茜色の視界
翌日、流央は部屋に引き篭もることにした。与えられた部屋、ギイギイとうるさいベッドに寝転がっての篭城だ。皆が困ればいい、そんな苛立ちからの行動だったが、暇を潰す本も携帯も無い。その状況は置かれた現状と今後を嫌でも考えさせ、また自分の行動の幼稚さに鬱々とした気分になっただけだった。
何度か寝入ったり起きたりを繰り返していると、窓からの日差しが茜色になっているのに気がついた。
「腹減ったな……」
そう独り言を呟いてみる。演技掛かった声に聞こえて憂鬱さが加速した。空腹だけでなく喉の渇きも限界だった。
気不味さもあり、音を立てない仕草で部屋を出る。廊下を歩くが意識的に鏡へ目を向けないようにしてしまった。
食卓のある部屋に顔を出すと、本を読んでいたベルンハルトが顔を上げる。少し目を見開いた彼に後ろめたさから心臓が跳ね上がる。
「随分寝入ってたんですね。よっぽど疲れてました?」
ベルンハルトのこの一言で流央の篭城はわずか半日という短さで終わりを迎えた。笑顔で座るよう手招きし、パンを運んでくる青年を見て流央は思う。
この青年を「いけ好かない」と思った理由が今はっきりと分かった。美しいが男らしくもある顔に優雅な物腰。立ち振る舞いにも嫌味が無く愚鈍さも皆無だ。元いた世界では絶対に友達にはならない……いや『なれない』タイプだった。おまけに長身とくれば嫌でもコンプレックスが刺激される。
前に置かれたパンに手を伸ばしながらベルンハルトをちらりと見る。すると向こうもじっと顔を見てくる。
「……髭剃ります?」
言われてはっとし、顎を撫でる。体が跳ねる程ぎくりとしてしまった。ざらざらとした感触は元の体では考えられないぐらいにはっきりと伸びた髭を感じさせる。もちろん元の流央にも髭は生えていたが、まだ一週間に一回剃れば充分という程度のものだったのだ。
「あー……いいや、大丈夫」
髭を剃るには鏡に向かう必要がある。嫌でも見知らぬ顔を凝視するはめになるのだ。言葉を濁す流央にベルンハルトは軽く「そうですか」と流してくれる。その理解の早さにまた苛立ち、同時に申し訳なく思った。
「えーと、ベルンハルトは何してる人なの?」
機嫌が悪いと思われても気まずいので話しかけてみる。ベルンハルトは本を脇に置くと口を開いた。
「カルケディナ王国の騎士団にいました。今は引退して隠居……と言いたいところですけど、今も色々使われてますね」
あっさり答えるベルンハルトに少し意外だな、と思いつつ内容に驚く。
「そんなに若いのに引退しちゃったの?」
流央の方を向く美しい顔はどう見ても三十にも手の届かない若いものだ。ベルンハルトは苦笑交じりに頷いた。
「まあ私は元々、カルケディナに仕えるというよりバルッケルに仕える者ですから」
昆虫男の名前が出てきたことで流央は余計に驚く。ああ見えて国家の名前と同等に並ぶような人物だとでもいうのだろうか。
「バルッケルが表舞台から引っ込むことを望んだので、私もついて行く事になったわけです。今でも彼の助言を得にやって来る者も多いですよ」
「へえ、偉い人だったんだ」
そう呟きつつ思い出すのは、またしても姿の見えない少女の顔だった。
「あの、エルナは?どういう関係で一緒にいるの?」
「聞いていないんですか?」
意外、という顔をされても困る。昨晩はあれから「いかに今の流央は腑抜けの顔に見えるか」という話ししかされていない。
「何かすごいお金持ちみたいだけど」
「お金持ちというか……」
ベルンハルトが困ったように言葉を紡ぎ出そうとした時だった。
「起きたのかね」
ぎい、と木の扉が軋む音と共に入って来たのは昆虫男バルッケル。茜色の日差しが部屋に差し込み、消える。
「剣の稽古をつけてやろう」
「け、稽古?」
流央はその提案に眉を寄せ、バルッケルの手元を見て仰天する。両方の手に一本ずつ持ってる物はソードというものではないだろうか。革の鞘に包まれているが柄の部分を見るに真剣かもしれない。ゲームの説明書などでは見たことがあるが、間近に見るのは初めてだった。
