紅い満月の夜
赤、朱、紅――世界がその一色に染まる夜、忽然と人が一人消えるという。
そんな噂が、この常識も秩序もない無法地帯な世界"歪世界"に広がっていた。
その噂がいつからされていたのかすらわからぬ程、古い噂である。
弱者が消える分には、誰もが殺されたんだな、と気にもとめなかった。なぜなら、ここは弱肉強食の世界。弱者は食われ、強者だけが生き残ることができる。
人一人消えるなど、日常茶飯事のこの世界にそんな噂が広がった理由は、誰にも負けず、誰からも怖れられた人物が、忽然と姿を消してしまったからである。
その者は毎日毎日無差別に人を殺し、生きてきた。その者を見ない日などなかった。
しかし、鮮血のように綺麗な赤色に染まった満月の後から、誰一人として姿を見ることはなかったという。その強者を殺した者がいたとすれば、自慢するだろう。
俺は最強を殺した、今日から俺が最強だ、と。
その出来事があってから、紅い満月が来るたびに、人々は噂した。
今回は誰が消えるのだろうか、と。自分は消えたくない、と。
人を殺すことに快楽を得ている人々は、紅い満月の夜だけ、その身を震わせ静かに過ごしていた。得体のしれないものに、彼らは恐怖していた。
◆
そんな世界に生きる少年が一人。
どんな強者でもその身を震わせる紅い満月の夜。その少年――四之宮 虚兎は荒れ果てた街中を、音一つ立てずに歩いていた。
兎耳フード付きの黒いパーカーを着こみ、下は白い短パンを履いている。その短パンから覗く足は、短パンに負けない程白くて……。
そんな可愛い恰好をした彼はまだ15歳と幼かったが、その身に纏う雰囲気は、冷たく触れた物を傷つけるような鋭さを持っていた。腰に差した一本のナイフをゆらゆらと揺らし歩く彼を、紅い満月に恐怖し物陰に身を潜めている人々は、ジッと見つめていた。
「……おい、あれ」
その中の、黒いフードを深々と被った男が、彼を指さし呟いた。
「――虚ろな兎、じゃねーか?」
"虚ろな兎"
それは、この歪世界で名を馳せている三人の強者の内の一人の通り名だった。
その容姿は幼く華奢で、誰もが弱者だと思い込む。しかし襲ってみれば、どんな雑魚でも、どんな強者でも返り討ちにされ敵わなかったという。
死んでいく者が最期に見るのは、その少年の虚ろな瞳。
そのことと、兎耳パーカーを着ているということで、虚ろな兎と命名されたそうだ。そして名前を持たなかった彼は、四之宮という自分が生まれた地域の名と、虚ろな兎というところから文字をとり、四之宮 虚兎という名前を作ったのだという。
ボソボソと虚兎を見つめ会話する人々など気にも留めず、彼は目的などなく足を動かしていた。特定した居場所など彼にはない。というより、この世界の人々皆特定の居場所を持たない。持とうと思っても、持つことなど不可能なのだ。
ふと足を止め、空を見上げる虚兎。フードの影になって見えない瞳は、今も虚ろなのか。そんなこと、誰にもわからない。彼自身さえも。
夜空を見上げ動作を止めた彼だったが、数分すると、街中に大きな騒音が鳴り響き始めた。
それは聞いた誰もが耳を痛めるような、耳障りな音。それは、この世界で午前零時を知らせる為のもの。
数回その音鳴った後、突然歩みを止めていた虚兎の足元が輝きだした。
不意の出来事にゆっくりと足元に視線を落とした彼の目には、光りを放つ不可思議な幾何学模様が映りこんできた。それは円を描き直径1m程の大きさまで展開する。
それを物陰から見ていた人々はざわめく。そして、より一層光が強くなった。
誰もがその見たこともない程の眩しさに目を瞑り、得体のしれぬ恐怖を覚えた。目を焼くその光が収まり、その場に闇が戻った時、人々は恐る恐る瞼を開いた。
「――あれ?」
首を傾げる人々。
「……消え、た…?」
だんだんと驚愕の色を見せ始めた人々の瞳は、ある一点を見つめていた。
そこは、唐突に光が出現した場所。そこは、今まで彼が立っていた場所。
――そう。ほんの僅かな時間目を伏せていた人々の前から、彼、虚兎は忽然と姿を消していた。
まるで、光に呑みこまれ消滅してしまったかのように。
自分たちの目の前で起こったことが、信じられなかった。これは夢だという者、ただ虚ろな兎は、次の場所へと行っただけだと思う者、噂は本当だったのだと恐怖に怯える者。
多種多様思うところが、人々にはあった。
ただ一つ言えることは、
それ以来、虚ろな兎の姿を見た者はいなかった――ということだけ。