28.選べない選択肢
全身の血が、流れを止めてしまったかのように感じました。
生まれてはじめて殿方から告白されたというのに、少しもうれしいと思えませんでした。
「お前が幸せになるのなら、わたしは身を引いて見守ろうと思っていたんだ。だがお前はどうやら好きな男をあきらめているらしい……ならばいっそ、わたしと縁づくことを考えてみないかい?」
のどの奥が乾いてくるようで、うまく声が出ません。私を見下ろすナイトフライトの目が、この動揺をさらに大きなものにしていました。
「月穂……身分違いの恋などに悩んでいる時間はない。タイムリミットはもう目の前だ。よく考えるんだよ。声を失って、あの小国の王に嫁ぐか。それとも声を失わないように、わたしとともにこの国を出るか」
「この国を、出る……?」
「そうさ、わたしは王族ではないからね。お前を手に入れるにはここから連れ出すしかない。2人でここから逃げるんだ。もっと住みよいところに連れて行ってやろう」
息が触れそうな距離に金色の目が近付いてきたところで、私はようやく我に返りました。
自分の頬を抑えている冷たい手を、あわてて振り払います。
「そ……そんなこと、無理ですっ!」
「そうかな? 無理かどうかはよく考えるといい。あとわずかだが、まだ考える時間はある。お前が望めばわたしはいつでも迎えに来るよ。その気になったら……あの場所へ来るといい」
ナイトフライトは振り払った手をもう一度伸ばして、私の手首を掴みました。
ふりほどけない強い力でした。
手の甲に唇を寄せると、冷たく柔らかい感触が触れます。
「……!」
「今日はこれで帰るからね。愛しているよ、月穂」
薄く笑ってそう言うと、ナイトフライトはバルコニーの窓を開けて出て行ってしまいました。
柵の向こうに飛び降りた影を、追う気にはなれません。私は口づけられた手を胸の前で固く握りしめました。
愛している? 私を?
どくんどくんと騒がしい心臓が、どんな感情から波立っているのか自分でも分かりませんでした。
ただそこに立ち尽くしたまま、何が起きたのかをようやく頭が理解し始めます。今までにない焦りのようなものが胸の中に広がっていきました。
どうして……どうすればいいの?
(何か困ったことがあったら連絡して。必ず力になるから)
そう言ってくれた優しい笑顔が浮かんできて、力が抜けたようにその場に座り込みました。
本当は、助けて欲しいです。
誰でもいいから、ではなく……ただ1人の方に。
「蒼嵐様……」
月明かりに照らされた床に、涙がこぼれ落ちました。
――翌朝。
あれからどうやってベッドに入って寝たのか、よく覚えていません。
目覚めた頭の片隅には「よく考えるといい」というナイトフライトの言葉が、こびりついていました。
「月穂様、このところお元気がないとは思っていましたが……今日はまた、ことさらにお顔が暗いですよ。ずっと、紗里真の国王陛下のことを考えておられるのですか?」
香澄が心配そうに言ってくるのも理解出来ました。
蒼嵐様からいただいた本を膝に乗せたまま、上の空だったようです。
「この本……」
「はい?」
「この本、どうして私にくださったのかしら。どうしてあの時、書庫に呼んでくださったのかしら。私みたいな……歌うことしか取り柄の無い人間に。それ程歌を気に入ってくださったのかしら」
いっそ気にもかけてくれなければ、こんなに苦しく思うこともなかったのでしょうか。優しくされなければ、もっと簡単に忘れられたかもしれないのに。
最初からあんな風に見返りを求めない優しさに触れさえしなければ。
「辛いわ」
全部を話せなくても、あきらめなくてはいけないこの想いだけでも口に出してしまいたい。
昨晩は動揺のあまり、蒼嵐様に助けを求めることも考えました。でも冷静になってみれば、飛那姫様のことで大変だと分かっている今、私が「助けてください」なんて言えるわけがないのです。
一番大切な人を想って神経をすり減らしている方に、私のことなんかで迷惑はかけられません。
香澄は本の上に乗せていた私の手をとって、優しく握りしめてくれました。
「恋とはそういうものです。大丈夫です、今は辛くとも……またきっと、素敵な殿方が現れますよ」
身分だけを考えたとしても、大国の王には不釣り合いな私。過ぎた願いどころか、選択肢にすら入るわけがないのです。