「今のまま闘技場に参加するんじゃ死にに行くようなものだ。対戦相手だって奴隷解放を願って参加してる。やるかやられるか、だよ」
バルッケルの台詞にも流央は「は、はあ」という生返事しか出てこない。エルナからも「奴隷身分よ」と言われたものの、ここの環境がそう感じさせないからだ。しかしこのまま彼らの世話になり続けるわけにもいかないのだろう。現に『稽古を』と急かされているのだから。
「じゃあ……お手柔らかにお願いします」
のそのそとした動作で立ち上がると流央はバルッケルについて家を出る。夕日がやけに赤くて不気味だった。
渡されたソードの柄を持ち、鞘から抜いていく。それらをバルッケルの流れるような動作を見ながら真似していった。思ったとおり鋭い輝きを放つ鋼の塊が現れる。日の赤を反射する刀を見てごくり、と喉を鳴らした。真っ直ぐな刀身は流央の腕の長さ程だろうか。日本刀よりも太くて無骨だが、綺麗だ、と思う。
「剣を持つのは初めてかね?」
「あ、うん……そりゃあね。だって俺のいた国では違法だったし」
バルッケルの質問に答えるとにい、という笑みが返ってくる。
「いいことだ。羨ましく平和な世界なのだな」
それはちょっと違うかな、と考えている間にも目の前の男は軽い動作でソードを構え、流央を真っ直ぐ見ている。流央は慌てて剣先をバルッケルに向けた。
重い。両手で持ちバランスを取るので精一杯だ。鉄の塊なのだから当たり前だ。軽々と振り回して敵をバタバタとなぎ倒す勇者はここにはいない。
「どこからでもどうぞ」
バルッケルの言葉は『どうぞ』というより『早くしろ』と急かす雰囲気を色濃く感じる。流央は「ごめんなさい」と呟いていた。
「えーと……、やあああ」
情けない声と共にソードをぶつけていく。体を狙うよりも無意識に相手の剣を狙っていた。バルッケルに簡単に弾かれて寧ろほっとする。が、想像よりも重い衝撃が手首に掛かり、自分のソードに振り回されるようにたたら踏む。
「わー、ごめんごめん」
照れたようにバルッケルを見るが、何も言わずに剣先を突きつける姿があるだけだ。一気に止めたくなる。が、それを言う勇気もない。流央はもう一度ソードを握った。
「やー!」
先程より大きな声を上げてソードを振り回す。二度三度、剣をぶつけるがバルッケルはたやすくそれらを流していった。思った通り、バルッケルは剣の達人なのだろう。なら自分がいくら頑張ったところで彼に剣は当たらない。そう考えると次々にソードを弾かれる様が逆に面白くなってきた。腕の筋肉が許す限り、剣をぶつけていく。
澄んだ音がリズミカルに響きだしたところで『そろそろ褒めてくれたりしないものだろうか』などと考えてしまう。せめて「それは駄目、それは良い」などの判断も頂きたいのだが。とバルッケルの顔に目がいった時だった。
「……常々感じていたことだ。剣の扱いがある者、無い者の差は根本的に『ここ』にあると」
バルッケルの瞳孔がちろちろと不気味に動いた。流央は無意識に体を引く。
「あ……」
何か強い衝撃を体に受けたことは分かった。続いて肩から腹にかけての熱湯を浴びたような熱さ。痛みは無い。ただただ、熱い。
「傷を受けることへの過剰な恐怖。これが邪魔なのだよ」
バルッケルの声がくぐもって聞こえる。ぬるりとした感触に手を見ると赤い。体から流れ出る血飛沫を見ても現実とは思えなかった。痛みは無い、と思ったのだが急激にじりじりとした不快感に襲われる。恐怖するほどの痛みに侵食される。はあはあとした自分の息遣いしか聞こえなくなってくる。視界まで真っ赤に染まってきた。
薄れつつある意識の中、流央は思う。バルッケルの剣先が、腕が動いた様子は何も見えなかった。でも彼に切られたのだ。なぜなら彼の剣が赤い物を撒き散らす様だけは目で捉えてしまったのだから。
「さあ、これから一緒に足掻こうじゃないか」
その声を最後に流央の意識は完全に途絶えてしまった。