30.タイムリミット
眠れないうちに、朝が来ました。
東の空から登ってくる太陽がカーテンの向こうに透けて、部屋の中に明かりを届けます。
段々と明るさを増していく部屋の中を、私は憂鬱に見回しました。
期日の朝を迎えて、焦る気持ちもあきらめる気持ちも同じ胸の内に抱えながら、なにをどう受け入れたら良いのかも分かりませんでした。
「あ……」
声はまだ出ている……
今日のいつ、これが出なくなるのでしょうか。
今日が終わると? あともうすぐで?
分かっているのは、それまでに私は選ばなければいけないということ。
おとぎ話のように、奇跡が舞い降りることなんてないのですから。
ずっと手に持っていた一枚の手紙を、もう一度広げて眺めます。
昨日の夕方に蒼嵐様から届いたお手紙。飛那姫様が目覚められた報告とお礼と、それから綺麗な字で気安い誘いの文句が書かれていました。
また、本を読みにおいでと。都合をつけてくれれば迎えの馬車を出すからと。
お返事は書けませんでした。
当たり障りのない快気祝いの言葉も、お誘いに対してのお礼の言葉も、辛くてどうしても書けませんでした。
(どうして私なんかに、そんな風に声をかけてくださるのでしょうか……)
あり得ない期待をわずかにでも抱いてしまうほど、今の私は追い詰められているのかもしれません。
なにも望めるはずがないと、よく分かっているのに。
起きた後はいつも通りに過ごしました。
沈んだ顔の私を見て香澄は心配そうでしたが、心配をかけられないと笑顔を続けることすらもう難しかったのです。
何度か庭園に足を向けようとして、また戻ることを繰り返しました。まだ迷いがあって、勇気が出なかったのです。
泰府の王に嫁ぎたくはありませんでした。想像しただけでゾッとするような方のところに身を預けるなんて……
お姉様を害するという選択肢は、そもそも私の中にありません。
選べることなんて、ひとつしかない。
それはもう分かっていたのです。
夕闇が迫ってくると、香澄は夕食の支度に出て行きました。
その姿を見送って、最後まで彼女に何も言えないまま、私は1人部屋を抜け出しました。
涙が頬を伝うのを拭いながら、とぼとぼと庭園へ向かいます。
「ごめんなさい……香澄」
外は無風でした。
静かで、空気が動いていなくて。
地平線に茜色が残る空の下、桜の大木はいつも通りにそこにあるのに。ゴツゴツした木の幹が優しく訴えかけてくることからも、目をそらしました。
桜の花が舞っていたあの春の日。淡い恋心を知ったあの時には、もう戻れないのでしょう。
感情を動かすことがこんなに恐ろしく思えるなんて知りませんでした。
外へ向かおうとする気持ちを押し込めて、無理矢理に凍り付かせていないと自分を保っていられないほどに。
優しい声が、笑顔が思い出されて、しばらくの間緑の茂みをぼんやりと眺めていました。
もう一度あの時のように、何も知らなかった時のように、あそこから出て来てくれたのなら。
(夢でもいい。もう一度だけでもお会いしたかった)
生まれて初めて抱いた、小さな恋心をなかったことにしたくなかった。
私にもっと勇気があったら、叶わなくてもこの想いを伝えられたのかもしれません。
温かくて優しい愛しさも、苦い胸の痛みも教えてくれたのはあなたなのだと。
もう遅い、そう思った瞬間、がさがさっと視線の先の緑が揺れました。
既視感のようなものを感じて、息を飲みました。揺れる茂みの向こうに、誰かがいます。
(まさか)
そんな訳はないと思いつつ、あの時の光景が思い浮かびました。
凍り付いていた気持ちが、どくん、と脈打ちます。
「……そろそろ時間だね」
そう言って茂みの向こうから姿を現したのは……
黒い、鳥コウモリ。
「ナイトフライト……」
「お待ちかねの人物じゃなくてがっかりしたかい?」
「……がっかりだなんて」
私は視線を落としました。
「そんなわけないわ……だって、ここにいるはずのない方だもの」
夢を見ていたのです。最後に。
「そうか……さて、月穂。もう本当にあとわずかな時間しかない。日が沈めばお前の声は失われる。何を選ぶのか、決まったからこうして1人で出て来たのだろう?」
日が沈めば――。
今日が終わらないうちに、声がなくなる。
突きつけられたのは、現実でした。
「……何が良いのか、結局分からなかったわ……」
「では今から姉を殺しに行くかい?」
「っそんなこと、出来る訳ないわ」
「ではこのまま部屋に戻って、婚約打診に返事を出すかい? お請けしますと」
「……嫌よ」
「じゃあ残るはひとつだが……それも嫌かい?」
残るはひとつ。
「私……」
気持ちの上ではそれを選べないのも、分かっていました。
