複合型福祉施設 三話
いま飛行機の中で龍太は、菊ばぁちゃんの容態を案じている。
ようやく飛行機は伊丹空港に着いた、近くのレンタカー店に急ぐ二人。
明は、既にレンタカーを手配していた、龍太は、流石に手回しが良すぎると明をみる。明が運転席に座り、龍太が助手席に乗り込むと同時に車は急発進した。車は神戸淡路鳴門自動車道に入り、あと3時間程で徳島県海部郡美波町にある故郷のヒューマンライジングに辿り着く。龍太と明は、菊ばぁちゃんの具合が気になって仕方がなかったが、まだ夜が明けていない。
電話するのには、少し気が引けた、もう少し待とう、と明の声。
暗闇が沈黙を誘い、二人を包んでいる。
長い沈黙の中から、龍太と明の顔を朝日が照らしはじめた。
もう、いいだろうと龍太が言う、そうだな、と明。
ようやく電話することができた。
美玖ちゃんが電話に出た、もしもし、美玖ちゃん、龍太だよ。
あっ、龍ちゃん、久しぶり。と声が明るい。
龍太は、菊ばぁちゃんの具合が良くなったと勝手に想像した。
菊ばぁちゃんの具合はどうなの、うん、あのぅ、と言葉を詰まらせた美玖ちゃん。
具合は、と聞き直す龍太にあまり良くないと、言うだけではっきり答えない。
少し苛立ちを覚えた龍太だったが、到着時間を知らせて電話を切った。
横から明が、菊ばぁちゃんはと聞いてきたが龍太は、肩を窄めるだけで答えなかった。
明は、腑に落ちない顔しながらハンドルを右に回した。
車は美波町の海岸沿いに入った、ヒューマンライジングの近くには山や海がある。
泳いだり、魚釣りをしたり、みんなでバーベキューを楽しんだことを思い出していた龍太。
美波町は四国霊場の薬王寺に参拝する遍路で門前町は賑わい、室戸阿南海岸国定公園でもある、海岸ではアカウミガメが産卵に訪れるなど自然が豊かなところだった。
龍太は窓を開け、冷たい空気を顔にあて、そして大きく深呼吸をする。
あぁ、この空気。やっぱり、この空気はうまい。
明は、ニヤリと笑い故郷はやっぱり、いいなぁ~。おれ、戻ろうかな。と呟く。
龍太は、僕もと言いそうになったが慌てて口を噤んだとき、ヒューマンライジングが見えてきた。
やっと着いたな、と明。
ばぁちゃん、二人の心の声が、車中にあった。
車は、ヒューマンライジングの門を通りぬけ宿舎へと向かった。
『ヒューマンライジングの家は過疎化した公民館や休学校などを自治体の支援提供を受けた。
それぞれ生活できる環境に改装して造った宿舎や、廃業した旅館やホテルなど改装して住居とジム、習い事の部屋、遊技場など多目的な部屋が数多く造られていた。
ヒューマンライジングは過疎化した地域にヒューマンライジングの家を造っている。過疎化した地域は自然豊かなところが多い、経済の物流が乏しいことから若者離れになり、過疎化へと追いやられる。
だが自然と共存することは心豊かな人間を形成する場としてはこれ以上のところはなかった。
そして、ヒューマンライジングから巣立った者が、この地を故郷とすることは、その郷土の人々とヒューマンライジング・ファミリーの若者たちが同じ思いで故郷の地を紡ぐのである』
龍太たちのヒューマンライジングの家は、廃業したホテルをペンキや太郎たちが改装したものだった。
宿舎のドアを開け二人は飛び込んだ。が、大きな垂れ幕が目に留まった。
「おかえりなさい 明 龍太」と書いてある。
ふたりは目を見合わせていると突然、ヒューマンライジング・ファミリーのみんなが現れ、おかえりなさい、と大きな声で出迎えた。
おかえりなさい。
二人はキョトンとし、状況が飲み込めない。
そこへ美玖ちゃんが、ごめんなさい。と謝ってきた。
謝る事なんかないよ、と菊ばぁちゃんの声がした。後ろから、おかえりの声。
振り返る明と龍太は、ばぁちゃんと思わず叫んだ。菊ばぁちゃんは、もう一度おかえりと言った。
具合は、病気は、と龍太が聞く。元気に決まっているだろ、と菊ばぁちゃんの懐かしい笑顔。
えぇ? また二人は顔を見合わせた。
私はねぇ、ピンシャンコロリなんだから、そろそろ逢っておかないとお前達が外国から戻って来る頃には、間に合わないんだよ、笑っている。
なんだぁ、と腰が抜けてしまった二人。
自分達が長い間、顔を出さなかったことを反省する明と龍太だった。
美玖ちゃんがごめんなさい、とまた謝ってきた。
いいよ、僕たちが悪いんだよ、と龍太が言い、美玖ちゃんが謝ることじゃない、と明も言った。
そして二人は、菊ばぁちゃんにごめんなさい、謝りながら胸を撫で下ろしていたとき、サングラスをした老人が子供に手を引っ張られ近づいてきて、明と龍太におかえりと声をかける。それは一郎じいちゃんだった。
