天賦人権説及びサヨク的「公共の福祉」の解釈のおかしさ
天賦人権説というモノがある。すべて人間は生まれながらに自由かつ平等で、幸福を追求する権利を持つという思想だ。まさしく「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」というわけだ。日本のサヨクはコレを「自然権」などと言い換え、キリスト的な「神の下の平等」とは関係なく、人間は自然状態でも基本的人権-我が国では参政権のほか社会権や生存権などが存在すると口にする訳である。
現行憲法第十一条には【~基本的人権は~現在及び将来の国民に”与へられる”】と書かれている。基本的人権は『与えられている』モノであるそうだが、彼らは基本的人権を与えてくださる「誰か」かについてまともに説明する事が出来ない。
要するに『神』を『自然』と言い換えただけなのだ。しかし彼らの脳内では、別の存在だという事になっているそうだ、それを説明する事は一切できないが。
ところで「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という文言は、わが国では福沢諭吉の『学問のススメ』が有名だ。もっとも学問のススメではその後に「と言われているが」と続く。現実を見ればあまりに明白だ。人間はそれぞれ全く地位も能力も異なる。すべて人間が、生まれながらに自由かつ平等であるなら、勉学など自己を向上させる努力をする理由など存在しない。
人権に関してもコレと全く同じことがいえる。国々を見れば人権状況などそれぞれだ。何処にも普遍的な人権などというモノは存在しない。北朝鮮は最悪の人権状況の国のひとつだ。その原因は天が見放したからなのだろうか? 半島の北には人々に権利を享受させれる自然環境が存在しないという事だろうか?
そんなものは現実に人々の人権を保障などしない。人間の社会生活や人権は法によってその保護や履行がなされているのだ。言うまでもなく、法律を作っているのは人間だ。天から与えられたものでもないしキノコのように生えてくるものでもない。「基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であり「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」という考えの方がよほどに現実に即している。
憲法論議で大きく問題になるのが人権を制限する根拠となる「公共の福祉」の解釈だ。サヨクは「天賦人権説」とセットで人権は自然状態で存在する神聖不可侵の代物だとかいう『建前』を前面に押し出した主張を繰り返す。その最たるは①「人権を制約する根拠となるのは、かならず他の人権でなければならない」とい う主張と、これに天賦人権説或いは自然権なるものを持ち出した②「あらゆることをなしうる一般的な行動の自由」というものだ。
さて①「人権を制約する根拠となるのは、かならず他の人権でなければならない」という考え方であるが、はっきり言おう。こんな戯言は現実には全く採用されていない。個々人の人権を超えた概念による制約を認めないのなら、少女売春や未成年の飲酒喫煙の制限など、一体どういう理屈で制限するのか? そのほか、美観や公平性など個々人の人権を超えたものは幾らでもある。それらは社会全体の利益としてしか観念しえない。そして現実にそれらは「公共の福祉」の文言で規制する最高裁判例は多くあり「人権を制約する根拠となるのは、かならず他の人権でなければならない」などいう意見は採用されていない。都合の良い左派の憲法学者の戯言でしかない。
②「あらゆることをなしうる一般的な行動の自由」実にバカらしい考えだが、日本のサヨク的な発想では絶対に避けられない問題である。既に述べたように、日本のサヨクは天賦人権についてキリスト教とは関係のない自然権だという主張をしている。キリスト教的な「神の与えた権利」という事ならモーセの十戒などキリスト教的な制約などが前提に存在するわけであるが⋯⋯
では日本のサヨクのいう「自然権」はどうだろうか? 神がいないなら十戒もない。何の制約も無い無制限の自由がまず与えられているという訳だ。殺して良し、強姦して良し、盗んで良しだ。これではホッブズが描いた「万人の万人に対する闘争」の状態だ。そんな事はそもそも社会契約論の理念からしてあり得ない。
以上の事から、「人権を制約する根拠となるのは、かならず他の人権でなければならない」という考え方は実行不可能の欠陥思考であるし、自然権がキリスト教の思想から逸脱したものであるという考えなど成立しない。
そもそも現代の社会で人権と言われている事は、18・19世紀の人権とは全くの別のモノである。それを天賦人権説などという別の物差しで計ろうという考えそのものが狂っていると言わざるを得ない。天賦人権説がなぜ提唱されたか? その本質とは国家論である。
キリスト教は説く「神は万物の創造主である」つまり国家と権力も神の創造物だという事だ。つまり国王の権力は、神が承認したものであり、王は神の代理人という訳だ。これが神授王権説である。民衆の自己決定権。そんなものは勿論存在しない。選挙で国の行く末を決定するなどという事は神への反逆であり、不遜極まる考えである。
故に、社会契約によって国家が形成されたという考えが持ち込まれる訳だ。神の御意思によって王権が創られた訳ではないという反論である。その延長にある要求とはなにか? 天賦人権が求めるモノとは「自己決定権」と自由に他ならない。
では現代日本で求められている人権とはどのようなものか? LGBT問題のように社会権や生存権などである。これらは単純な自己決定権とは明確に違う点がある。即座にコストがかかる点だ。最低限の文化的な生活だの、不快の感じない社会作りなどというもの莫大なコスト要求する。砂漠のど真ん中にいても熱中症にならず飲み水が与えられ飢えもせずに暮らせるというのか? こんなものが自然に与えられる訳がなかろう。
日本のサヨクがなぜ馬鹿らしいかと言えば、彼らが論理的に選択すらしようとしないからである。コストがかかるモノを受け取っておきながら、その事を空気を吸うように当然の事だと捉えるのだ。空気を吸うように当たり前なのだから責任も勿論無い。これでは乞食の理屈だ。正しい、間違い以前の問題だ。はい・いいえのどちらかを選択してくださいというのに、真ん中に〇を記入するような真似ばかりするのだ。それで別の物差しを持ち出してどうのという。