2.差し伸べられたハンカチ
誰でしょう……
身なりは立派な方でしたが、見たことのない方です。
何故、こんな庭園のはずれにいるのでしょうか……?
不審と言えば不審です。
けれど高貴な服装にまとった柔らかい空気と、気遣いのこもった声かけに、警戒心はわき起こってきませんでした。
「珍しい石碑が見えたので、少し拝見したいと思っただけなんだ。歌が聞こえたから、ついのぞいてしまったけれど、邪魔をする気もなくて……本当にごめんね?」
殿方は穏やかにそう弁明されました。
とても整った顔立ちの、優しそうな方です。
茶色い髪に、知性の光る同色の瞳が綺麗でした。スマートな雰囲気は城の上級学士のようです。
「あ、いえ、私こそこんなところで歌っていて、申し訳ありません……!」
きっとお客様だと思うのです。
身分の高そうな方に二度も謝られてしまって、私も慌てて頭を下げました。
「第四王女の月穂と申します。ご無礼をいたしました」
「えっ? 第四王女……? てっきり使用人の誰かかと……あれ? 侍女は一緒じゃないの?」
「はい」
どうやら私、侍女と思われていたらしいです。
普通は王女と言えば侍女がついて回るものですから、誰も側に控えておらず、こんな地味なワンピースを着ていればそんな風に見えるのも仕方ありません。
そうは思いつつ、その誤解はちょっと悲しいものがありました。
「申し訳ない。こちらこそご無礼を。僕は紗里真蒼嵐、どうぞよろしく、月穂姫」
蒼嵐様、と仰るのですね……
名乗られると、蒼嵐様は私にハンカチを差し出されました。
「……?」
私は意味が分からず、目をパチクリしたまま端正なお顔を見上げました。
蒼嵐様はそんな私を見て困った様に笑うと、「失礼」と言って、ハンカチを持つのと反対の手をあげられました。
温かい指先があごに触れたかと思ったら、白いハンカチがそっと目元にあてられます。
はたと、思い当たりました。
私、今、すごく汚い顔でした……!!
自分が泣いていたことをすっかり忘れていたのです。
「あ、あ、あのっ」
殿方に涙を拭いてもらったのは生まれて初めてです。どう対応して良いのか全く分かりません。
すっかりうろたえた私は、思わずその手を掴んでしまいました。
「だっ……大丈夫です! 申し訳ありません!!」
「そう? じゃあこれ使ってね」
すっと手を取られてハンカチを握らされてしまいました。
「なんだか妹が小さい頃に泣いていたのを思い出しちゃったな……でもね、女の子は笑っている方がいいよ。元気出してね」
私、何歳だと思われているのでしょうか。
小さい子をあやすような目で見られて、とても恥ずかしくなりました。
「あ、ありがとう、ございます……」
後半、消え入りそうな声でしたがなんとかお礼が言えました。
何でしょう、私、おかしいです。全力で走った後のような激しさで、心臓がバクバクいってます。
なんだか目の前までクラクラしてきたら、庭園の向こうの方で男の人の怒鳴るような声が聞こえてきました。
「蒼嵐様―! どちらへ行かれたのですかー?!」
「あ、余戸だ」
名を呼ばれた蒼嵐様は、声のした方へ首を回すと「大きい声だなぁ」と笑いました。
「あちこち見て回るなって護衛が口うるさくて。でも上から見えた石碑がどうしても気になったから、こっそり抜けてきたんだよね。ちょっと赤っぽい大きい石碑が、そっちの奥に見えたんだけれど」
「桜歌石のことですか?」
「桜歌石って言うの? 古いものなんだろうね」
桜歌石は庭園の隅にある、石碑のことです。
あれに興味を持たれると言うことは、やはり学士様なのかもしれません。
「あれは426年前の赤銅が原の戦いで、当時の大将真次が山を切り裂いた時に落ちてきた落石だと言われているものです。刻まれている言語は仮名古文字ですが、そこまで歴史の古いものではありません。赤い鉱石の成分が含まれていて、石自体がうっすら桜色に見えるところに、当時の和歌が刻まれていることから桜歌石と呼ばれています」
そう説明すると、蒼嵐様はきょとんとして私の顔を見返しました。
「とても、よく知っているんだね」
「え、はい、あの……歴史に興味があるので……」
尋ねられて、つい喋りすぎてしまいました。呆れられてしまったでしょうか……
私、歴史や考古学が大好きなのです。
女性が好む恋物語の小説よりも、考古学専門書の方に心躍るくらい、その手の学問が好きなのです。
もう何年も熱心に勉強しているのですが、人には大きな声で言えません。
お姉様達には「女の身で学問など、馬鹿なことを」と言われていますし、分かってはいるのですが……どうしても、知りたい、学びたいと思う気持ちを抑えることが出来ないのです。
「その、申し訳ありません……」
「どうして謝るの? 感心したよ。教えてくれてありがとう」
「えっ?」
本当にそう思っているような顔に見えました。
また向こうの方から「蒼嵐様―!!」と叫ぶ声が聞こえてきました。
「まずい、戻らなきゃ。ええと……君は一人で戻れる?」
「はっ、はい!」
蒼嵐様が心配そうにそう声をかけてくださったので、私は必要以上に大きな声で答えてしまいました。
そんな粗忽な私を見て微笑むと、
「じゃあ僕はこれで失礼するね、月穂姫」
蒼嵐様は来られたときと同じように、茂みの向こうへと消えていってしまいました。
少しのあと、私はその場にヘナヘナと座り込みました。
心臓の音が、鳴り止みません。
「紗里真、蒼嵐様……」
そうお名前を呟いたら、ふと不思議なことに思い当たりました。
紗里真、の名字はおかしいです。
なぜって、その名の大国は、10年前に滅びたはずなのですから。