じいちゃん、どうしたのサングラスしてと訊ねる明に、あぁ、ちょっと目を悪くしてな、と答える一郎じいちゃん。
一郎じいちゃんは緑内障なのと美玖ちゃん、一郎じいちゃんの目は、すでに視力を失っていた。
明と龍太は、愕然とするが本人は然程、気にしていないように見えた。
視力は失ってしまったが、生活に不自由することは無かった。
手をとっていた子供は、武志という子で、今は一郎じいちゃんの部屋で一緒に暮らしている。
一郎じいちゃんの目となり、甲斐甲斐しく世話をしていた。
美土里おばちゃんも食事などの世話をしている。一郎じいちゃんが普段の生活に困ることはなかったが、ボクシングを見てやることが、出来なくなったことを悔しがり、この目が見えればなぁと、時々呟いていた。
明と龍太を祝う宴の準備を、皆がいそいそと行っている。
村の人々も徐々に集まり、いつものように豪勢なご馳走が並べられ、菊ばぁちゃんの肉じゃがも添えられている。
そして、美玖ちゃんと真美のヴァイオリンで、祝いの祭りは始まった。
明と龍太のグラスには、大勢の人たちから祝福のビールが注がれ、二人は、来る人と来る人に挨拶をする。
挨拶を終えた龍太は、ヴァイオリンを手に取って壇上に上がり、宴を楽しむ人たちに優しくアルビノーニのアダージョを弾きはじめ、数曲を演奏して、最後にパガニーニ24カプリースを披露した。
龍太のヴァイオリンは、一音の音階も逃さず、故郷、美波町の山々に甘い香りの音色を響き渡らせた。
美土里おばちゃんは、一郎じいちゃんに刺身を食べさせている。
船盛りにした鯛、ヒラメ、マグロ、イカ、鰯、伊勢えび、鮑、サザエなどの新鮮な刺身が盛られていた。
龍太のヴァイオリンを聞きながら、一郎じいちゃんが、今のは鰯かと聞く。
そうよ。と美土里おばちゃん。今度は鯛よ。と言って口の中へ運んだ。鰯もうまいが鯛には適わねぇなと言った瞬間、一郎じいちゃんはハッとした。
そうだ、ここを出る前の龍太のヴァイオリンは鰯だった。
今は鯛になっていることに気がついた一郎じいちゃん。
その音色は、ヴァイオリンを知らない者でも心を震わせる響きがあった。
演奏を終えた龍太は明と、いつものヒューマンライジングの家を懐かしみ楽しんだ。美玖ちゃんと真美との昔話しに花が咲き盛り上がる明と龍太。
美玖ちゃんはヴァイオリニストになり、鈴木先生が教えている音大を卒業後、オーケストラの一員として、鈴木先生と共に全国を飛び廻っていた。
真美も今年、大学院を卒業してヴァイオリニストとして美玖ちゃんのオーケストラに在籍することになっていた。
相変わらず美玖ちゃんから離れられない真美を見て、仲の良い姉妹だなと龍太は思った。
楽しき宴も終りの刻を告げ、村人たちは家路に帰り、静かな夜を迎えるヒューマンライジングの家。
明は、その夜、一郎じいちゃんの部屋で武志と3人で過すことになった。
昔、自分が作ったお城や寺などが、そのまま残っていた。明は、それを手に取り苦笑いをしている。
武志は、ゴソゴソと鞄に下着や服などを詰め込んでいる。
旅行にでも行くのか、と明が聞く。うん。あしたフィリピンに行くんだ。
そうかフィリピンか。武志ぐらいの頃、フィリピンに行ったこと思いだしている明。
フィリピン初日の2日間は、セブ島でマリンスポーツなどを楽しみ、夜は、ステーキやロブスターなどのご馳走を口一杯にした。
3日目はマニラにあるスラム街を貧困層の家々を訪ね、生活必需品などの配るボランティアをして廻った記憶が蘇える。
子供たちは、少なからずカルチャーショックに陥るが自分自身を見つめることが出来た。
『ヒューマンライジングでは、子供たちに世の中には天国と地獄があることを見せて教える。
世の中の、美しい物も汚い物を包み隠さずに見せる。
自分がどれ程、恵まれて生きているのか、を諭させる。自分には、人生の可能性がどれ程あるのか、を問わせる。
なぜ、この世に生まれたか、何をするために生きているのかを考えさせ、魂を宿した人間に育てる。
そして、一芸の特技によって人生が支えられる人間にと育成している。
魂の声を響かせる教育として、陽明学思想を取り入れている。
人生の傍観者ではなく、知行合一を持って世の人の役にたつ人間になれ、を生と死が混在するこの施設、ヒューマンライジングで行っている。
先人の知恵と、生と死を愛しむ心が子供たちをスクスクと育てた。
ときに陽明学を正しく理解しなければ、大塩平八郎の乱の如く、民を不幸にする。
大塩平八郎は陽明学徒であったが、その知識は浅く間違った知行合一と言えた。
