4.過ぎた願い
あの日、庭園で東の賢者と呼ばれる殿方とお会いしてから、私の日常は少し変わりました。
歌のことよりも、考古学のことよりも、蒼嵐様のことを考える時間の方が多くなってしまったのです。
ふとした瞬間にお顔を思い出してしまい、くすぐったい気持ちが抑えられません。
それどころか早くもう一度お会いしたいとか、博識な方だと分かった今、もっと考古学についてお話してみたいとか、勝手な願望が膨らんでしまいます。
自分にこんな妄想癖のような一面があるとは知りませんでした。
そろそろ、再訪されるのでしょうか。
毎日ドキドキしながら待っているのですが。
「お稽古中失礼いたします。月穂様、先ほどお待ちかねの方がお見えになられたそうですよ」
部屋に入ってきた香澄がそう口を開いたことで、私の心臓は跳ね上がりました。
美しい文字を書くための勉強中でしたが、目の前に先生が座っているのも忘れて、その場に立ち上がってしまいます。
「姫様、お行儀がよろしくありませんよ。急のご用ですか? まだあと2枚、清書が残っておられますが」
先生にたしなめられて、私は椅子に座り直しました。
「……しゅ、宿題! 宿題にしてくださいませ、先生!」
「まあ……いつもお稽古熱心な姫様のお言葉とは思えませんが……分かりました、よろしいですよ」
私が急いでいることが伝わったのか、先生は追加でもう1枚、テーブルに清書用の白紙を置いて「ではごきげんよう」と早々に退出されていきました。
「香澄、本当にいらっしゃったの?」
先日の訪問から11日目の今日。
蒼嵐様はまた先触れとほとんど同時に、馬車で来訪されたと香澄は説明してくれました。
「困りましたことに、今日も国王様がいらっしゃらないのですよ」
「え? お父様はどちらへ?」
「前々より予定のあった、水源地への視察で……今日はお天気が良いからと朝早く発たれたのです。夕方にはお戻りになられるはずなのですが」
では、またお父様と入れ違いになってしまったのでしょうか。
さすがに2回目ともなると、お気を悪くされるかもしれません。そう思うと少し心配になりました。
2階にある貴賓用の応接室にお通ししたと聞き、私も自室を出てそちらに向かいます。
直接お話が出来るかどうかは分かりませんでしたが、せめて一目お会いしたい。はやる気持ちを抑えて階段を下りました。
応接室の近くまで来ると、楽しそうに話す声が聞こえてきました。あれは、第二王女のお姉様です。
「まぁ、それでは蒼嵐様のお作りになった馬車でしたの? とても変わった形で驚きました」
「馬車と呼ぶのが正しいかどうかは分からないな。魔力で動くように作ってあるから、御者は魔法士に限られているし、不便な部分もあるんだよ」
「でも素敵ですわ。是非乗ってみたいです」
蒼嵐様の声です……!
同じ部屋から、第三王女のお姉様の声も聞こえてきました。
どうやら蒼嵐様が乗ってこられた馬車について話をしているようです。
きゃあきゃあと騒ぐ、とまではいきませんでしたが、お姉様方のテンションがいつもより高いのを感じました。
私があそこに入室するわけにはいかないでしょう……そう思いながらも速まる鼓動を抑えられず、足は扉に向かって進んで行きます。
「月穂、そこで何をしているの?」
応接室の方ばかりを見ていたので、気付くのが遅れました。
正面の廊下から、第一王女の瑞貴お姉様が歩いてきます。
私は凍り付いたように、足を止めました。
「瑞貴お姉様……」
「私は何をしているの、と聞いたのだけれど」
眉間にしわをよせて、お姉様が尋ねます。
「いえ、何も……」
「大切なお客様がいらっしゃっているのよ。目に触れないところにいてもらわないと困るでしょう。早く行きなさい」
汚いものを追い払うようなしぐさに、私は「はい」とだけ答えて後ろを向くと歩き出しました。
廊下の角を曲がるとき、ちらりと後ろを向くと、開けた扉から入っていくお姉様と、楽しそうに歓談する声が聞こえてきました。
私も、あの中に入りたい。
でもそれは絶対に許されないだろうと思いました。
お姉様方に「清明国の恥」と断言されている私が、そもそもお話しできるような方ではなかったのです。
「月穂様……」
香澄が、気遣うように声をかけてきました。
「いいの、いいのよ香澄」
「ですが」
「一目お姿を見られたらと思っただけなの……お姉様の言う通り、部屋に戻っておとなしくしているわ」
仕方ないのです。
もう一度会ってお話をしてみたいも、一目見たいも、過ぎた願いだっただけのことです。
そう思いながらも落胆を隠せません。感情にふたをして、ちょうど厨房の前を通りかかったときでした。
ガシャーン! ガラガラ……
大きな鍋が転がったような音がして、料理人達の叫ぶ声が続きました。
「おい! そっちだ! そっち行ったぞ!!」
「捕まえろ!」
「ロープ持ってこーい!」
な、何事でしょう?
思わず香澄と顔を見合わせて、私達は足を止めました。
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