監視員の男
私は漆黒の闇の中にひとり佇んでいる。
右も左も見えない。天も地も同じ真っ暗闇だ。
そんな中で、私は何かに怯えてひとりで立ち尽くしていた。
するとそのうち前方に、ぼうっと仄かな光が見えてきた。
不吉な予感がする。
焦りと不安が冷や汗となって首筋を濡らした。
「…?」
私は目を凝らした。
光の正体はどうやら3人くらいの人影のようだ。
「!」
見たことのある後ろ姿。頑丈そうな肩幅の広い男と、少し背の低い丸っこい体型の女。そしてその2人に挟まれている、小学校中学年くらいの男の子。
…間違いない、私の家族だ。
「…‼︎」
家族の名を叫ぼうとしたが声が出ない。追いかけようとしたが脚が動かない。
硬直している私を背に、3人はゆっくりと歩き続け、私から離れていく。
行かないで 私だけ置いていかないで
心の中で叫んだ。
私は手を伸ばした。3人を引き止めるために。
手を伸ばす。
足先に力がこもる。
3人の影をつかむように掌を広げる。
喉が何かに締め付けられているようだ。呼吸さえうまくできない。
3人を引き止めようとすればするほど、祖母を守ろうとすればするほど私だけがどんどん辛く苦しくなっていく。
誰も助けてくれない。
当本人の認知症の祖母も。
誰も私を支えてくれない。
誰も私を助けようとしない。
「虚無」という文字が脳裏に浮かぶ。
必死に喘ぎながら、私は手を伸ばし続けた。
もう限界。
最後の力を振り絞り、彼らをつかむように掌を握る。
__届かない…
地に膝をついて呼吸を荒げる私を振り返りもせず、3人は歩いて行った。
その後ろ姿は、まるで正義のヒーローのように堂々としていた。
ヒーローに敗れた私は、地に膝をついたまま彼らを見つめた。
しかし、憎しみは湧いてこなかった。
もう抵抗する力も残っていなかった。
もういいや、と思った瞬間、私の体は一気に軽くなった。
はっ、と我に返るとそこは虚無感の漂う暗闇ではなく、私は管理局の中庭に立っていた。
そう、私たちはここで監視員が来るのを待っていたのだった。
しかし、さっきここに来た時とは何かが違う。私の中で何かが変わっている。
私は不思議なほど落ち着いていた。よくわからない達成感も感じた。
「私たち、今までよく頑張ったよね」
聞き捨てならない母の言葉も、なんだか聞き流せた。
「ちょっと、聞いてるの?さっきからおかしいわよ?」
母に心配され、私はここに来て初めて顔を上げた。
…と、私たちの前には見知らぬ男が立っている。それも太陽のような営業スマイル付きで。
私は自分の手が冷たくなっていくのを感じた。
いつの間に現れたのだろう、この男は。管理局の制服を着、バッジを付けていることから監視員の1人には違いないが、月光を背にニコニコとしている彼は、なんというか場違いで不気味に思えた。
「俺たち、今までよく頑張って母さんの面倒を見てきたんだ。母さんも、そのおかげで十分すぎるほど生きられて幸せだったと思う。きっとそろそろ潮時なんだよ、お互い」
父の話は支離滅裂な上意味がわからない。私が黙っている間も、父と母と弟は私を見つめ続け、不気味な監視員は相変わらず人の良さそうな微笑を浮かべている。
私は最後に祖母を見た。認知症で、数年前から私のことがわからなくなった祖母。何回か殴られた事もある。
その度に、「管理局に連れて行こう」と家族は話していた。しかし、私はそれを許さなかった。
「おばあちゃんは家族だから」と主張し続けた。
…でも、家族だからなんなんだろう。この荒廃した世の中では、家族とか縁とか人情とかにすがるものは弱者とされているのだ。
弱者はそのようなものにすがればすがるほど孤立し、虚しくなっていく。
そうして強者に踏みつけられ、捨てられるのだ。
私は疲れ果てていた。大切なものを守ろうとすればするほど虚しくなり、孤立し、踏みつけにされた。
そう、この社会で楽に生きていくためには、弱者を踏みつけにすることが絶対条件なのだ。
これ以上何かにすがるのは嫌だ。なんでもいいから楽に生きていければいい。
私は、これ以上踏みつけにされたくない。
覚悟が決まった私は、監視員に「もういいです」と言った。
安堵の表情を浮かべる家族。
「わかりました」と監視員は言い、私たちは祖母とともに管理局の中に入った。
私は、最後まで祖母に何も言わなかった。祖母も何も言わないまま、天使の微笑みを浮かべていた。
祖母を管理局に残し、私たちは中庭に戻った。
「よろしくお願いしますね」と母が男に言う。
「もちろんです」
男は営業スマイルで答えた。
母と父と弟が歩き出しても、私は止まっていた。
いろいろな感情が生まれては消え、目まぐるしく交錯した。その感情を処理できないまま私は夜の中庭に立っていた。
「もういいや、なんでもいいから楽に生きたい、って思ったんだろ?」
ぎょっとして振り返ると、あの不気味な監視員が立っている。ニコニコと笑いながら。
周囲の空気が一瞬にして凍った。
「…なんでわかったんですか」
「顔に書いてあるよ。もう疲れたって」
人を見透かすような瞳で男は冷ややかに言い放った。
「最近多いんだよな、「疲れたから」とか言って死に損ない連れてくる奴。お前達も同じだ。
自分可愛さで厄介な家族を捨てたんだろ?」
男の笑みが嘲笑に変わった。
「そういうのってさ、家族って言えないよな。「組織」にしたほうがいいんじゃねえの?」
男の目が暗闇にきらりと光る。
「…失礼します」
私は怖くなって駆け出した。
それから家に帰るまでのことは覚えていない。が、いつまでたっても男の低い声と嘲るような笑みが心に焼きついて離れなかった。
私は、その時は男が何者であるのかも、どのような目的で監視員の仕事をしているのかも知らなかった。
しかし、あの声と表情は消えることなく私の中に留まり続け、思い出すたびに私を不安にさせた。
2089年12月8日。
私たちはこうしておばあちゃんを捨てた。