知るとは、それを行うためのものであるが、そこには致良知がなければ人を不幸にする。
陽明学は奥深く、全てを理解しなければ危険思想になりかねない。
日本で陽明学を正しく使いこなしたのは、山田方谷であると思われる』
翌朝、明は、武志にフィリピンをよく見てきなさい、と言って見送る。
武志は、うん、行ってきまーすと、元気な声で手を振った。
明は、大きなプロジェクトを、ほぼ終えようとしていた。
暫らくは、一郎じいちゃんの傍にと居ようと仕事の段取りを社員に指示し、故郷ヒューマンライジングに滞在することにした。
龍太は、次の演奏会が一週間後になっている、5日後にはスイスに居なければならなかった。
数日間ではあったが、美波町の海や、山など昔よく遊んだ思い出の地を巡りながら、幼き頃を回想している明と美玖と龍太。
美玖ちゃん、まだ結婚はしないの、と龍太は不意に聞いてしまった。だって相手がいないだもん、恥じらいながら答える美玖。
龍太が淡い恋心を抱いた愛らしい美玖ちゃんは、芯のある毅然とした美しい女性になっていた。
海辺を歩いていた龍太は、幼き頃に淡い恋心を抱いたことを美玖ちゃんに告げていた。
少し頬を赤らめながら私もよ、と答える美玖、夕日に照らされた龍太の顔は、徐々に赤く染まっていった。
そしてスイスへ向う日が来た。
ヒューマンライジングの皆が見送りに来て、毎年、帰って顔を見せろよと誰かが言ったとき、龍太は口を開いた。
みんなに報告がありますと大きな声で言った。
「僕は、美玖ちゃんと結婚します」
その手は美玖の手をしっかりと握っていた。
皆、理解するまで、しーんと静まり返った。だが次の瞬間、拍手喝采が沸き起こった。
祝福を受けた龍太は、菊ばぁちゃんに別れの挨拶をして、スイスへと向った。
龍太は、海外の遠征が残っており、日本に帰れるのは半年後になる。
結婚は、帰国後にした。
帰国後は、日本を拠点としてロックやポップスとクラシックをクロスオーバーさせた楽曲活動をすることにしていた。
海外への演奏は自分が目指す、音楽のオファーだけにした龍太。
そして菊ばぁちゃんのもとに帰り、ヒューマンライジング・ファミリーの皆と暮らしていこうと決意していた。
スイス、イタリア、フランス、ドイツの諸国を巡り、全てのスケジュールを終えた龍太、ヒューマンライジングの家に帰る帰国の準備をしていたとき、ルルル、ルルルと電話が鳴った。
美玖ちゃんだ、と龍太。
もしもし、が暫らく、無言が続く。
もう一度、もしもし、と龍太が言ったと同時に、龍ちゃん~と振り絞るような声。
「き、きく、菊ばぁちゃんが今、たったいま亡くなったの」
え、何がと聞き返す龍太、話がのみこめない。
龍太は、もう一度聞きなおしながら、菊ばぁちゃんの笑顔をうかべていた。
立っている足に力が入っているのか、入っていないのか、自分でもわからない龍太。
美玖ちゃんは、龍太の傍から離れられない。力ない龍太を一人に出来ない、明も側にいる。
龍太は葬儀に参列し、呆然と立っていた。
空は真っ青だった。
幼き頃の母、あの日と一緒だと龍太は、空を仰ぎ、母の面影と、菊ばぁちゃんの笑顔を想い浮かべている。
わたしを見送くるときは、シンドラーのリストだよ。と、時折、龍太に言っていた菊ばぁちゃん。
いまにも倒れそうな龍太は、菊ばぁちゃんが大好きだったシンドラーのリストをいま、弾いている。
その音色は、泣き、叫んでいた。
そして、菊ばぁちゃんを見送った。
一郎じいちゃんが、漢詩を口にして菊ばぁちゃんを見送った。
「咲くを花と云わず、散るを花」と言う。
ばぁちゃん~と大声で叫ぶ龍太、その声は山々に木魂し皆をも涙にした。
ピンシャンコロリを呪文のように言っていた菊ばぁちゃんは、それを実行した。
死が訪れる瞬間まで、元気に子供たちに書を教えていた。
一瞬の内に訪れた、死だった。
いく月日が過ぎ、龍太は美玖ちゃんと結婚する日を迎えた。
結婚式場は、もちろんヒューマンライジングだった。
そして、所縁のある鈴木先生など、龍太や美玖ちゃんを祝う人々が集まっていた。
龍太の海外の友人たちや音楽仲間も大勢、祝福に来ている。
鈴木先生の指揮のもと、世界で活躍する音楽仲間たちの演奏により、よろこびの歌~第九へ、とメロディーは流れ大演奏で結婚式は始まった。
龍太の隣席には、菊ばぁちゃんの満面の笑みの遺影があり、テーブルのご馳走には菊ばぁちゃんの肉じゃがも添えられていた。
FIN
この物語は、全てフィクションであり実在する人物、団体、施設、学校、地域、映像等とは一切、関係ありません。尚、you tube映像はイメージをお伝えするためのものです。




