3.私の初恋
東の大国、紗里真。
それは10年前に突如として滅びてしまった、悲劇の王国の名です。
この世界には、東・西・南・北に大国と呼ばれる大きな王国が一つずつあって、東の大国も私が子供の頃にはまだ存在していました。
南北に細く長く伸びたこの真国の、ちょうど中心あたりに紗里真はありました。
ですが、今はもうその国を統治する王族はいません。
紗里真は、隣国である小国に毒を流されたのです。
一日足らずのうちに、王族を含む城内全ての人が毒に侵され死んでしまった事件は、世界に衝撃を与えました。
「鮮血の31日」と呼ばれるこの惨劇が、真国の人達にとって最も恐ろしい歴史の1つとして、これからも語り継がれていくのは間違いないでしょう。
私はまだ小さかったので、当時の詳しいことはよく覚えていません。
ただ、「紗里真滅亡」の報せにお父様が頭を抱え、城内が戦々恐々としていたことだけが記憶に残っています。
国の名前を名字に持つのは、王族だけです。
全ての王族が滅んだはずの「紗里真」の名を持つ人がいるのは、どう考えてもおかしいのです。
もしかしたら……聞き間違いだったのかもしれませんね。
「それは本当の話ですの?」
自室に戻る廊下の途中、開いたままの歓談室から2番目のお姉様の声が聞こえてきました。
思わず身をすくめて、立ち止まります。
「ああ、昔から先方と行き来のあった騎士団長が、間違いなく本人だと言った。人違いでも嘘でもない。長い間、記憶を失われていたそうだよ。これまでは『東の賢者』として我が国とも交流してきたから、お前達もその二つ名だけは知っているだろう?」
「まあ……なんてこと。では、復活するという……あの話は本当のことですの?」
「ああ。その件でわざわざご訪問いただいたというのに……父上が不在で申し訳ないことをしてしまった」
兄弟の中で最年長、今年22歳になられる第一王子の祐箔お兄様と、第二王女、第三王女のお姉様が話されているようでした。
東の賢者の名は、私も聞いたことがあります。
東の最果てに住む、大変に博識な魔法士だったはずです。真国すべての小国と関わりを持ち、中立の立場から様々な助言を下さる方。
話の内容を考えるに、その方が蒼嵐様なのでしょうか。
お姉様の言った「あの話」というところが気にかかりましたが、詳しいことは聞こえてきませんでした。
「予告もなく来られるから不在なのですわ。先触れを訪問日の朝に受け取ったら、お父様がいらっしゃらなくても仕方ありませんもの」
「父上が農村の視察から戻られたら、こちらからお伺いすると申し上げたのだが……逆に自分がいないことの方が多いから、また1週間ほど経って時間がある時に来られるというのだ」
「まあ、律儀な方ですのね。どんな殿方でおいくつですの?」
「お会いしたのは初めてだったが、大変聡明な方だったよ。年は26とお聞きしている」
蒼嵐様は……26歳?
どうやら私より10歳ほど年上らしいです。見た目から、20歳くらいかと思っていました。
「ご結婚は?」
「されていないそうだ」
お姉様方がきゃあきゃあ華やいだ声で騒ぎ出すのを背後に聞きながら、私はそっとその場を離れました。
1週間ほどしたら、また来られる……
その時にも、お会いできるでしょうか。
そう思ったら、なぜだか胸がきゅっとしました。
自室に着くと、侍女の香澄が昼食の支度を調えてくれていました。
笑顔で迎えてくれた直後に、私の顔を見て表情を曇らせます。
「月穂様、何かありましたか?」
目元を見て、泣いていたのがバレたようです。
「ええ、ちょっと……でも、大丈夫よ」
香澄は、私が握りしめている白いハンカチにも気付いたようでした。
「月穂様、それは……?」
「あ、うん、これはね……」
香澄は私の5つ年上で、唯一の専属侍女です。
私が10歳の時から側でよく仕えてくれている、実の姉以上に姉のような存在ですから、彼女に隠し事は出来ません。
私は庭園で、東の賢者らしい方と会ったことを、すっかり話して聞かせました。
「殿方にあんなに親切にしていただいたのは初めてで、とても驚いたわ」
「まあ、そうでしたか……月穂様の考古学狂いにも動じず……」
「ええ、お話していてとてもドキドキしてしまって」
「月穂様……それはもしかしますと……」
「え?」
「恋なのではありませんか?」
……恋?
「え? 香澄、何を言って……」
「明らかにいつもとご様子が違いますもの。月穂様がそんな風に殿方のことを口にされるなんて」
私が……?
「その殿方のことを思い出すだけでも、うれしくなったり、胸が高鳴ったりはいたしませんか?」
そう言われて、蒼嵐様の優しそうなお顔を思い出してみました。
何故だかそれだけで、すごく恥ずかしい気持ちになります。
「……そ、そうね」
「またお会いしたいと、そうは思いませんか?」
「……思うわ」
「ではやはり、初恋ですのね」
ふふっと笑った香澄にどう返して良いか分からず、私は熱くなってきた頬を手のひらで挟みました。
恋? これがあの恋物語の小説に出てくる、恋なのでしょうか??
いざ自分のこととして起きてみると、全く訳が分かりません。
ただ、心臓がおかしいのです。このしめつけられるような胸の苦しさは、恋だと言われなければ、病だと思ってしまったくらいです。
「またお会いできると良いですね、月穂様」
自分のことのようにうれしそうに笑う香澄に、私も恥ずかしくも温かい気持ちになって「そうね」と微笑んで返しました。
この時の私は、淡い初恋がくすぐったくて、ただうれしかったのだと思います。
それがどんな風に転がっていくかなんて。そんなことはまだ考えられずに、ただただうれしかったのです……