鴎とキワコ
ジョンは苛立っていた。日本のヒトキリは、何時からこのような腑抜けになった。目の前の男が、彼の、日本で最も冷徹なヒトキリと名高いセイノスケ・カラキだとは。
「……見損ないました」
ジョンの言葉に、カラキは微笑みを浮かべた。
「難しい言葉を使うのだな」
カラキは直ぐに笑みを引っ込めた。
「気が済んだのなら、帰れ」
ジョンは、英吉利から日本にやって来た。物心ついた時には、ジョンは既に日本にいた。両親は貿易の仕事に就いていたが、ジョンが成人するかしないか位の時期に海で死んだ。後には日本式の広い屋敷が残った。ジョンは英吉利に帰還することも出来なくて、独りで生きることになった。ジョンは両親の勧めで日本の剣術を習っていたが、そんなものは何の役にも立たなかった。ジョンは両親を恨んだ。剣術で強くなって人を守るようにと説いていた母は、呆気なく海に飲まれた。ジョンは剣術で人を守ることはできないのだと悟った。そういう高尚な話を別にしても、食っていくのに役立たずの能力を持て余したジョンは、両親の残した屋敷を売り払って旅立った。旅の途中、剣術で人を守る「用心棒」なる者達にも出会ったが、剣術の虚しさに気づいたジョンにはただただ可笑しく滑稽なものに見えた。
若いジョンの眼に格好良く映り、心惹かれたのは矢張り人を剣で殺めることを生業とする者達であった。明治に入り、時が流れ、正当な仇討すら罪とされるようになった今、彼らの居場所は闇の奥深い処だけとなっていた。
時代の波に飲まれながらも細々と生きる彼らがまことしやかに伝えることには、
「瀧羽に人斬り正之助在り。彼奴こそ日の本一の冷血漢也」云々。其の触れ込みは青年の心を大いに動かした。瀧羽は当時――つまり明治初期の日本の国において、三本の指に入る、洋風化した近代都市であった。だがそんな町に、前時代の遺物とも言うべき男が棲んでいる、との風の噂だけを頼りに、ジョンは此処にやって来たのである。
セイノスケ・カラキを見つけるのは難しくはなかった。街で用心棒稼業に勤しむ者達に訊いてみるだけですぐ行方が知れたし、聞けば律儀に表札を出しているという。
ちょっとしたことですぐにその気になってしまうジョンは、神の導きに大いに喜び感謝した。
両親を失った時、剣術への信仰は行き場を失ったが、ジョンは未だ神を信じていた。
神が自分とカラキを引き合わせた。
そう信じて疑わなかったジョンは、カラキを目の前にして心がみるみる萎むのを止められなかった。
「俺は人斬りを辞めた男だが」
そんな俺に用はないのだろう?
「何と……仰った」
「聞こえなかったのか? 俺は人斬りを辞めた」
カラキは眉を上げた。
「何故です」
「何故だろうな」
「貴方は、人を殺めることなく生きられるのか」
「そうかもしれぬ」
生きるために殺していただけなのだから。
殺すために生きているのではないのだから――。
「今は、しがない用心棒見習いだ」
「貴方は、人を殺めてきたその手で、人を守ると仰るのか」
「……お前はどうなんだ」
ジョンは、人を守ろうと、母を守ろうと振ってきた剣で――
「五月蠅い!」
何時の間にか握りしめていた拳がぶるぶると震えている。
「帰れ」
ジョンは憤った。
あの男が守る者を、消し去らねば気がすまぬ。
ジョンは人を殺めたことはなかったが、人を守るためなら他の者を殺めることは厭わないつもりであった。そういう心づもりは常にしていた。
けれど両親が死に、世界は暗転した。剣は、食うには役立たずの金属の塊と化した。それでもこの国で剣を振るうヒトキリ達は、純粋に、殺すために生きているように見えた。それは即ち神のようだったのだ。
生きるために、殺すことさえ堕落に思えた。
しかしあの男は生きるために、生かすという。朱く染まった、薄汚れた体で、守るという。
虫のいい話だと、思った。
心地良い微睡みの中、希和子は女中の声を聞いた気がした。
「お嬢様」
ふわふわと意識が浮上する感覚。肘掛け椅子の上で身じろぎし、重たい瞼を持ち上げるも、視界はぼうと靄が掛かったよう。
「お嬢様!」
「……」
「こんなところでお休みになっては、お体に障ります、お嬢様」
何度か瞬いて、ようやっと世界が鮮明になる。
「あら、起こしてくれて有難う、房江」
希和子はにっこりと笑って言った。
「そろそろお稽古のお時間ですもの」
「そうね」
「正之助様は、もうお見えになっていて?」
「せいのすけ……嗚呼、あの用心棒」
「ええ。正之助様がおいでにならなければ、わたくし出歩くことが出来ないわ」
女中は少し顔をしかめた。
「あのような下々の者を、正之助様などと呼ぶことはございませんわ、お嬢様」
「まあ、あの方はわたくしの為に命を張って下さっているというのに」
今度は希和子が顔をしかめた。
「貴女の為ではなく、彼自身の日銭の為でしょう」
「そんなことはないわ。あの方はおやさしい方よ、とても」
――と、希和子の部屋の扉を叩く音がした。
「はい」
「お嬢様、お茶のお稽古に参りましょう。迎えが来ております」
別の女中の声が響く。
「はい、今参ります」
カラキと共に現れた女を見た時、ジョンの野望は切り裂かれた。其れは日本人の若い女であった。どう見ても世間の裏道を歩く女ではない。寧ろその逆だ。その女は眩しかった。闇を照らす女神のように、女は微笑んでいた。
此の女を、殺すのか?
己がカラキへ一矢報いる為に、此の女を。
それはおかしいではないか。
死ぬべきなのは、カラキだ。
死にたいのは、おれのほうだ。
「長生先生! 大変です! 唐木さんが!」
「唐木君だと?」
長生は思わず立ち上がった。彼――唐木は、人を斬る事を生業としていた男だ。今だって用心棒稼業に身を投じている。命に関わる事態が生じたとて、驚くには値しない。
長生は唐木とはつかず離れずの付き合いを続ける友人であった。唐木の身の上を知った上で、友人と断言してきた。
「唐木君に何かあったのか」
「碧い眼のひとがっ、唐木さんを――」
斬ったの。
「先生、助けて下さい」
長生は医者である。それは、唐木が人斬りであったことと、今用心棒であることと同じ位に真実であろう。
駆けつけてみれば、唐木は斬りつけられていたが、軽傷であった。
碧い眼の男は銃弾を撃ち込まれていた。何発も、四方から。
「警察が撃ったのか? 否、奴らが唐木を助けるはずは――」
ふと、視線を感じて長生は顔を上げた。目線がかち合う。
「希和子、さんと仰いましたか」
唐木が用心棒を務める、良家のご令嬢だ。
「先生」
「正之助様を助けて下さい」
「ええ、勿論です」
そう言うと、女は花が咲くように笑った。
「貴女は、唐木以外の人間も雇っていたのですか?」
希和子は何も答えない。