32.夢なら醒めないで
今日、庭園に来るまでにも散々迷いました。
自分の気持ちを誤魔化すために無駄に時間を浪費して、もうそんな時間はないことくらい、分かっています。
だから、彼のとらえどころのない優しさを信じようと思いました。
本当に私に好意を寄せてくれていると、確信が持てなかったとしても。
「ナイトフライト……私……あなたと、一緒に」
行きます。
そう続けるはずの言葉は、背後から飛んできた声に遮られました。
「――ダメだよ」
あきらめとともに瞑りかけていた目を開けずにはいられませんでした。
だってそれは、聞こえるはずのない人の声だったのですから。
「月穂姫、悪魔の勧誘に乗っちゃダメだ」
振り向いた視線の先。
西の空に落ちた夕日がわずかに残る中。シナモン色のローブをまとった影が見えました。
(……なんで?)
心の中であまりに切実に望んでいたからでしょうか。
夢を見ているのかもしれません。
(夢なら……)
どうか醒めないで。
もう少しだけ、このままでいさせて……!
「悪魔とは人聞きの悪い……」
私の横に進み出たナイトフライトが口を開いたことで、気付きました。
夢じゃ、ない。
「私は呪師だ。貴様は何故こんなところにいる? 大国の王が供も付けずフラフラと……正気か?」
落ち着いているようで、どこか動揺が含まれたナイトフライトの声。
穏やかな声がそれに応えます。
「それについては色々いきさつがあるけれど、詳細な説明は割愛させてもらいたいな。護衛はあえて置いてきたんだよ。彼女がまたここで泣いているんじゃないかと思ったから」
「……蒼嵐、さま?」
「こんにちは、月穂姫。ひとまず泣いていなくて良かった」
そこにいるのは、変わらない優しい笑顔の蒼嵐様でした。
すぐには信じられませんでした。どうしてあの時のように、ここに……清明国にいるのでしょう。
飛那姫様が目覚めたばかりと手紙に書いてあったのに。
「月穂姫、念の為に聞いてもいい? 邪推するわけじゃないんだけれど、そんな悲壮感あふれた顔で、そこの妙な生き物と駆け落ちしたい……とかじゃないよね?」
「……え?」
問いかけられている内容が、頭に入ってきませんでした。
なんだか頭が真っ白で。
「君がいないことに気付いた侍女が心配しているよ。戻ろう」
戻る……? 戻れるわけがないのにどうして?
ああ、これはやっぱり夢なのかもしれません。
「妙な生き物とは、無礼だな」
私の足下で呟いた、鳥コウモリの姿が夕闇に溶けた気がしました。
黒い輪郭が膨らんだように見えたのは一瞬。同じ場所に音もなく現れたのは先日と同じ、黒装束の姿。
蒼嵐様が軽く目を瞠ったのと、私の体が有無を言わさない力で引き寄せられたのが同時でした。
「月穂、時間がない……あいつのことは見るな。早くわたしを選ぶと言うんだ!」
すぐ側から聞こえる低い声が、停止しそうだった思考を揺さぶります。
温度の感じない金色の目が、即断を求めていました。
「わたしの姿も戻った。お前の声ももう消えるぞ」
そうでした。私はナイトフライトと一緒に行くと言おうと思って……でも……
「月穂! 言うんだ!」
掴まれた手首が痛いです。
ひどく混乱していました。自分が今何を言えばいいのか、何故蒼嵐様がここにいるのか。
彼とこのまま一緒に行くと答えていいのか、分かりません。
「ちょっと待ってくれるかな」
蒼嵐様の呼びかけに、ナイトフライトは忌々しそうに顔を向けました。
決して放さないと、私の手首を掴む手に力を込めたまま。
「女性にそういう乱暴な態度はどうかと思うな。あと、存在を無視されるのって気分が悪い」
はじめて見ました。蒼嵐様の、不愉快そうな顔。
「僕は全てを把握している訳じゃないし、色んな材料を当てはめての推測だから間違っていたら訂正してね。まず君はさっき月穂姫が呼んでいたし、自分でも言っていたから呪師のナイトフライトで間違いないよね?」
「貴様と話している時間など……!」
「すぐ済むよ。君の存在が分かったおかげで見えていなかった部分が見えた。月穂姫に声の出なくなる呪いを仕向けたのは君だね? 目的は……君自身のその呪いを解くことで間違いないかな?」
蒼嵐様の言葉に、ナイトフライトが舌打ちした音が頭のすぐ上で響きました。
……どういう意味なのでしょう?
