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現状に酔った後は未来に対する不安が襲ってくるものだ。漠然とした不安は涙を吹き飛ばす。夜風に涙をすっかり乾かされると、これからどうするかを考え出してしまう。
理想は元の世界に帰ること。その為にどうすればいいのか、その第一歩すら思い浮かばない。ゲームや小説では、世界を救ったら元の世界に帰れるはずなのに、この世界は危機にすらなっていないらしい。闘技場で対決したような化け物がいるのに、だ。この世界の人間はよほど腕っ節がいいらしい。似たような化け物一匹倒したら、元の世界に戻して貰えないだろうか?
遠くの方で何かの落下音がした。続けて乾いた地面を踏み締める足音。その方向に目を向けていると馬を下りてこちらに向かってくるエルナの姿があった。流央に真っすぐ歩いてくる彼女は美しく、勇ましい。銀の髪が風に流れている様を見て『戦乙女』という言葉を思い出していた。
「どっか行ってたの?」
無言のままなのも味気ないと流央が問うと、エルナはゆっくりと頷いた。
「貴方を『買い取る』手続きにちょっと、追われてたのよね」
まるでパンでも買ってきたような言い様に彼女が何を告げたのか飲み込めず、流央は固まる。
「……え?」
「今のままだと脱走中のお尋ね者のままだもの。動き回り難いわよ」
そう言われて初めて自分が奴隷の身分らしい、という事を思い出した。いきなり異世界から喚びだして奴隷身分とは。この世界の倫理観はちょっといただけない。
「えーっと、それで君が俺を『買い取って』くれたわけ?」
こんな少女に買い取れる程、自分の値段は安いのかとも思うが、流央の問いにエルナははっきりと頷いた。
「今まで初戦を勝ち進んで、しかも脱走するような個体はいなかったから……、所有が誰に有るのかはっきりしてなかったのよ。そこを突いて上手い事買い取って来てあげたの」
高圧的に感じないことも無い言い方だが、エルナに所有権が移ったと聞くと悪い気はしない。流央の顔を見続けるエルナは何か言葉を待っているように思えた。バルッケルといい彼女達は流央が何をするべきかまでは教えるつもりは無いように感じる。「ありがとう」とお礼を伝えた後、気になる事を全て聞いてみることにした。
「あのさ、奴隷とモンスターの戦いなんて見せ物はここじゃ当たり前なの? やるにしても何でわざわざ異世界から俺みたいなの連れてくるの? 酷いっていうか……非人道的みたいな声は上がらないのかな? あと『初戦を勝ち進んで』って言ったけど、それってあの巨人と戦った時の話しでしょ? 俺何もしてないんだけど……」
ここぞとばかりに口に出た疑問の数々を、エルナはうるさそうに手で制すと何かを呟き始める。聞き慣れない言語が響き、空気が震えた気がした。
「拘束する光、オーヴベルド」
エルナの言葉に反応したように光が現れる。電球があるわけでも火の元があるわけでもなく、宙に漂う握りこぶし大の光源に流央は目を見開いた。
「魔法だ……!」
「光の精霊よ。そんなに珍しい?」
「い、いや珍しいも何も……、俺のいた世界には魔法なんてものが無かった」
口を閉じるのも忘れて、食い入るように流央は漂う光を見つめ続ける。ゲームや映画の世界でしかあり得ないと思っていた力が、確かに存在している。其だけで感動から鳥肌が立った。
凝視を続ける流央を尻目にエルナは光に指先を近付け、何かを呟いた。瞬間、風に吹き消されるように光は存在を無くす。呆気に取られた後、流央はもったいない、という顔で少女を見た。
「元いた世界に帰ってもらったのよ」
エルナの方もじっと流央の顔を見つめてくる。どきりとするが、それよりも少女の言葉が脳を駆け巡る。上手く輪郭を捕らえられないが、確かに重要なヒントを投げかけられた、という感覚に流央は再び肌が泡立つ。
「帰すことが出来るってことだな? 喚び手は……喚んだ者を帰せるんだ」
流央の呻きにエルナは一つ一つ頷いていく。そして腕を撫でる少年の手を取った。
「貴方はどうしたい? リュオ」
リュウオだ、とどうでもいい反抗が頭に浮かぶがすぐにかき消す。
「帰りたい。元いた世界に戻りたいよ、俺は」
