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37.難解な気持ち(蒼嵐視点)

 僕に分からないことは、ほとんどない。

 そう言い切れるだけの才能も生まれ持ったし、努力もしてきた。


 希代の天才と呼ばれたからじゃない。東の賢者の名に恥じないためでもない。

 大国の国王の肩書きなんて、僕にとって大きな意味はないのだ。


 妹にとって「頼れる兄」でいること。

 妹の幸せのために、あらゆる手段を使って尽力すること。

 僕の人生においては、これが最重要事項だ。

 その為に解決出来ない問題も、分からないこともあってはいけない。

 この頭脳は万能でなくてはならない。


 ずっとそう思ってきたんだけれど。

 今僕は、どうにもモヤモヤして答えの出ない問題に直面している。

 分からないことがあるというのは性分的に耐えがたいものだ。

 しかもそれが、自分の中にある感情だというのだからなんとも始末に負えない。

 人の心理は難しい。答えのない哲学なのかもしれない。


 インク壺から持ち上げたペン先が、ぽたりと紙の上に滴を落とした。

 にじんだインクを見てわずかに顔をしかめる。目の前の簡単な仕事にも集中できていない。

 僕は小さくため息をつくと、虫も殺せなさそうな王女の顔を思い出した。

 実は今日、清明国に再訪予定がある。飛那姫のお見舞いに対するお礼という名目で。

 本来なら僕が行くような類いのものではないだろう。周囲もそう思っているだけに「王族が直接見舞ってくれた上、希少鉱石をたくさんもらったから」なんて理由付けはちょっと薄い気がする。


 それでも僕が行くと言えば、反対できる人間はいないのでここは我を通させてもらいたい。

 大臣2人の負担が増えることは、まぁ……彼らならなんとかしてくれるという信頼の証だと思って欲しい。


 呪師の一件が片付いて、清明国から帰ってきたのが4日前。

 少し時間が経って冷静に状況を振り返ってみると……実はちょっとだけ、月穂姫と顔を合わせるのが気まずい。

 何で気まずいのかって……僕が、月穂姫の気持ちを知ってしまったからだ。


(予想外だったんだよね……)


 ナイトフライトと相対してやられそうなフリをした時、彼女は自分の力で僕を助けようとしてくれた。

 その時に開花したらしい能力は、声に魔力を乗せて精神に強く作用するという珍しい類いのものなんだけれど。

 僕が殺されそうになっていると勘違いした(させたんだけれど)彼女は、それが嘘だと分かると自分の感情を全部乗せて僕に言霊をぶつけてきた。


 無事で良かった。

 良かったけれど、殺されてしまうと思ったらすごく怖かった。

 そんな感情の中に共通して、はっきりと伝わってきた強い想いがひとつ。


(彼女は、僕のことが好きらしい……)


 意図せずしてそれを知ってしまって、のぞき見したような罪悪感を覚えた。

 まぁ、不可抗力だし。知ってしまったものは仕方ない……んだけれど。

 正直、自分があんなに想われていることが今でも信じられない。


 何か彼女に好かれるようなことをしたんだろうか、僕。

 本? 本かな?? ……分からない。


 多分、本人に感情だだ漏れの自覚はなかったと思うから、黙っていれば済むことだろう。

 そう思いつつ、権力目的でない好意が自分に向かっているという事実にどう対処していいか分からないというか、それに対して僕がどうすればいいのか分からないというか……


「難解だ……」


 そうとしか言いようがない。

 もちろん、彼女が嫌いな訳じゃない。むしろ僕の中の女性評価としては、奇跡的に好ましい部類に入る。

 ただ、確信が持てない。

 僕の存在意義にあらためて上書きしなくてはいけない要素が出てきたのかもしれない。

 心のどこかでそう思いつつ、間違いないと言い切れる何かが、今ひとつ足りない。


 僕の中にあるこの気持ちは、彼女から感じた好意によく似ている気がする。

 そう気付いてしまったことで僕は疑っているのだ。彼女の言霊と同調してしまったことで、自分もそうかと錯覚しているだけなんじゃないかと。

 庇護欲のような、世話を焼きたいような気持ちを「特別な好意」に置き換えて考えていないかと。


 慎重に考えすぎだという自覚はある。

 でも、あんなに真剣でひたむきな思いに向き合えるだけの何かが、僕の中にあるのかと問われると自信がないのだ。

 中途半端な気持ちで、彼女に接してはいけない気がする。


 だからまず、自分の中にあるモヤモヤに名前をつけたい。

 それには直接会ってみて、また考えてみるしかないのかなと思っていて……


「僕の場合も本が原因だとすると、認知的不協和理論の働きによるものと考えるのが妥当か……あまり真剣に学んだことがないから、臨床心理学や行動心理学あたりの書籍を読み直してみるかな……」

