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タイトルのない日常  作者: 高木直貴
8/11

窮鼠猫を噛む、のその後

 真剣にお正月に戻りたいと思う今日この頃皆さまいかがお過ごしですか?

 僕は今日も今日とて何となくネガティブに過ごしています。具体的に言うとたったひとつのあやまちであらゆるものが台無しになるんじゃないかという不安に包まれて暮らしています。元も子もない言い方をすると、どうせ自分なんか好かれないという自意識が肥大化していっている状態です。

 実はここ最近というもの久々に小説などを書いておりましてちょっとエッセイでアイデアを消費してる場合じゃなかったと言えば聞こえは良いんですが要するに僕がふたつのことを一気に出来ないってだけで更新出来ずにすみません。

 ところでタイトルにもなっている窮鼠猫を噛むという諺は、噛み砕いて言うと追い詰められた奴ってとんでもないことしでかすかもしれないよってことだと思うんですけど、これって当然ですが結果は保証されてないんですよね。弱い者でも追い詰められ逃げ場を失うと開き直るからあなどっちゃいけないとは言っているけど、そこまでしか言及していない。思わぬ反撃を与えたけど自分が思ったものとは違う結果になったりするかもしれませんし、最終的に数の暴力や権力にものを言わせて従わさせられたりするかもしれないんですよね。まあここまで否定的な意味を持たせるとイタチの最後っ屁という言葉に変わってくるのかもしれませんけど、猫を噛んだ結果怯んだ隙に逃げて生き延びられるのかそれとも抵抗もむなしく食い殺されるのか、それはその時になってみないと分かりません。

 他の諺も同じようにケチをつけていくと犬も歩けば棒に当たるというのも、当たったからといって一概に悪いというわけでもなく、むしろ木から落ちた猿にくらべれば棒に当たったくらいで済んだことはある意味ラッキーと言えるかもしれません。諺ではありませんが、実るほど頭を垂れる稲穂かなという言葉も、実るまでの過程ははぶかれていますし、むしろ実って余裕が出たから人の有り難みを理解して頭を垂れているだけで、それまでは鼻持ちならない人物だったのかもしれません。逆にずっとペコペコと頭を下げ続けた人は望む結果が得られず性格が卑屈になったり、嫉妬深くなったりするかもしれません。とケチをつけ始めたら止まらないです。

 これが劇の脚本や小説ならそれでも良いかもしれませんが、諺という教訓的な側面を持つものならきちんと結果を保証して欲しいです。だって偉そうに講釈垂れたあとに「知らないけど」って言われたらどう思いますか? 無責任だと感じますよね。もしこれが「まあこれが正しいとも限らないけどね」みたいに謙虚な姿勢ならまだしもちょっと上からで言ってるんですよ、この人。どこの誰だか知りませんけど「窮鼠猫を噛む」って最初に言い出した人、うまいこと言ってやったってどや顔してると僕みたいな奴に難癖つけられますよ。つまりこんなエッセイを書くことがある意味「窮鼠猫を噛む」というわけです。

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