流央の擦れているが力強い返事を聞き、エルナは満足そうに頷く。少女に会って初めて『合格』の印を頂いた気がした。
「貴方を喚んだのはセストリオ帝国のお抱え魔導師ガスパーダ。彼に近付くのはとても困難だと思った方がいいわ」
「そいつが喚んだのに?」
エルナは流央の問いに頷く代わりに大きく息を吐く。どう説明するか迷うらしく長い睫毛が揺れている。
「使い捨てだから、普通はね。貴方の入れ物である『彼』が巨大モンスターを前に奮闘し、力つきるまでを楽しむショーをやってる場所が、貴方が初めてこの地に出現した闘技場。ガスパーダ自身は貴方に思い入れも何も無い」
「仕事だからやってる、って感じ?」
流央の軽い言い様がおかしかったのかエルナが小さく吹き出す。暗い話題だったが、少女の初めて見る笑顔が嬉しくなってしまい、流央は「なるべく軽い調子でいくようにしよう」と少年らしい目標を立てていた。
「そういうことよ。それにね、帝国内部に入り込むにしても、帝国まで行くにしても、まずは力をつけなきゃいけないわ。今のままじゃ一人になってこの台地を歩ける?」
エルナがそう言った瞬間、二人を闇が包み込む。月明かりを遮る巨大な影に気が付くと、流央は後ずさりした。
「ひ、飛行機?」
夜空を埋めつくすような大きさの羽翼に流央が喘ぐと、エルナは初めて聞く単語に不思議そうな顔をした後、首を振る。
「ガルーダね。大丈夫、空腹じゃ無い限り襲ってこないわ」
「空腹だったら?」
「抵抗しないと餌にされるわよ。……いい? ここはそういう世界。はっきり言って貴方、隙だらけよ。ガスパーダに会いたいなら力をつけること。今はスタートラインにもいない状態だと思いなさい」
この魑魅魍魎の住まう厳しい世界に生まれた彼女から見ると、流央が何の腕も無い丸腰状態ということはお見通し、ということらしい。
「き、君らは?助けてくれないの?」
思わず口にした縋りの言葉にエルナは眉を寄せる。
「もちろん出来る限りのことはするわよ。でもガスパーダに用があるのは貴方でしょう?」
エルナの厳しい口調と空を舞う巨大鳥に、再び泣きそうになる。が、流央は頷くしか無かった。確かにこれまで彼女がしてくれたことだけでも感謝するに十分だし、どこまで頼っていいものなのかわからない。でも、そもそも彼女が自分を救出してくれた理由は何なのだろう。
「分かった……、でもまずどうしたらいいだろう?」
話を誘導したかった流央はちらりとエルナを見る。
「まずは自由を勝ち取りましょう」
返ってきたのは少し予想外なものだった。胸を張るエルナに流央は「は?」と聞き返す。
「自由って、その、俺は既に『自由』なんじゃないの? 君が買い取ってくれたって言ったじゃないか」
言われたエルナは顔こそ無表情だがブーツの先で乾いた地面を掘るような仕草を見せた。流央は再び不安に襲われる。
「ちょっとちょっと!頼むから嘘だけはやめてくれよ!俺はまだ奴隷なわけ……」
「嘘なんかついてないわよ!貴方は私が買い取ったことによってクラヴィヌス家の所有する剣闘士になったってわけ!」
眉間に皺寄せ心外だ、という感情をぶつけてくるエルナに流央は目を瞬かせる。少し考えてから口を尖らせた。
「剣闘士って闘技場で戦う奴隷のことだろう? 何が違うんだよ」
その言葉にエルナは凛と顔を上げる。流央の肩ほどの身長の彼女が大きく見えた。
「所有主は所有する剣闘士を闘技場のテストに挑戦させるかどうかの決定権があるのよ。その『テスト』に合格すればチャンピオンの称号と共に自由が与えられる」
「じょ、冗談だろ!?」
オレンジ色の肌をした異臭を放つ巨人を思い出し、悲鳴とも怒声ともつかない声を上げる。あんな化け物がいる闘技場のテストなど、合格する自信は微塵も沸いてこない。チャンピオンへのテストだとすれば前のように逃げ回って済むとも思えなかった。
「……他に方法は無いわよ。それにさっきも言った通り、貴方は力をつける必要がある。帰りたいと思うなら覚悟を決めなさい!」
淡々と話すエルナの力強い瞳を見て流央は喉を鳴らす。そうしても尚、無意識に逃げ道を探す自分に気がつき、そんな自分に少し嫌悪感が芽生え始めていた。