「兄様、心の声が漏れているようですが……おそらく思考の方向性が明後日です。大概にして下さい」


 冷静なツッコミが入ったところで、僕は顔を上げた。

 自室のソファーでくつろいでいるのは妹だ。僕がデザインした新しい青いワンピースに身を包んでコーヒーカップを揺らしている。

 広げたきり読む気もなさそうなのに、僕が仕事中でヒマだったのか、考古学の本を膝の上に置いていた。


 僕は書類仕事の手を止めるとペンを置いて、首を傾げた。


「僕、何か言ったかな?」

「言ってましたよ……人の心理がどうとか、好意という感情は難解だとか」

「ああ、そうなんだよね。好意の原因が何か、どういう基準で特別な好意と判断すればいいか考えていたんだ」

「早く正妃を迎えろと大臣達が口酸っぱく叫んでいる件ですか? たくさんいる妃候補の中から魔力量で基準に見合った人を選ぶって話ならともかく、人の気持ちに基準云々を設けようと考えること自体が間違いだと思いますよ」

「そういうものかな?」

「そういうものです」


 呆れた眼差しを向けながら、妹が珈琲をすする。

 どうやら新しく仕入れた豆の試飲は合格らしい。気に入ったと顔に書いてある。

 浅煎りを好む妹の為に、マイスター付で自家焙煎の工房を厨房の隣に作ったのは正解だった。

 ひとまずこのミッションは成功と言うことで、目下の問題に注視しようと思う。


「じゃあ何で判断したらいいんだろう?」

「何をですか?」

「好意が本物か、そうでないか」

「……また何か、面倒なことを考えてるんですね」


 妹は少し考えてから「ああ」と思い出したようにカップを置いた。


「それ、先日の歌姫のことでしょう。メンハトが返って来ないと兄様が嘆いていた」

「いや、別に嘆いていたわけじゃ……」

「また何か気になることでもあったんですか? 家庭の事情が複雑なのでしょう?」

「それはもう片付いたよ。それで今日、別件でまた清明国に行くんだよね。彼女に会うまでに回答を得るための基準や物差しが欲しかったんだけれど」

「ふーん……そうなんですか」


 何となく妹がニヤニヤしている。まあ、そんな顔も可愛いけれど。


「なんか、僕の顔についてる?」

「いいえ、なにもついてませんよ? ただ、そうやって兄様に分からないことで、私に分かることがあるのが愉快なだけです」


 妹の回答が意外で、僕は尋ねてみた。


「分かるんだったら、じゃあ飛那姫はどう判断すればいいと思う?」

「どう接すればいいか分からないというだけの問題でしたら、私にして下さるように普通に接すればいいと思いますけど」

「飛那姫にするように普通に……? それはあれかな、飛那姫に似合う服飾品のオーダーメイドブランドを立ち上げたり、最高レベルのパティシエを召し抱えたり、希少食材を手に入れるためにハンターを各地に派遣したり、便利魔道具を開発したり、飛那姫好みのガーデニング様式で庭園を整備したり、僕が一から構想した『妹を快適に生活させたい』部隊を作るようなことかな?」

「……語弊がありました。私のことはひとまず考えなくていいです。いつものように配慮ある、周囲に優しい兄様でいてくださればいいということですよ」


 妹が何故かうんざりした声で答えた。


「それで判断がつくのかな?」

「そうですね……特別かどうかを判断したいなら、その人に対してその他大勢と同じような感覚で接しているのかどうかを見極めてみればどうですか?」

「……なるほど」


 それなら出来るかもしれない。

 その基準を当てはめて考えるのなら、既に答えが出ていそうだとは思ったけれど。


「考えてみるよ」

「くれぐれも私と一緒に夕食をとろうなどと、急ぎ足で帰ってこないで下さいね」

「え」

「え、じゃありませんよ。ごゆっくりしてらっしゃいませ。基本引きこもりの兄様がそうやって自分から出て行くのですから、どうでもいい用事ではないでしょう?」


 突き放すような口調の妹に寂しげな視線を投げると、冷ややかな表情がそれに応えた。


「小さい頃に『重要なことを決める時はじっくり多方向から考えてみた上で、思い切る決断が大事』だと教えてくださったのは兄様でしたよ?」

「そう言えばそんなことを言ったことも……あったかな」

「ではじっくり考えて、思い切りよく決断されてくださいね」


 そう言って、妹はさも愉快そうに微笑んだ。


蒼嵐は基本、インドアな引きこもりです(月穂はそう思っていないようですが)。

そして月穂の気持ちは既にだだ漏れてました。

蒼嵐、ななめ上に向かっていた考え方を妹に訂正されます。

「モヤモヤ=特別な好意」と確信を持てるのか……一抹の不安を残し、いざ決定打を探しに清明国へレッツゴーです。


次話「残っていた問題」。明日更新予定です。

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