灰色の世界
乾ききった大地に男の咆哮が響き渡る。声の勇ましさとは裏腹に、内容はといえば「帰りたい」「騙された」「あの昆虫男め」などと情けないものであった。
見渡す限り目に付くものといえば、時折生える肉厚の植物くらいだ。年老いた労働者のようにひび割れた地面に膝から崩れると、流央は首を振る。大声を出せば魔物に気付かれるかもしれない。ここはそういう世界なのだ。今も灰色の空を濃色の怪鳥が飛んでいる。流央は知らなかったが、これも肉食の血気盛んな生き物だった。その生き物に見つからなかった『ツイている』人間だとは知らない流央は、乾ききった口を開け、ひりつく喉に咳き込んだ。目が日焼けすると知ったのも初めてだった。
流央が目指すのは北。ひたすら北に向かえ、という言葉と筋張った指で方角を指されたのみで家から追い出された。追い出した男の弟子の、同情の目線付きで、だ。なぜ北に行くのか。魔女がいるからだという。なぜ会うのか。それは会えば分かるという。メウェストという魔女が北の沼地に住んでいる。そこに会いに行くのだ。ベルンハルトの反応を見てメウェストがどんな人物なのか、流央は不安を感じたが、頑張ると覚悟を決めた直後に萎えていては先に進めない。一つ大きく息を吐き出すと、また乾燥する大地を歩き出した。
少し行くと赤紫の薄汚れた肌をした、奇妙な小男が立っているのに気づいた。背中に醜いコブがあり、そのせいで前かがみに曲がっている。逆立って伸びたタワシのような灰色の髪は生まれてこのかた一度も洗ったことがないに違いない。薄い腰巻一つで立ち、キョロキョロと辺りを窺う目が流央を捉える。とうとう出くわした、と流央は唾を飲み込んだ。
デマオ、という異種族である、と事前にバルッケルから聞かされていた。人間を見れば襲いかかってきて会話は通じない。要するにモンスターだ。一匹なら見回りの小兵だ。だから少し脅せば逃げていく。数匹だと途端に気が大きくなる。走って逃げろ、という指示だった。今は一匹。強気の姿勢が必要だった。
(戦う上で一番重要なのは最初、出会った瞬間だ。そこからすでに技量の探り合いが始まる)
バルッケルの言葉を思い出しながら流央は胸を張り、さも一流の傭兵であるかのように目線を鋭くした。腰の剣柄に手を伸ばす。少々慣れない手つきが柄を掴むまでの時間に現れていたが、そんなことは想定内である、という顔を続ける。心臓は割れんばかりだし、手には汗が滴るほどだった。
(必ず先手を取れ。自分のペースである、と相手の頭に叩き込め。怯んだら負けだ。親の仇だと思い込め)
一声吼えた。しかし夢中で流央本人には聞こえなかった。ひっかりながらも腕の長さの長剣を引き抜くと走り出す。必死さを闘気と勘違いした若いデマオは、嬉しいほど狙った動きをしてくれた。つまり踵を返し逃亡を始めたのだ。ギ、ギ、と耳障りな音を喚きながら去っていくデマオをしばらく追いかけてから、流央は立ち止まった。心臓は未だ激しい鼓動を続けているが、気持ちは落ち着いていた。
「やった、やったぞ!」
小声で初めての勝利を噛み締めた。その直後だった。
「嘘だろ」
響いてくる数人の足音と、姿を見せつつある集団にひっくり返りそうになる。
「ギオッギオッ!」
人間とは違う声帯から放たれる不愉快な声と土けむり。デマオの集団である。集団と言っても四匹で形成されたものだったが、流央には一軍隊にも思えた。踵を返すのは流央になった。
「絶対、元の世界に戻ってやる!」
涙目で叫ぶ男の足は、かくも早かった。
◆◇◆◇◆
めでたく現在地も方向もわからなくなった男は、覚えのある目印を探していた。まるでワープゾーンに入ったかのように同じ景色が続く中、目的の物を見つけると流央はほっと胸をなでおろす。デマオと遭遇する前に目に付いていた一本の木だった。遠目から見たシルエットが胸を強調するポーズを取る女性に見えたのだ。ぼんやりと「おっぱいの木」と名付けていたものである。
「よかった……。で、逃げた方向が多分こっちになって、だからこっちに向かう、はず」
ブツブツ言いながらまた歩き出す。デマオ達の姿は既にない。しかし長居はしない方が良さそうだ。
「あ、これ」
流央はポツンと転がるメダルを拾い上げた。麻ヒモを染色し、編んだ飾りが垂れ下がるメダルは、出発寸前にベルンハルトから「エレナからです」と言われて受け取ったものだった。これが何なのかも説明されないまま追い出されてしまったが、エレナからだというなら悪い気はしない。
「とは言っても、速攻落としたなんてバレたら怒られそう」
息を吹きかけ、メダルについた土埃を払う。手でもう一度綺麗にすると腰紐にくくりつけた。こんなもの一つ付けただけでも旅びと然とした見た目に変わる気がして流央は満足した。
新米の旅びとは沼地を目指してまた歩く。
「腹減ったなあ」
追い出されたのは朝食の後だった。それに気候の激しさに気を取られて気づかなかったが、だいぶ空腹を感じていた。自分の住んでいた町は都心に比べれば田舎だと嘆いていたものだったが、自転車を使えば十分でコンビニまで行けた。ファミレスも和食とハンバーグ屋が選べた。もう少し先に足を伸ばせば回転寿司もあった。見晴らす限りの乾燥地帯に、流央はまた気が滅入ってくる。
しかし、すぐに気持ちが切り替わる。行く先の地面の色が変わりつつあるのだ。目をこらすと向こうは生える植物もワサワサと葉が多い茂るものに変化していた。そして思い出す。自分が目指すものを。
「沼地の魔女、そうだ、沼地……」
乾燥地帯から湿地帯へ近づきつつあるということだ。湿り気のある地面を確かめるように流央は足で蹴ってみた。ざらりとした感触だったものが、重い、粘土質なものに変わっている。
「沼地の魔女かあ、美人だといいな。やっぱり魔女だから婆さんかなあ」
そのつぶやきの後半は、奇妙な鳴き声にかき消される。上から聞こえた「グアグア」という声に流央は空を見上げた。陰鬱な灰色だというのにやけに日差しが強い空を、一羽の鳥が飛んでいた。何度か見かけた巨大鳥ではない。鴨ぐらいの可愛げのある大きさだった。一度は流央の頭の上を通り過ぎていったが、旋回して戻ってくる。そしてバタバタと不恰好な動きを見せながら舞い降りてきた。
足元にいる一匹の鳥に流央は警戒のポーズを取る。どう見てもアヒルだ。真っ白な羽毛に覆われてクチバシは幅広、そして黄色い。頭頂部の毛だけが七色に染まっている。飼い主か何かの趣味だろうか。可愛らしいといえば可愛らしいが、知らない生き物である。警戒して損はない。
身構えるままの流央を首を傾げながら見つめた後、アヒルは歩き出す。流央の進む先である。そして数歩行けば振り返り、また数歩行けば振り返る。
「ついてこい、ってやつだよなあ、これ」
流央は頭をかいた。迷うがたった今、進行方向にしていた方角であることだし、相手はアヒルなのだ。流央はその可愛いお尻を追いかけることにした。