だって、私が好きなのは……
「……もうじきに月が出るよ。今日は満月だ」
そんな私の様子を見ていたナイトフライトが、空を見上げて呟きました。
「わたしはね、もう長いことひとりで生きてきた」
黒いクチバシからもれてくる独白。何かを告白するかのような口ぶりで。
「もともと呪師として鳴かず飛ばずだったわたしは、成功したいと思うあまり、ある時やってはいけないことに手を出してしまってね……それからずっと、ひとりでこの姿で生きてきた」
「……ナイトフライト」
「わたしを見た人間はみんな、気味が悪い、恐ろしいと罵ったよ。この姿でいる時には、わたしは人の心が読めるんだ。能力と引き替えに昼は人間の姿を失ったが……おかげで人間の汚さというものが身に染みて分かった。人間の心は醜くて汚い。本当に美しい純粋な心を持った人間などいない……お前に会うまではそう思っていた。月穂、お前は違った。こんな見た目になったわたしを不憫に思い、心から助けようとしてくれた」
瞬きもしない金色の目が私を見上げていました。
この人は、たったひとりで辛かったのでしょうか……その言葉の中に寂しさを感じたのは、気のせいではないでしょう。
ナイトフライトは続けました。
「わたしはこの姿になると食欲が抑えられなくてね……仕事帰りに腹が減って飛び込んだ先が、城の厨房だとは思わなかった。城に入ったのはあの時が初めてで、あの後少し経ってからわたしはお前の姉に呪いを売ったんだ。まさかお前に使うものだとは思わずにね」
「……え? ちょっと待って……?」
「白状するとね、お前にかけられた呪い……元はわたしが作ったものなんだよ。そしてそれはもうわたしの手を離れた。だから、退ける方法を教えてやることしか出来ない」
低くくぐもった声が、何かの呪文のように聞こえました。
ナイトフライトが、お姉様に呪いを売った……?
「ど、どうして……」
「どうして? それが私の仕事だからだよ。こうして全て話すのは、わたしならお前を助けてやれると信じてもらうためさ」
呪師とは、呪いを生業としている人のことです。
だとすれば、これは本当の話なのでしょうか。
「月穂、わたしと一緒においで。お前が来るのなら、あの愚かな姉を元に戻してやることも考えよう」
「お姉様を元に……? だって、この間は戻せないって……」
「お前には無理だが、わたしには可能だ。やってやってもいいよ。お前の返答次第だがね」
私の返答次第。
「私があなたと行くと言えば……お姉様は元に戻してくれるということ?」
「ああそうだ、約束しよう」
「……あなたと……」
言葉を続けようとして、声がかすれました。
「おや、少し早いけれどそろそろタイムリミットかな」
「……!」
声が、消える。
恐怖で足が震えました。
「月穂、早く言いたいことを言ってしまった方が良いよ。私ももう人の姿に戻る。そうしたらお前の心の声は聞いてやれない」
歌えない自分になるのは、やはり受け入れられないと思いました。
お姉様を元に戻したい気持ちもありました。
望まない縁談から逃げたい気持ちも……
(声を失って好きでもない人のところに嫁ぐくらいなら、もうここから逃げてしまった方がいいのかもしれない……それでお姉様も正気に戻るのなら……)
私の様子を見て、ナイトフライトは背中から伸びたコウモリの羽を誘うように広げました。
「姉のことは心配しなくていい。お前の声も今まで通りだ。ちゃんと歌えるよ。お前を大切にすると約束しよう。全部わたしに任せてくれればいい……まだ話せるだろう? さあ、言ってごらん」
温度の感じない金色の目が、私を見つめていました。
「……私」
ぎゅっと唇を引き結びます。覚悟を、決めました。
ここでこの人の手を取ってしまえば、大切な人達とはきっともう会えない……
それでも。
(香澄……お父様、お兄様……ごめんなさい……でも、これが一番いいのよ)
この人と行こう。
心の中でそう決意した私を見て、ナイトフライトの口が不気味な弧を描いたのを、目を伏せた私が見ることはありませんでした。
悩んだ末、ナイトフライトと行くことを決めました。
この続きは次々話で。
次話「気になる人(蒼嵐視点)」。明日は定休日につき、火曜日の更新になります。
※増減するブクマ相手に評価ポイントキリ番てのもなんなんですが……
キリ番見たらイラスト描くことにしてるので、なんか描きます(近いうちに活動報告にて)。
主人公のメンハトにしようかな(3分で描けそう。笑)。
追記:眠い中推敲していた回だったので、見返して「ん?」と思われる部分をちょっと修正。話の内容などに変更ありません。