香澄の言葉は今の私にとって、最も相応しい慰めの言葉だったろうと思います。
「そうね……」
力なく答えた私は、その言葉通りにすればいいのかもしれないと初めて思いました。別の誰かを好きになれば、きっとこの苦しい気持ちも終わります。
それが一番自然なことのように思えたのです。
もうすっかり忘れて次に進めばいいと。それが出来るのなら。
ナイトフライトが期限と言った日まで、あとほんのわずか。
そのギリギリの時間まで、自分の気持ちを整理しようと決めました。
声を失って小国の王に嫁ぐか。
ナイトフライトの誘いに乗って、この声だけは守るか。
どちらに転んでもこの国にいることは出来なくなるのでしょう。香澄と一緒にいられるのも、もうあとわずかな時間なのかもしれません。
そして期限の前日は、非情にもごく普通の日のように始まりました――。
午前中に瑞貴お姉様をお見舞いに行き、廊下で第二王女のお姉様に「結婚するのですって? おめでとう」と笑われ、外交に出かけるお兄様を見送り……
最後に歌っておきたいと、楽士達のところにも行きました。
でも練習中の演奏を聴いていたらそれだけで泣きたくなってきて、とても歌えないと思いました。
引き返して部屋のソファーに沈み込み、蒼嵐様からいただいた本に手を伸ばしかけて、止める。
何もしたくありませんでした。
助けてと叫ぶことさえ。
ここにきて、気持ちのひとかけらさえ整理なんて出来ていなかったのです。
「月穂様、外に何か……」
香澄がそう言ったことで、私は顔を上げました。
午後の光に照らされて、一羽の鳥が飛んでいるのが見えました。
まるで部屋に入りたいというかのように、窓の外でずっと飛んでいるのです。
「な、何かしら」
「結構な大きさですけれど……可愛らしい鳥ですわね。こんな桜色の鳥ははじめて見ました」
「中に入りたいと言っているみたい……」
私がそう言うと、香澄は少し考えてから片方の窓を開けました。
途端に、丸いシルエットが部屋に飛び込んできます。
天井付近をゆっくり一周して、鳥は私の座るソファーの前、テーブルの上に降り立ちました。
こげ茶色のくりくりした瞳で、私を見上げてきます。
「わぁ……可愛い」
思わず、手を差し出しました。
鳥はそれを見て、ちょこん、と私の手に乗ってきます。
その瞬間、鳥の姿は溶けるようにかき消えて、手の上には一通の手紙が残りました。
「まあっ、もしかして月穂様のメンハトでしたの?!」
「メンハト……? 今のが??」
宛名登録した人で鳥の見た目が変わるというのは知っていました。
今のが、私のメンハト……ということは、このお手紙は。
「蒼嵐様だわ……!」
私は署名を確認するとあわてて封を切りました。
なんでしょう、どうしたのでしょう。お手紙だなんて……まさか、飛那姫様に何かあったのでしょうか?
焦る気持ちを抑えきれず、少々乱暴に開封します。広げた便せんに目を通した私は、一気に内容を読んでから、肩をなで下ろしました。
「良かった……」
飛那姫様の目が覚めたという報せでした。
目覚めたばかりだけれど、後遺症もなく元気だと。
ずっと案じていたことがひとつ解決して、全身の力が抜けた気がしました。
(飛那姫様、ご無事で本当に良かった……)
「香澄、飛那姫様が目覚められたのですって」
「まぁ、それはようございました。月穂様がお見舞いに行かれたから、わざわざ急ぎ連絡くださったのですね」
「ええ、そうね……」
ただそれだけの手紙のはず。
でも、手紙には別のことも付け加えてありました。
それを読んでしまったら、うれしくなって、でも悲しくなって、あまりにも切なくなりました。
「すぐにお返事なさいますか? 便せんと封筒をご用意いたしますから……」
「いえ、いいの香澄」
即座に止めた私を、香澄は不思議そうに振り返りました。
すぐにお返事差し上げないと、無礼かもしれません。
そう分かってはいても。
「お返事は……書かないわ」
「月穂様……?」
封筒を握りしめた手が、にじんで見えました。
――タイムリミットまで、あと1日。
急ぎ足でタイムリミット前日までのお話でした。
選択肢が増えても選びたいものがなければ悩ましいだけ。
次話「メンハト(蒼嵐視点)」。諸事情につき、明日は夜の更新になります。