「君が何をやらかしたかは、その姿を見れば想像がつく。それ相応の罪を犯したんだろうね。神への冒涜とかそんなところかな、君の呪いの元は。それを解くために月穂姫みたいな人が必要だというのが、僕の推測なんだけれど、どうだろう?」
「……黙れ。私は月穂を愛しているからこそ、一緒に来いと言っているのだ」
「欺瞞だね。本当に大切な人を見る目が、そんなエゴに濁った目であるわけがない。君は自分の呪いを解くために月穂姫が必要なんだよ」
「っ黙れ!!」
蒼嵐様の言葉を聞いて腑に落ちました。
ナイトフライトの言葉が心に響かなかったのは、私を見る目に温かさを感じなかったからです。お父様やお兄様、香澄は、私をちゃんと愛情のこもった目で見てくれる。
それが、彼には感じられなかった。
蒼嵐様はナイトフライトから視線をそらさずに、ローブの下から簡素な小箱を取り出しました。
「月穂姫、その呪師の言う事に従う必要はないよ。彼の計画はもう破綻しているから」
そう言って小箱を開けると、逆さにひっくり返します。箱の中から、キラキラ光る赤い粉のようなものが地面に落ちていきました。
それを見たナイトフライトが顔色を変えます。
「貴様、何故……? どこでそれを……!」
「第一王女の部屋で。この国で採れる赤花鉱石は呪具を作るのにも最適だよね。嫌がらせ程度の呪いがどういう仕組みか、専門家じゃない僕でも分かる。第一王女に呪いの知識はないようだし、手っ取り早いのは呪具を使った方法だ。どんな形であれ呪いをかけた本人の側に置いてあるだろうと思って、ここに来る前に見つけて解呪させてもらった。月穂姫が呪いをネタに脅されていると分かったのは、今し方君の姿を見てからだけれど。呪具の存在は、状況から予想がついていたよ……こんな説明でいいかな?」
「あと……あと少しのところを……貴様……!」
激高したナイトフライトの右手が、ふいに私の首を掴みました。
苦しい……! 咳き込んでその手を引きはがそうとしましたが、力で敵う訳がありません。
「異形の姿に堕とされた者がどんな気持ちで生きてきたか、貴様に分かるものか……! 無垢な存在さえ手に入れればわたしの呪いは解ける……邪魔をするな!」
「僕は君が如何に傷ついてきたかの自慢話に興味はないし、君の事情を優先しなくちゃいけない義理もないよ。もういいだろう、月穂姫を放すんだ」
「黙れ!!」
怒号とともにナイトフライトの手に力がこもります。のどに食い込んだ鋭い爪が痛くて、苦しくて声が出ません。
蒼嵐様が表情を歪めたのが見えました。
ナイトフライトが低く冷たい声で「許さん」と呟きます。
「よくもわたしの計画を崩してくれたな……あと少しで円満に連れて行けたものを。貴様はそこから動くな。指の一本も、魔力1つも動かすことは許さん! 少しでもおかしな真似をしてみろ。この細い喉を掻き切って無力を思い知らせてやる……!」
「……分かったよ」
「その盾も許さん! 解除するんだ!」
「あ、バレてた? 体の線ギリギリで張ってればバレないかと思ったんだけれど」
そう言うと、蒼嵐様の体の周りにあった薄い魔力の気配がかき消えました。
魔法士が身を守るために使う、盾魔法。
(解除……?)
常人と変わりない肉体しか持たない魔法士が、物理攻撃にも魔法攻撃にも耐えるための最後の砦。
どうして、それを解除だなんて……?
蒼嵐様の様子を注視していたナイトフライトが、意地悪く喉の奥で笑いました。
ナイトフライトと蒼嵐の間で話が進み、ひとり理解が追いついていない月穂。
次話「いばらの道(ナイトフライト視点)」。ナイトフライト視点はこの一話だけ。
明日更新予定ですが……PCに向かう時間があまりにもなさすぎて、更新出来るかどうか危ういです(泣)。作業出来なかったら次の日になっちゃうので、その時はお許しをば<(__)>




