような話を読んだか分からない。
だけど、それでも私は……憧れる。
……異世界に行きたい。
特殊能力でチート出来なくても、イケメンや美少女に囲まれてハーレム出来なくても良い。
ただ、この世界では無いどこか別の世界に行きたかった。
異世界転生だけじゃなくて、異世界転移というものもある。
転生のように生まれ変わったりするわけではなく、体はそのままに、召喚等で異世界に行くものだ。
転移も良いなぁ……とりあえず、ここではないどこかに行けるなら、それが良い。
でも、多分私なんかには、そんなこと起こらないだろう。
こういう転生モノや転移モノは、学生が主人公の場合、大抵イジメを受けている人間が主人公になる。
それこそ、このクラスで言うなら最上さんのような存在。
私のように、ただ友達がいないだけでイジメを傍観しているだけの人間じゃ、せいぜいクラスごと転移するような話じゃない限り、異世界に行くなど夢のまた夢だろう。
仮にその方法で異世界に行ったところで……果たして私が異世界生活を謳歌できるか?
答えは否。せいぜい、主人公である最上さんの引き立て役になるくらいのものだ。
まぁ、そもそも異世界召喚なんてあり得ない話だし、結局は夢物語でしか無い。
「はぁ……」
小さく息をつき、私はふと、最上さんの席に視線を向けた。
……そういえば、あの人まだ帰って来ないのか……。
もう授業が始まってから十分経過するにも関わらず、彼女の席は未だに空席のままだった。
まぁ、あんなことがあったばかりだし、色々と思うことがあるのだろう。
ぼんやりと考えつつ、読みかけの携帯小説に視線を戻した時だった。
キィィィィィィィィィィン……。
「ッ……!?」
私はこめかみの辺りに手をあてて、突然の強い耳鳴りに顔をしかめた。
何だ……これ……?
頭が痛い。耳鳴りはすぐに止むかと思ったが、かなり長いこと続く。
キィィィィィィィィィィン……。
キィィィィィィィィィィィィィィィィン。
キィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィンッ!
一際強い耳鳴りがしたかと思えば、突然それは止む。
私はそれに少し驚きつつも、何度か深呼吸をして、動揺した気持ちを静める。
それから、ふと視線を机に落とした。
すると、目の前には……一つの指輪が置いてあった。
「……っへ……?」
授業中だということも忘れ、間抜けな声を上げてしまう。
しかし、何かあったのか教室内も少しざわついていた為、それに気付かれることは無かった。
ひとまず私はスマホを引き出しの中にしまい、机の上に置いてある指輪を手に取った。
無色透明の宝石が付いた、小さな指輪だ。
リングの内側には、何やら幾何学的な、奇妙な模様が彫りこまれている。
さらに顔を近付けて指輪を凝視していた時……その無色透明の宝石が、強い光を放ち始めた。
「うわッ……!?」
小さく声を漏らしながら、私は指輪を自分から遠ざける。
しかし、光は止むことなく、さらに強い光を放つ。
その光は、徐々に私の体を包み込んでいく。
慌てて指輪を手放そうとするが、もう……遅かった。
光は完全に私の体を包み込み、強い浮遊感と共に、私の体を消し去っていった。
読んで下さってありがとうございます。
略称は「いのどれ」でお願いします。